始めたことは必ず終わる 田口ランディー
写真 千田完治
1月のことばは、井原西鶴(1649~93)の『世間胸算用』にあるせりふ「蒔かぬ種は生えぬ」でした。蒔いたら芽がでてどうなるか。運良く育って実がなったら、誰かの腹をみたし、あるいは花を咲かせ、見るものの心は和んで、使命をはたすわけです。
2月は、作家の田口ランディーさんの言葉です。1月のことばの続きというか、総括になるでしょうか。種をまく時、心配するわけです。毎日水をやらなければならないだろうか。その世話ができるだうか。無事に育っても大きくなりすぎたら、どうしようか、と。でも心配するな!「始めたことは必ず終わる」から。そう作家は言う。
さて、1月も小正月(15日)を過ぎたころでしょうか。檀家のSさんが「遅くなったけれど、新年のごあいさつに」とやってきました。Sさんは97歳になるお婆さんです。同居しているお孫さんの運転する車に乗ってきて、歩行器のお世話にはなっているけれど、耳も遠くはないし、おしゃれして元気です。
Sさんが言いました。「どうやって、終わるのか。それがわからないから心配でね」。
終わるといってもいろいろあるけれど、お婆さんが言っているのは、自分の命のことです。私は言いました。「大丈夫!みんながやっていることだから」。
私の答えには、出典があります。やはり作家の田中澄江(1908~2000)の名言です。「親も、友達も、みんな死んでゆきました。それくらいのこと、私にだって出来るでしょう」。この言葉は、山田風太郎著『人間臨終図鑑』(徳間書店)でしりました。拙書『おうちで禅』(春陽堂書店)の240頁で引用しています。未だお買い求めでない方はどうぞ(『人間臨終図鑑』ではなくて『おうちで禅』です)。
さて、2月15日は釈尊入滅の日、涅槃会(ねはんえ)です。涅槃とは「吹き消すこと、消滅の意」(広辞苑)。生命が始まれば、必ず終わりがある。復活などしないで、静かに消え去るわけです。釈尊最期の言葉は、「自らを灯(ともしぴ)とせよ、法を灯(ともしび)とせよ」だったと伝えられています。ともしびにたとえた綺麗なことばです。でも、いちどロウソクの消え去るのをよく観察してごらん。芯が全部燃え切ってしまったとしても、完全燃焼はしないのですね。残蝋(ざんろう=もえかす)がどうしても出来てしまう。これ、どう思う!