今月のことばは、『二宮尊徳夜話』の第五「天道人道の論」にあることばだという。「だという」からには孫引きです。柳田聖山著『禅語の四季』(淡交社)から拝借しました。『禅語の四季』には、ずいぶんとお世話になっていて、この欄ですでに紹介したことがあると思っていたら、隠していて、いまだ一度も種明かしをしたことがなかった。
ずいぶんとお世話になって、ボロボロになっているので、最近きれいな古書を買い求めて、二冊を比べたのが冒頭の写真です。どういう流通になってるのかわからないのですが、新品同様の古書というのがあるのです。
さて、今月のことばの「植木」を「薬(くすり)」。「雑草」を「ウィルス」と置きかえて読んでみると、今の世のありさまをてっとりばやくとらえています。まぁー、今の段階では、「人は雑草をとり除いて」はいないのですが。
『禅語の四季』は妙心寺派の月刊誌『花園』に、柳田先生(1922~2006)が「今月のことば」として寄稿したコラムを四季に分類して一冊にまとめたものです。ちなみに「天は植木も雑草も」のことばは、「夏のことば」に分類されています。
ところで、この本の「あとがき」におもしろい一節があるので、それをご紹介して、新型ウィルスを刈り取ることのできない梅雨のことばとします。
かつて通仙洞無文老師が、同じ「花園」誌に十年近く連載された、「白隠和尚坐禅和讃講話」九十八篇を、一冊の本にまとめて出版されたとき、次のような詩によって、あとがきをはじめられたのを、私は今もなお鮮やかに憶えている。
たのしんで書き、くるしんで書き、よろこんで書き、しかたなく書き、書き来り書き去り、落葉のように、花園にたまった九十八篇。
たのしんで読まれ、いやいや読まれ、おもしろく読まれ、しかたなく読まれ、読まれ読まれて、枯葉のように、どこかへ舞ってしまった、九十八篇。
実をいうと、今では大へん気恥かしいことだけれども、私は老師の本が出たとき、ある新聞にたのまれて書評を発表し、右のあとがきを含む、この本の老師の発想そのものを、かなり意地悪く皮肉ったことがある。すでに、二十年も前のことだ。当時なお四十を出たぼかりの私は、老師の時代がかった婆々談義が嫌でたまらず、勇みにまかせてこきおろしたのだ。老師は、そのころの花園大学の長、私は一教員であった。
今、そのころの老師とほぼ同じ年まわりに達した私は、そこにはさまる二十年の歳月の厚さに気付いて、自らの影に驚く抵かないのである。正しく、禅の季節の実感である。時節因縁とは、そうしたものだろう。
「あとがき」は、おもしろいけれど、中身はというと、ちょっとわかりずらいところもある『禅語の四季』です。