さくらだといふ
春だといふ
一寸、お待ち
どこかに
泣いてる人もあろうに 山村暮鳥
呼び覚まされる 霊性の震災学 | |
金菱 清(ゼミナール) | |
新曜社 |
3月のことはばは、山村暮鳥(明治17年~大正13年)の詩です。没後発刊された詩集『雲』に所収されています。
こんなよい詩を見つけてくるなんてすごいでしょ。でも、正直に書けば孫引きです。何からの孫引きかという、平成11年3月25日付読売新聞『編集手帳』で紹介されていました。東日本大震災2週間後のコラムです。
新聞のコラムから孫引きして直ぐに我がもののように振る舞ったのでは品性を疑われる。何年か温めて、ほとぼりがさめた頃、そっと出したつもりですが、バレバレでしょうか。
新聞のコラムといえば、H28.2.27・日経新聞第1面『春秋』には敬意を表します。「夏なのにコートを着た女性を乗せて目的地に着いたが、後ろの座席には誰もいなかった」という書き出しで始まる記事です。お読みになった方も多いでしょう。東北学院大の学生が1年かけて、石巻市のタクシー運転手に聞き取りしてまとめた、『呼び覚まされる霊性の震災学』を話題にしています。この本のことならば、すでに私も知っていた。でも、『春秋』欄が凄いのは、次に柳田国男の『遠野物語』を引用するからです。『遠野物語』に明治期の三陸大津波で妻子を失った福二という男が幽靈に会う話があるというのです。『春秋』は次のように書きます。
「夜、霧のなかから亡妻とある男が近寄ってきた。男の方が福二と結婚する前に深く心を通わせていされる人物である。妻は「今はこの人と夫なっている」と静かに言い立ち去った」。
へー、『遠野物語』にそんな話があったのかと我が書棚からほこりをかぶった岩波文庫版を探し出してページをめくります。「魂の行方」という項目に分類された、九九話に福二の話がありました。
日本民俗学の創始者の著作を批評するなんておこがましいけれど、他の著作に比べて『遠野物語』は抒情的ですね。その中でも、この九九話は「霧の布(し)きたる夜なりしが」、なんて記述で綺麗なんです。
というわけで、新聞の第1面のコラムは、新聞社の代表的な記者が担当するのでしょうが、よく知っているなぁーと素直に感心します。そんな記事を我がもののようにして知ったかぶりするのは、あまり品性のよいものではない今月のことばです。