現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

継続は力なり

2009-01-30 17:05:05 | 生涯学習の決意

「2時間×366日×40年以上ということ、人生大学、60年、いまだ留年中」

 表題の言葉を誰が言ったのかは知らない。若いころよりこの格言を肝に銘じてきた。実際、中学の担任はこのことを体で覚えさせた節があるのだ。中学の時は何気なく過ごしてしまったのだが、他のクラスと決定的に違ったのは、三年間、班で構成された人たちによって毎日、朝教室の掃除をしてきたことである。

先生は意図的に学びの姿勢を教えようとしたものと思われる(今でも先生と付き合いはあるが、この件に関しては確認を取っていない。)。友達同士で会話した記憶しか残っていないが、「二組の廊下が一番綺麗だ。」「朝掃除をしているのは二組だけだ。」という話をした。学校の教室に通じる階段の踊り場である。

そこにいたのは数人の女子を含めた五~六人ほどの同級生たちであった。コース別授業のための教室に移動をしている間のやり取りである。

もうちょっと時間がすすみ、【学びの姿勢と継続の力(朝の掃除は三年間実行してきたではないか。)だ。】と思えるようになった。「私は断続的にしか勉強できなかったので、この継続の力を利用すれば何とかなる。」と誓いを立てたのである。

つまり、専門家ではないので関心のあることを優先して、そうでなければ私独特の脱線してしまいかねないのである。「自己分析もここまでしっかりしていれば問題はなかろう。」誰も誉めてくれないので自分を誉めることにして、独学をしようと決意したということである。

一日二時間、毎日なるべくなら規則的に書物、専門書、仕事に関係すること、関心のある講演会、テレビの番組等を利用して、如何しても時間的にむりな時は次の日又は休日に加算するか、一週間か一ヶ月の間に取り戻すという方法で生涯学習し続けようと考えた。

厳密にカウントしていたということはない。興味のあることは時間を忘れさせてくれるというメリットがある。今にして思えば実に変な決意である。   

ある時、仕事関係の仲間と一緒にすし屋(現在はないが、裾花中学の近くのエンジュ寿司という店。このことですら三十五年以上前のことである。)で飲んでいたら「専門家でなくても、継続して、書物に換算して五十冊位、其れは真剣に専門家の話を聞くという行為でもよい。その人の理解の程度にも寄るが、ごく平均的なレベルの人でも一生涯続ければ専門化の領域に到達できる。」といっていた人がいた。その人はおそらく長野工業高校の先生だろうと思っていた。

実際、そのようなことを言っていた人はもう一人いた。この間は少なく見積もっても七年から八年の間隔があったと理解している。このようなアドバイスは同時にやってくるということはない。其れを受け止めるだけの感性が必要であるということだ。「よし、この方法だ。それを利用させていただく、私にとっては良いアドバイスである」【決断と腹が決まってしまえば、行動はそれ程苦にはならない。関心があれば、好奇心があれば(AIDOMの最初の二つ)、学びの材料は何処にでも転がっているではないか。何も机や本に向かわなくても学びの機会はあることになる。】

それ以後、学びの時間を用意することで、如何しても外せない、付き合いでお酒を飲んできても二合や三合ならば専門書の記述が理解できるという特技を身につけることになる。

時々矛盾する命題の処理に困りながらも、併記しておくことで時間をかけてみると弁証法的な解決がつくことも知ったのである。「その解決策は実は意外な所からやってくるものだなぁ。」という体験をした。学問的な分野ではこのことは暗号の形でやってくるらしい。詳しいことは【知性の滑稽】を参考にされたい。

このことは発明、発見に多いに役立っている。基本的な態度と幾分かの能力は出来ていると勝手に考えている。断続的に成らざるをえない弊害は「玉を拾う屑籠とその手法」で解消できると判断していた。この頃より、この手法を積極的に取り入れ始めていたことになる。

   【努力して待てば沸きける着想の甘味な時や休日の午後】(歌創造学より)


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