現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

近代の偶像(イドラ)

2009-04-12 13:13:29 | 社会 経済

 社会主義は崩壊したけれど(その制度の内部に潜む非能率な部分「極端な平等は社会の停滞を招く」、競争原理が働かないので技術革新や切磋琢磨するということが少なくなる。何処かの幼稚園や小学校でカケッコのときに手を繋いでゴールさせたと言うおかしな現象が起こってしまいかねない。(この国のある組織がなかなか改革できないでいる背景にこんな要素があるようなことを書いていた週刊誌がある。イソップ物語、228話参照)本来、欲心こそ行動の源である。(88話)」と権力集中による弊害。参考文献、イソップ経済学。)

近代社会は体制のいかんに関わらず高度に発展した商品経済の上に築かれている。近年ではその商品が株式、保険や金融関係のものまで生まれてきている。先物取引やファンドといったまとまったお金のことである。

資本主義もまた資本の論理(一端投下された資本は儲けという恋人を求めて世界中を飛び回る。)や比較生産費の低いところに資本投下されて国内の産業が空洞化してしまい労働力商品がだぶついてしまっている。【このシステムの中では労働力もまた商品ということになる。あなた株式会社、参照】多くの失業者やフリーター・ニートと呼ばれる人々やワーキングファという現象になっている。結局のところ当初の資本主義に戻ってしまっているのではなかろうか。景気変動のたびに多くの失業者や生産過剰部分を調整するということが先の現象(完全失業者を沢山出さない代わりに二重構造として広く浅くなっている。)に変化しているに過ぎないのではなかろうか。

社会保障をはじめとしたセフテイネットが整っているとはいえ年間三万人以上が自殺している社会は何処かが異常である。すべての現象が因果律や相互律ということになるのだろう(何らかの原因があるから現象として発生してきている。)

そして、「我々は今どこにいて、これから、どこへ向かっているのか。夢ナビノートの原理。参照。」も皆目見当がつかずにいるのかもしれない。指導者たちも新たなパラダイム(枠組みや仕組み)を示せずにいるのだろう。【今までのパラダイムが制度の上で疲労を起こしてしまっている。パラダイムがシフトしつつあるのだが、・・・・。】

どちらの体制も近代がもたらしたものであり、その根っこの部分では(生活の便益品を商品にするという大前提と国民経済的に見れば多くの無駄と浪費を制度化しながら、・・・・。

最近、環境問題という視点からその転換が迫られてきている。どんな社会になろうがものづくりをベースにしない社会はやがて衰退するだろう。)大して変わりがなかったと思われる。(何を言いたいのかと言うと、数学の共通項をくくると言う作業をしていただければよく理解できる。A(a+b+c)=Aa+Ab+Acであるが、人間が絡む場合はそう単純ではない。)

そして、この大前提も地球の能力以上にはならないだろう「今の消費レベルを、ずっと維持していくには地球が3個いる。」といっている人達がいる。資源等の争奪戦が繰り広げられている希少資源や環境からの制約を受けつつある時代になってきている(エントロピーという概念はここにも存在するだけでなく、経済学上の収穫逓減の法則や費用逓増の法則の中にもしっかり根付いている。)。そういうものが値上がりするのもまた相互律である。

近代のイドラの最大の課題は資源にしろ、環境にしても、無限にあるという前提の上に構築された夢物語だったのかも知れない。「人々は科学で乗り越えられるものだ。」と錯覚してしまったのかもしれない。それを自動律だといって相互律とペアにしていた学者さんがいる。【参考文献、共同体の提唱、難波田 春夫著 ダイヤモンド・タイム社】一度読んでいただきたい本であるが、絶版になっているかもしれない。

閉じられたシステムの中で目的を達しなければならないのである。具体的に言うと、自然であろうが(その浄化システム)、人工的にでも(人間の努力での自然に帰してやる。)循環できるシステムの構築が急がれている【ゼロ・エミッションの発想。宇宙船地球号の経済学、ゴミを砂金に変える発想、参照】どちらの体制も優先すべきことと解決する手段が違っていただけで到達しなければならないところは同じだったのかもしれない。

 注 ゼロ・エミッション 生産する中で一切の捨てるものが出ないような生産方法のことである。


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