撮影 千田完治
今朝のことでした。鐘をつきながら、境内の欅の木をみてきづきました。葉がすべて落ちているのです。なんて、書くと、「カエデもイチョウも欅の葉も、秋に落ちて冬が始まるころには、まる裸になるのでは。三月に葉がないのはあたりまえ」
そんなふうに思うのは、自然と会話をしていない、無粋ものの発想です。確かに、冬が始まる頃にほとんどの葉は落ちます。でも、何十枚かは落ちずに年を越してお正月を迎えます。そこまで残った何枚かはねばりつよい。雪が降ってもおちません。多くの読者がいうでしょう。
「温暖化の影響ではないか」
私も同じように思って、出入りの植木屋に尋ねました。科学的な根拠はないかもしれないけれど、現実と向き合っていることばには説得力があります。
「春先に新しい芽を出す支度ができたから、古い葉を押し出すんだよ。全部が落ちたのは終わりではなくて、始まりってことさ。和尚さん、そんなことも知らなかったのー」
脚に藍色の脚半をまいて、同じ色の地下足袋をはいた職人と同じことばを詩にしたのが、無教会主義キリスト者・内村鑑三(1861~1930)です。
今月のことばに掲げたのは、「寒中の木の芽」と題した詩の冒頭です。でも、作者がほんとうに言いたいのは、四連からなる詩の真ん中の二つなのではないでしょうか。というわけで、全文を紹介します。インターネット上に公開されている「青空文庫」からコピー&ペーストしました。
寒中の木の芽
一、春の枝に花あり
夏の枝に葉あり
秋の枝に果あり
冬の枝に慰(なぐさめ)あり
二、花散りて後に
葉落ちて後に
果失せて後に
芽は枝に顕(あら)はる
三、嗚呼(ああ)憂に沈むものよ
嗚呼不幸をかこつものよ
嗚呼冀望(きぼう)の失せしものよ
春陽の期近し
四、春の枝に花あり
夏の枝に葉あり
秋の枝に果あり
冬の枝に慰あり
底本:「内村鑑三全集3 1894-1896」岩波書店
1982(昭和57)年12月20日発行
底本の親本:「国民之友」284号、署名(内村鑑三)
1896(明治29)年2月22日発行
「散って」「落ちて」「失せて」はじめて芽がでて、「沈んで」「希望も失せない」と、春陽は遠いのです。そんな励ましのことばを弥生三月のことばとしました 。