ナンニモイラナイ/なんにもいらない/何にもいらない
三遍となえておじぎする/欲ばりおりんの朝のお経
レモンとねずみ (童話屋の詩文庫) | |
石垣 りん | |
童話屋 |
今月のことばは詩人・石垣りん(1920~2004)の「すべては欲しいものばかり」と題した詩です。詩集『レモンとねずみ』(童話屋刊)に収められています。文庫サイズのこの本の帯には「故石垣りんの未刊詩40篇」と書かれています。
冒頭でご紹介した5行に次の言葉が続きます。
ナンにもいらない/なんにもいらない/なんにもいらない
三べんうたって恋をする/ものほしそうなおりんのねごと
なんにもいらない/なんにもいらない/なんにもいらない
三べんつぶやきはしをとる/いらないおりんのくいしんぼう
いらないはずのべベをきて/いらないはずの年とって/いのちひとつをもてあます/そのゆたかさをもてあます
ああいらない/なんにもいらない/いりません
確かに「なんにもいらない」のですが、誘惑に負けて買わなくても良いお土産や雑貨を買ってしまう経験は現代人のだれもが共有しています。「ほしがらない」決意がどのくらい強靱でないと「なんにもいらない」を実現できないのか。栄西禅師(1141~1215)の『興禅護国論』が教えてくれます。
『興禅護国論』というと、「大いなる哉心や」で始まる序が有名で、正直に白状すれば、そこしか目をとおしたことなかったのですが、終章近くに「外国の最新事情(大國説話門)」という一節があります。二度の留学経験のある栄西禅師の自慢話と言ったら叱られるかもしれません。禅師はこう書いています。
「九州・博多の通訳から次のような話を聞いた。昔、洛陽で会ったインド僧は、きまり通りの薄い衣しか身につけず、冬の寒さにも余分な衣を着ず、春になったらインドへ帰るといっていた。なぜなら、この地に留まれば、仏制を犯すことになるから」
原始仏教の時代に僧侶が私有を許されたのは袈裟と普段着と肌着の三つの衣服と一枚の食器のみでした。三衣一鉢です。だから、インド僧が寒さ対策をすると三衣以上を私有することになります。三衣一鉢というおきてをまもるために、こんな寒い所には住めない。仏教の布教拡大なんていうのは誰かほかの人にやってもらって!というのです。
これほどまでに、強靱でないと「 なんにもいらない」は護れないわけです。 それが良いことなのか。悪いことなのか。すぐに良い加減に迎合してしまう私などからすれば、堅苦しいけれど、五月の薫風のように 心地良い覚悟であるのは確かです。