9月のことばは俳人の矢島渚男(なぎさお)さんの句集『野菊のうた』に収められている俳句です。解釈するまでもない句ですが、仏壇の前で幼子が小さな手を合わせて、「ありがとました」と、唱えている光景です。「ありがとました」の対象は誰なのか。そんな詮索は無粋というもの。しかし、この句を9月にご紹介すると、こんな声が聞こえてきます。
「住職、この句は春の句ですよ。少しは俳句を勉強してください」
なるほど、歳時記を見ると「彼岸」は春の季語です。彼岸は春と秋にあるのだから、秋はなんというかというと、「秋の彼岸」。「そう言われれば、そうかも」と感じるのが俳句の世界でしょうか。
季語というのは門外漢にとってはやっかいなもので(愛好者にもやっかいかもしれませんが)、たとえば「ブランコ」が春の季語といわれると、「あー、そうかもね」となんとなく納得するけれど、なんとなくで終わってしまう。言葉を越えたところが詩歌の世界だから、「なんとなく」は大事なことなのかもしれません。
ところで、仏壇です。時たまこんな依頼をうけます。
「仏壇を買ったんで、開眼のお経をあげてください」
こう、答えます。
「仏壇は容れ物で家具と同じだから、開眼しなくて良いヨ」
「仏壇は家具」というのが、奇抜だとおもうならば、仏壇屋へ行ってみて!今どきの仏壇屋には「家具調仏壇」といのうがいっぱいならんでいるから。
家具ならば、仏壇専門店で買う必要はないと思うのですが。
この間、ある檀家さんの家へ行ったのです。洋間ばっかりで、伝統的な仏壇が似合うような家ではない。だから、言ったのです。
「小粋な家具を買ってきて、それにご本尊とお位牌を置けばよいのですよ。花瓶だってお気に入りのパカラでよいし、小鉢だって香炉になる」
それから、数ヶ月語。その檀家さんがやってきてすまなそうに言いました。
「やっぱり、仏壇屋さんで買ってしまいました」
そんな経験は何度もしてきたので、「やっぱりね」と思ったけれど、なぜ、小鉢を香炉にしたり、ヨーロッパのアンティーク家具を仏壇に出来ないのだろうかと考えました。そうしたら、二年前の本欄で紹介した一龍斎貞水の次のような言葉を思い出しました。
「型破りなことをやろうと思うなら、まず型をよくしらなければ型破りなことなどできない」
仏壇の本来の姿を知らないから、応用できないんですね。
なぞというだけでは無責任というもの。寺の韋駄天(いだてん=伽藍をまもる守護神)は白い飾り棚に鎮座しています。
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