< 秋紅葉何処ぞに旅の夢を見て 花木柳太 >
( Pepper mint によるPixaboyからの画像 )
平和な句だなあと我ながら思う。
どこかに秋月の紅葉の写真があったはずだが見つからない。
人の幸せは何によるのだろうと思ったりする秋の夜長
思えば色々なことがあったが記憶は遥か彼方か。
色褪せぬ記憶もある。
あざやかだった記憶もまるでセピア色。
後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
人は誰でもある程度行き当たりばったりなのかと思う。
人目にはエリートコースを歩いている人でさえそうなのだから
そんな人の「行き当たりばったりだった。」との本を読んで
嗚呼私もそうだったと思える。
ああすれば良かった。ああしてやればよかった。
と後悔することも多い。
私はとても敬虔な者ではないのに死後は恐れない。
何となく死後の世界があるのではと云う淡い期待を持っている。
カトリックの末席を汚しているからばかりではない。
説明は不可能だがそんな気がとてもする。
<聖書の一節を書いてみます。>
いかに幸いなことか
神に逆らうものの計らいに従って歩まず
罪あるものの道にとどまらず
傲慢なものと共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
その葉もしおれることがない。
その人の成すところはすべて、繁栄をもたらす。
詩篇1-1~3
なんとまぁ こころ深い秋色の写真…。
独り…旅をしながら、あるいは知らない公園に行き、
こんなにも美しい光景に触れれば 神様について思ってしまいます。
何事につけ信心深さにかける私ですが、
四季の自然の美しさには「神の造形の力」を思います。
若い頃、日本海経由で北海道に向かう寝台列車で
夜も明け 寝台がたたまれ、青森駅が近づいた頃、
年老いたシスターの方と話したことがあります。
一時よく歌われたスール・スーリールの歌について楽しく語り合った後
「神様を信じていますか?」と 私が不躾な問いを投げかけると
「今のあなたの笑顔の中にも神様がいらっしゃいますよ」と。
スール・スーリール「ドミニク」
https://www.youtube.com/watch?v=NehSCv9jf1g
私は本当に敬虔な者ではありませんので(謙遜ではなく)人に教えることは当然できません。
私は40歳までは人は死んだのちは土に返るという程度の宗教観しか持っていませんでした。
ですが、神は人を動かすことができるとは思います。
ご子息がミッション系の学校に通っていた事。
若いころ日本海経由で北海道に向かう列車で年老いたシスターに楽しく語り合った事。
そして二人の会話・・その中に神様からの隠されたメッセージが潜んでいたとしたら。
先ほども申しました通り「神は人を動かせます。」
或いは死後ののちデ某さんは天国で「何度かメッセージを送ったのに・・」と神様から告げられるかも知れません。(笑い)
私も洗礼を受けたのち嗚呼そうだのかも知れないと思う事がありました。
何も考えないでいた若いころ定時制高校の教師が「花木、進学するなら上智は推薦で行けるぞ」
と言いました。高校は定時制の機械科でした。
何しろお金がなくて入学金も自分でというか就職先から借りてという有様。
結局、入学金の安い他の大学に行きました。
少し余談が過ぎましたがそのように後で分かることがあるものです。
あの時カトリック系の大学に行っていたら・・と思ったものです。何かの伏線のように・・。
私は何とかデ某さんに分かって欲しい、神の存在を信じて欲しいとこれを書いています。
それに気が付きます。聖書には神は「わたしはある」と書いてあります。「私はいる」ではないのです。
デ某さんは今のままで良いのかも知れません。
>四季の自然の美しさには「神の造形の力。」を感じます。
デ某さんはもう分っていらっしゃるのかも知れない。
>「神を信じますか?」
>「今のあなたの笑顔の中にも神様がいらっしゃいますよ」
流石はシスターですね。こんなに長々と書いてシスターのこの一言に及びません。
美しいものを観たときに花でも星でもこれを創ったのは貴方方に対する「わたしはある」というメッセージなのだよ・・
と思えればいいですね。
もしかしたら、神様はすべての宗教を超えて「ある」のかも知れません。
長々ととりとめのないコメントになりましたが
最後に私の洗礼を受けた教会は「ドミニコ会」でした。