「もしかしたら/にんげんがえらいのは/かなしくても/つらくても/しにたくても/いきているからかもしれない」 10月のことばは、絵本作家の内田麟太郎さんの詩集から、「ぼくたちは」と題された詩の冒頭のフレーズです。次のような言葉が続きます。「いしはなくだろうか/てつはなくだろうか/ほうせきはなくだろうか/ぼくたちはなく/つらくてつらくてなく/こえをころしてなく/こえをあげてなく/でもぼくたちはいきていく」。まだまだ続きます。25行の詩です。 どうしてこんな詩に出会ったかというと、今夏8月末に北軽井沢の日月庵という坐禅堂で現代禅研究会というお坊さんの勉強会が開かれた。その時、講師の藤原東演師が資料として教示された中にこの詩があった。そこに私が出席していたかというと、私はその勉強会の落第生なので欠席していた。ではどうしたかというと、台所の手伝いに行っていた家人がコピーを持って帰ってきて、「勉強しなさい」と渡してくれたというわけです。 それで、この詩は『ぼくたちはなく』という詩集から直接コピーしたものではなくて、水内喜久雄著『続・一編の詩があなたを強く抱きしめる時がある』(PHP研究所刊)からの引用です。いつもの孫引きです。この本は福山雅治の歌詞あり谷川俊太郎の詩ありといった具合のアンソロジーです。アンソロジーといえば聞こえはよいが、言ってみれば、寄せ集め。寄せ集めでは品がないから、気どっていえば、「詞華集」のこと。禅でいえば室町時代に出版されて、現代にいたるまで、何度も改編改訂されてきた『禅林句集』だって寄せ集めの詞華集。何も恥じることはありません。 さて、寄せ集めといえば、色々な材料を集めた寄せ鍋というのはあまり好きではない。湯豆腐だけの単品一人鍋が好きです。鍋料理について、6月のことばでご紹介した大森洋平著『考証要集』(文春文庫)に「江戸の料理屋に鍋料理はなかった」とあります。どういうことかというと、大鍋をみんなでつつくのはゲスで、小鍋をひとりひとりチヒチビやったわけです。中村吉右衛門演ずる長谷川平蔵の世界です。というわけで、そろそろお鍋の季節になりました。
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