歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「どうする家康」第1回の歴史学的考察・国衆史観について

2023-01-12 | どうする家康
ドラマの内容というより歴史学の話です。ドラマ批判はしません。それから松潤批判もしません。

1,遊んでいる松潤には学説的裏付けがある?

誰でも気が付くように、語りは「従来説(安定説)」で「人質で苦労」と言いながら、松潤自体は「新説」に基づいて楽しそうに遊んで恋愛までしています。
これは時代考証のおひとりである柴裕之氏の「新説=仮説」を「デフォルメした」ものと考えていいと思います。柴氏には「徳川家康・境界の領主から天下人へ (中世から近世へ)」「織田信長・戦国時代の正義を貫く」「青年家康 松平元康の実像 (角川選書 662)」などの著作があり、一応私は全部読んでいます。

・今川時代の徳川家康は「人質」ではない。なぜなら今川にとって大切な国衆だから。国衆こそ戦国を動かした勢力。今川は大切な国衆の跡継ぎを保護していた。
・今川では一門衆同等の扱いを受けていた。いわば御曹司であった。だから瀬名とも結婚できた。
・戦国期の紛争は基本的には境目紛争であり、戦国大名が目指したのは領域内の「平和」であった。

という説です。うまくまとまっていないかも知れないので、あとは原著で確かめてください。
さらに加えて「徳川(神君)史観の克服」を主張されています。家康が散々苦労したり、太原雪斎から色々ありがたい教えを受けたりするのは「基本的には嘘」という立場だと思います。
今川と後に戦争をしますし、築山殿もああですから、それを合理化するためには、「裏切り」としないためには「今川でいじめられた伝説」が必要だったということになるのでしょう。
徳川史観を克服すると「どうなるのだろう」と思って読んだのですが、おそらく「歴史の真実が分かる」ということだと思います。もしくは徳川家康が「きわめて特別な存在」ではなく、他の戦国大名とさして変わらぬ(戦国大名は優れていたという前提)大名だということが分かるということでしょう。

「青年家康」はちょっと前に読んだのですが、後の二冊は一年前なのでよく覚えていないのです。「織田信長、戦国の正義」では後書きで「革命児信長という像」が「嫌い」または「そりが合わない」と書かれていたように記憶しています。「なるほど、その立場か」と心に残ったのです。もちろん好き嫌いだけで論じておられるわけではありません。

2,信長は普通の戦国武将である

柴さん世代の学者さんがよくこれを言います。黒田基樹さんなんかもそうですね。黒田さんの名前を出したのは昨日読んだばかりだからです。
この場合「普通」というのは、そんなに「けなしているわけでも」なさそうです。戦国大名というのは、自力で領域を支配し、他に頼らず、同質の領主である国衆と契約関係を結び、国力の源泉である百姓にも気を配り、、、とそりゃ大変で能力が高くないとできないお仕事だという前提があります。戦国大名はみんなすごい。だから信長も「普通で凄い」という解釈も可能です。
信長は他の戦国大名に比べて「基盤となるべき村、郷に対する政治」について特に「先進性がない」どころか、劣っているようです。革新性がない。となると、なぜ「勝ったのか」という疑問は当然湧いてきます。劣っている側が勝っている側に勝つ。そのカラクリを探求するのは、とっても楽しそうな感じがしてきます。

2年前の歴史を趣味で勉強しはじめる前の私なら「信長は劣っている」を承諾しなかったと思います。でも今は、信長・秀吉・家康の凄さは突出してなどいない、というのは、一理あると思うのです。理解はできる。でも「納得」はできていません。劣っている側が勝っている側に勝つ「カラクリ」がまだ理解できないからです。

また「ある基準を設定して、その基準からみて同質だ、または劣っている」というような思考は、権門体制論と同じように「平板」になる恐れがあります。所詮は基準次第であり、基準の恣意性を完全に払拭することは原理的に不可能だと思うからです。

これは今のテーマとは直接には関係ありませんが、永原慶二さんは「ともに荘園領主なのだから」という「基準」を設定して「武家・公家・寺家は同質」とする黒田敏雄氏の「権門体制論」(現在、多数派を形成する歴史観)を批判してこう書いています。
「公武の権門が一体として国家権力を掌握し、人民支配を実現しているとするような中世国家像が、究極の関係としては不当でないとしても、基盤をなす中世の社会の特有の構造への配慮を欠く、平面的な理解であることは明らかであろう」(日本中世の社会と国家、1982年)

ある基準(それなりに重要な)を設定して「同質だ」とするのはある意味簡単なのですが、それによって「個別特有の現実」が捨象されてしまうことへ、十分な「配慮」をするべきでしょう。戦国大名はみな「本質的には同質」なのかという疑問が私にはあるのです。疑問がある、とは勉強不足で分からないということ。どんな権威ある先生が言ったとしても、権威信仰のない私は、自分で考えて納得しないうちは「得心」はできない哀しいタイプなのです。

3,とにかく国衆と「村」に着目せよ

黒田基樹さんの「国衆」「戦国大名、政策、統治、戦争」「百姓からみた戦国大名」の三冊を昨日並行して読んでました。まだ熟読してません。だから内容をまとめることはできません。黒田さんは「どうする家康」の時代考証ではありませんが、私の目からは柴さんなどとは同じような方向性を持っているように思います。ただし権門体制論に対する姿勢にはどうやら本質的な違いがあるようにも思えます。ともあれ、信長が普通の大名ということは、徳川家康も「普通の大名」ということになるのだと思います。豊臣秀吉も同じ。検地なんてどの戦国大名も普通にやっている。別に秀吉の特許ではない。どうする家康の歴史学的背景にはそうした新説(仮説)の潮流があると思います。

ただ黒田基樹さんはちと面白いのです。「民衆」や「村」や「百姓」の視点から戦国大名を見ている。これも感想に過ぎないのですが、「下の構造」に注目する点においては、私が好んで読んでいる永原慶二氏の中世社会論に「似ているように」見えます。私は基本新説(仮説)派が苦手なのですが、黒田さんは永原さんと共通性があるので、読みやすいのです。ご本人は藤本久志氏(豊臣平和令、雑兵たちの戦場、のお方)の影響を受けたと書いておられます。黒田基樹さんの戦国大名論は、戦国大名や国衆を徹底して自力による独立的存在と論証している点が特徴で、ある意味痛快です。室町幕府や朝廷との関係など「本質的でない」としているからです。軽々と権門体制論を乗り越えているわけで、権門体制論(黒田俊雄史観)を面白いと思い、高い著作集を買いながらも「これは間違っている」と感じている私としては実に興味深い論考です。黒田基樹さんは、織豊研究は70年代までは「下の構造」に着目したが、80年代以降は停滞して上級権力者を追いかける政治史ばかりだ、と書いていますから、どう考えても永原さんたちを意識しているわけで、だから私にとっては読みやすいのです。ただし実際は黒田さんは永原さんをとことん否定しています。だから権力観においては私と立場が違いますが、そのお仕事の緻密さには敬意を払わざるえません。といって同意はしません。

ちなみに私が永原さんを読んだのは1年ぐらい前ですから、昔勉強したわけではありません。史学科でもなんでもないのです。2年前から趣味で学者さんの本を読んで「あーだこーだ」言ってるだけです。ただ戦国史を考えることも、鎌倉史を考えることも、私にとっては現代史や現代政治を考えることとほぼ同じで、だからこそ興味深いのだと思います。

4,なんで信長はああだったのか。

新説ばかりかというと、信長はあいも変わらぬ感じで、マントをつけて?首まで投げてました。(私は個人的にあの信長が好きですが)。時代考証家はあくまで助言者であって、作品を支配しているわけではないので、あれは脚本家の創作でしょう。「創作」というのなら柴さんの新説をデフォルメして「優雅な今川時代の家康」を描いたのも脚本家です。「みんな大泉のせい」ならぬ「みんな脚本家のせい」なのです。時代考証担当が作品を作っているわけではありません。

戦国時代研究家からは「普通の大名」とめでたく認定された信長ですが、「織豊期研究家」はまだ認めていないみたいです。と黒田さんが解説しています。織豊期研究家とは「どうする家康」の時代考証担当の中では小和田さんということになります。なるほど小和田さんは革新的信長の像を捨てていないし、捨てる必要もないし、「異論があってこその学問」ですから、頑張ってほしいと思います。「新説によって否定されている」という言葉は好ましいとは思えません。そのためにはどうやら織豊研究の若手が「信長の顔ばかり見ずに」「下の構造。村や年貢や公事の実態」を解明しないといけないようです。信長の「家計」はほぼ何も明らかになっていないとのことです。

私は必ずしも「革新的信長像を望んではいません」。しかし「異論」がないと「学問的全体主義」のようになってしまって不健全です。大いに論議をすべきです。80年代半ばまでの学者間の互いをリスペクトしながらの「真剣勝負」にはしびれるものを感じます。

さて、視聴率を要求される娯楽ドラマ(大河ドラマ)では「普通の大名」として描いたのではつまらないし、といって「革命児」にすると新説派から文句がでるし、信長像は大変だろうなと思います。迷走状態。結果、サイコパスというか一種の異常者として描く方向に今の段階ではなっています。「麒麟がくる」がそうでした。また「どうする家康」では家康から「ケダモノ」と言われています。

しばらく信長を考えてなかったので、何とも言えないのですが、サイコパスはサイコパスでまた「違うな」と私は思っています。よくわからない不思議な人です。信長は。そういえば「秀吉の武威、信長の武威」の黒嶋敏さんも「像が結べない」「時期によって全く違う像になる」と書いておられたなと、今思い出しました。同質に昇華されない、個別特有な側面が信長にはある「可能性」は残ります。楽市楽座も関所の廃止も、流通への着目も、なにもかも信長の独自政策とは言えないようで、となるとなんなのでしょうか。あるいは「先進的政策のパクリの天才」だったのかも知れません(笑)。もしくは「境目」を超えて戦争をしかける戦う機械、異常なる侵略者にして武器信奉者、、、、もちろんこれは半ば冗談です。信長の一見異常な行動の基礎に、どんな「下の構造」があったのか。私の関心は信長自体より、信長をそう突き動かした「時代の要請」に移っています。

さて新説の中でも、2014年の東大の金子拓さん「織田信長、天下人の実像」は「死の直前まで天下など狙っていなかった」という部分に私は同意できないにせよ、論証の仕方や資料に基づく論理展開は実に見事なもので、かなりの説得力を持っています。NHKはヒストリアで前にこれを特集していて、その題名が「世にもマジメな覇王」です。この説は「麒麟がくる」の信長に多大な影響を与えたと思います(伝統的秩序を意外なほど大事にするところなど)が、そうは言っても、「麒麟がくる」自体の描き方は、母親の愛情を受けずに育った情緒不安定なサイコパスでした。

ところが「世にもマジメな覇王」、金子さんが描く信長はサイコパスとはほど遠い「割とまともな人間」で、ただ一点「天下静謐原理主義者」である点においてのみ強烈なキャラです。静謐とは一応平和という意味ですが、平和というより「ただ戦争してないだけという状態」を指します。信長の場合特にそうで「平和な民政」への志向が薄いようです。「天下静謐の信長」は「暴走する正義」と言おうか、「天下静謐」のためなら、一向衆を虐殺もするし、京都も焼き尽くすし、延暦寺も焼き、現実の天皇(正親町)でも天下静謐に反していると思えば「容赦なく𠮟りつける、許しはしない」存在として描かれています。もちろん史料の裏付けがあります。というか金子さんは東大准教授で「史料のプロ、プロ中のプロ」です。史料分析が半端なく、論証の仕方が見事なので、私などグーの根もでないのですが、検討するとしたらこの本はとても検討しがいがあると思います。黒田基樹さんの本もお勧めです。「戦国大名」には特に驚かされます。検討(批判)しがいのある書物です。

BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

2022-12-31 | 感想
NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。
全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。

「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。

というのが素直な感想。あとは歴史的観点から見た「野暮な興味」の話です。

・時代設定が分かりませんでした。でも木刀で練習してました。ということは11代将軍の天保期より前かなと感じました。

・木刀で戦うというのは、「ほぼ殺し合い」だと思うけど、竹刀剣術普及前はどうだったのかと考えました。

・堀家は旗本で七千石。ほとんど大名ですね。

・悪旗本が「旗本のくせに金貸しをしていた」ということで逮捕されました。江戸時代のことは全く分かりませんが、室町期には幕府も金貸ししてたし、どうなのかな、江戸期はそうだったのかなと考えました。今のところあんまり調べる気はありません。


儒教とジェンダー平等について考えてみた

2022-12-30 | 儒教
私は男性で、中一ぐらいまでは「女のくせに」って言っていたような記憶があります。ところが高校に入った頃には完全な「男女同権論者」だった。その間、どういう精神的経緯があったのか。よく覚えていません。それはさておき、日本で男女同権とか、ジェンダー平等がなかなか実現しないのは、そりゃ色々理由はあるでしょうが、日本が「儒教の国」であることが最大の要因だと思います。

儒教は「江戸時代に日本人の伝統となった」と思われていますが、調べてみるとそうではない。なんと律令国家の成立(7世紀)まで遡ります。これはウィキペディアで王土王民思想を読んもらえれば分かります。そもそも「日本律令国家の建国理念」が「儒教」なのです。仏教ではありせん。また律令の背景にある思想は法家ではないようです。

儒教の中でも「礼の思想」が実は男女の「区別」に最も影響を与えています。「礼儀が行き着くところ、男女区別あり」なのですが「区別というより、女性の隔離であり、つまりは差別」なのです。「日本人は礼儀正しい」などと言って喜んでいる場合じゃないということになります(笑)

ここで困った問題が生じます。儒教が男女差別の思想であること、男尊女卑の思想であることは、明確です。でも7世紀から日本の土壌に沁みこんでいるのです。もはや「日本固有の伝統」と言っても過言ではない。実際、私だって「孝行」とか「礼儀」とか結構好きです。でも儒教という伝統を大切にしていたら、いつまで経ってもジェンダー平等が実現しないという困った事態となります。もっとも反論も可能です。それは女流作家、紫式部などが存在したり、女院といわれる貴族が広大な荘園を有していたりしたことです。また尼将軍政子の存在なども有力な反論でしょう。実はそこが私にはまだ分からない。日本史学者も深く考えている感じがしない(と網野善彦さんも書いている)。だから面白い。いずれ考えてみたい問題です。蛇足で書けば「からごころ」を排して「やまとごころ」などいう過激な思想にもとても同調できません。どこまで遡るのか。縄文時代か。縄文文化はシベリア、中国、南方文化などの複合体ですし、そもそも縄文時代、日本列島はあっても日本はありません。

さて儒教の話。なお「家父長制度」に触れるべきですが、まだちょっと考えている最中で、このブログでは触れません。

仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌、、、義は正しさ、仁はやさしさ、悌は長男が偉いとか親の面倒をみるとか、弟は逆らうなとかいうことです。

礼は「人間の区別」です。儒教は「身分社会における社会秩序」を目指す思想・宗教です。宗教性は「祖先の祭祀に異常なほどこだわる」ことに現れますが、今はそこまで「祖先を祭祀」しているのは天皇家と一部宗教機関ぐらいのものなので、「宗教だ」ということがちょっと理解しにくい事態になっています。この状況については、儒教を教義とする明治の国家神道が、あらゆる宗教の上にあるものとして、「宗教ではない」という超然的地位を与えられたことが大きい、という可能性を私は考えています。

ともかく儒教は「一般的な社会秩序を目指している」わけではありません。「身分制社会の秩序」です。

日本でいうと昔の官位5位以上、まあギリ6位以上の男性のみが「君子になる資格」を持ちます。それ以下の、例えば民衆は「忙しくて自己修養などできない」ですから、君子になる資格はありません。
同じように君子になれないのが「女性とこども」です。「女こどもは口出すな」という嫌な表現は、ここが起源です。ただし女性は婚約すれば多少人間扱いされるようです。なぜなのかは一応説明を読みましたが、わけわかりません。多少人間扱いされても、やっぱり男性の付属物扱いは変わりません。女性がいると男性が欲情を持ち、性が乱れ、身分制社会の秩序が安定しない。だから「女性を隔離」する。男女〇歳にして席を同じくしない。あまりに極端です。

すべて「礼の思想」です。礼とは人間の区別。やっぱり「日本人は礼儀正しい」とか「礼に始まり礼に終わる」とか言って喜んでいてはいけない、ようです。礼儀もほどほどでいいのです。

ジェンダー平等を目指すとき、それが「今や西欧の世界基準だ」ということは有効だと思います。日本人は黒船に弱いですからね。それと同時に日本における男女不平等の起源を考えることも重要だと思います。儒教には「いい徳目もある」、実は私もそう思います。でも実際は「教育勅語」にみられるように「それぞれが分際に応じて行動しろ」という「身分差別の思想」です。しかし儒教そのものを完全になくすと一種の文化破壊となります。文化大革命みたいに。
だから「新しい倫理」を考えるしかない。そしてすくなくとも礼思想の一部は現代にそぐわないものとして排除するべきだと考えます。いかにも甘い対応ですが、文化というのは一挙に変えると弊害が多い。悌などは既に淘汰されており、忠なども弱体化している。儒教もやがて淘汰されていくと思いますが、仁、礼、孝などに関する「代替倫理」がないままに無くしてしまえば、混乱の方が大きくなる。とにもかくにも、儒教に多少いい徳目があるにせよ、その本質は身分制社会を土台にした差別思想であるという認識だけは持っておく必要があると思います。

蛇足
日本律令国家の政治理念が「儒教的徳治思想」であることは自明です。しかしこの「徳治」というのが実はたちが悪いのです。要するに「京都で祈っていればいい」「金かけて儀礼の式を行えばいい」「内裏とかを立派にして帝の徳を高めればいい」「文章経国、文章を興して天を動かせばいい。具体的には漢文の会を開いていればいい。和歌の会を開いていればいい」ということで、現実的な民政思想ではありません。だから地方は乱れ、京都だって群盗が満ちて治安が悪化するのです。鎌倉幕府はこうした非現実的な「徳治の一部」に批判を向けました。もっとも鎌倉幕府だって徳治は採用し、やたら儀式を行っています。

「和歌は政治である」、実はこれは「非常にたちの悪い、民を全く考慮しない思想」だと、今、私は考えています。

参考にしたのは山川出版「日本国家史」、桃崎有一郎「礼とは何か」など。

権門体制ではなく、権門顕密体制である。

2022-12-25 | 権門体制論
日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。

ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。

私の日本史の構造・構想

1,身分社会の変化を考える。

身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。

その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」

このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りました。今、起こっている動きは、女性と男性の「身分差を縮める」という過程であると考えるべきだと思います。むろんそれですべてが解決し、日本史が終わるわけではなく、今後も様々な見えない身分差が解消していくのではないか。「身分差史」というものを提唱したいと思います。

2,摂関時代から院政期、国家はあったのか

短く書きますが、なかったのではないか。なかったという仮説を立てて考えることが有効ではないか。京都地方政権(朝廷)は、文章上と税収だけをもって「国家がある」としていたのではないか。つまりこのころの国家は「バーチャル」なものではないか。そういうことを考えます。すると「公」がないのですから、「荘園公領制」は幻であり「私的所有」だけがあったことになります。天皇が有している荘園はもちろん私有で、それで儀礼とか建物建築、文章経国といった、民政とはまるで関係のないことをしていました。一部裁判ですがそれをもって公とまではいえない。それは国家ではない。したがって、天皇・上皇・摂関家が有していても「国家的性格」などもたない。そういう仮説を立てて、日本史を眺めるとどうなるのか。そういうことに興味があります。

3,権門体制論は「まやかし」ではありませんが、権門体制は「まやかし」です。これは提唱者の黒田俊雄氏自身がそう書いているのです。
特に権門体制が、正確には権門顕密体制と呼ぶべきものであることが重要です。自らの権威を顕密、特に密教の呪術機能によって確立しようとするとき、そこに「まやかし、詐術」が生じます。

権門体制は「権門顕密体制」とするのが、黒田俊雄氏の主張からみて適当と考えます。その時、それが一種の幻想の体系(密教的呪術に基づく)なのだということを、十分に留意する必要があるでしょう。

「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

2022-12-23 | 鎌倉殿の13人
全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。

まず全体にどんなことを書くかというと、
・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。
・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。
・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。
・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。

1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていた

とまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。
全体としては後鳥羽の描き方は良かったと思うのですよ。バランスがとれていた。この世界には僕のように学者風に突き放して「後鳥羽」と書く人間もいれば、「後鳥羽上皇さま」と書く人間もいるわけでしょ。そういうどっちの人々にもさほど不満はでなかったと思います。「後鳥羽の顔を立ててやる」描写もちゃんと入ってました。最後だって自分は武を磨いてきたから先頭に立つと言ったわけでしょ。それを兼子さんに後白河の遺言を出されて止められる。藤原秀康は「兵は1万」と言ったけど、あとで「読み違え」と言ってますよね。実際は2000でしょう。これは上皇が流鏑馬の会と称して兵を募った時に集まった数です。その数が承久の乱でも実数となったでしょう。対して泰時の軍は「1万」とドラマで言っています。あと二部隊、朝時隊と武田隊がありますから総勢2万。それを吾妻鏡では約10倍にして19万。どっちにせよ朝廷軍の10倍です。後鳥羽が先頭に立っても逆転は望めません。上皇の「威」で寝返るぐらいならそもそも泰時軍に合流しないでしょう。天皇・上皇の「権威」は本地垂迹(地元の神と国家仏教が融合)の顕密仏教の「たまもの」なんですが、武士の心には「信じつつも逃れたい」という矛盾した心情があったと指摘されています。
圧倒的に不利だから、後鳥羽が先頭に立とうとした事実はないと思うけど、ドラマでは先頭に立とうとした。後鳥羽の顔も立ててやっているわけです。それに「立とうとしなかった」ということを証明することは難しいと思います。承久記では敗走した武士たちを門を閉ざして入れない後鳥羽の姿が描かれ「大臆病の君」と味方武士に罵倒されていますが、承久記はあくまで物語です。

2,「麒麟がくる」の正親町天皇の描き方は変だった

東大の金子拓さんは東大の「史料の専門家」なんですが、こう書いているのですね。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」

つまり天皇や朝廷は「縁故・コネ・自己都合」によって数少ない寺社関係の裁判を「不公平に」裁くのですね。それが常態だったんです。ところが信長は戦国大名だから一応「公平」という感覚を知っている。あと前に出した判決と整合性がないといけないとも思っている。それで天皇に注意するわけです。そうすると正親町は最初分からないのだけど、分かって驚いてパニックになる。で、息子を先頭に立てて隠れちゃって、信長に謝るわけです。(絹衣相論、興福寺別当職相論)

そういうこと知っていると、「ドラマは史実を描かなくてもいいけど」、あそこまで「天皇を美化」するのはいかにもおかしい。天皇は今もいる存在ですから、あんな嘘をついちゃいけない、そう思って違和感だけが残るのです。史実を描けとは言わないが、天皇に関してだけはあそこまでの嘘を描いていけない。そう思うということです。

それに比べて「鎌倉殿」の後鳥羽の描き方というのは、コメディタッチでデフォルメされてはいるものの「史実の本質」みたいのはちゃんと抑えていると思います。バランスがいいですね。

3,後鳥羽上皇はなぜ承久の乱を起こしたのだろう

それにしても分からないのは、上皇の動機です。作品でも学説でも「義時追討で鎌倉の不和を誘発し、北条を排除して、後鳥羽が主導権を握る」となっているのですね。でも別に朝廷は幕府から疎外されていなかったわけです。それどころか朝廷を構成する公家の荘園には地頭がいて、この地頭は税を公家に納めることになっていたのです。「納めないで着服する地頭」もいて、後白河なんかは頼朝に文句言うのですが、頼朝はあまり積極的には動かないけど「それはすみません。よくよく注意します」と返答するわけです。あまり動かないのですけどね。
武士の存在というのは税の徴収にとっては必要だったわけです。ある程度ちゃんと朝廷にも税を納めていた。なんでそこで満足しなかったのか。この辺りは荘園の問題になるので、素人には難しいのですが、考えてみたい問題です。
「義時追討」で引き起こされるのは鎌倉の混乱だけで「京に攻めてくる可能性」なんてちっとも考えていなかったのかも知れません。とにかくリスクの多い勝負に出過ぎであって、上皇の動機というのは一からちゃんと考え直してみるべきかなと思います。

天皇や上皇の描き方というのは、現代の歴史認識にも直接つながる問題だから慎重にならんといけないと思うわけです。もっともこういう感覚も僕ら世代の感覚で、今の若い人はまた全く違った感覚を持っているのかも知れません。とにかくその点において「鎌倉殿」は上皇や法皇を美化することなく、といって「おとしめる」こともなく、バランスのいい描き方をしたなと感心しています。

日本一短い「権門体制論」の解説

2022-12-23 | 権門体制論
中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。

1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。

2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。

3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。

答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。
折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今「3」に傾きかけています。


Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

2022-12-22 | 日記
2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。

ということで「近代史」のお話

1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだった。

このメンバーにピンの明石家さんま。片岡鶴太郎。山田邦子を加えて、高田文夫が台本を作って始めたのが「オレたちひょうきん族」。紳助の「ひょうきんベストテン」と「タケちゃんマン」で成立していたような記憶がある・山田邦子が時々単独コーナーを持っていた。「ただのおばさん」じゃないのだ。たけし、さんまと20代前半という年齢で共演していたのだ。

「オレたちひょうきん族」によってドリフの「全員集合」は打ち切りとなった。その「ひょうきん族」は「加藤・志村の番組」で打ち切りとなる。

最初は意気込んで沢山書こうと思ったのだが、たいして書く話がないのでやめにする。

1972年の吉田拓郎・イメージの詩

2022-12-21 | 日記
拓郎さんがアーテイストとしては引退なさるそうです。76歳。そんなに年が自分と離れているとは思ってもいませんでした。私が小学生の頃、拓郎ちゃんはまるで「ガキ大将」みたいだったからです。5つぐらい上かなと思っていた。よく考えると、10歳の5つ上では15歳です。

1,イメージの詩

これには多大な影響を受けたと思います。今私は趣味で歴史の勉強をしていて、尊大にも「どんな偉い学者の説だっておいそれとは信じない」という不遜な態度をとっています。私の中では「方法的懐疑」と呼んでいます。これを教えてくれたのが、小学校の時に聞いた「イメージの詩」

☆これこそはと信じれるものが、この世にあるだろうか。信じるものがあったとしても、信じないそぶり。

大学時代、統一教会の勧誘を断ったのも、民主青年同盟(共産党)の誘惑(これは貧乏な僕には実は魅力でした)を断ったのも、「信じないそぶり」のおかげです。まあ統一教会(原理研究会)は、高校の時から駅でたびたび勧誘されていて、完全に正体を知ってましたから、別に断るのは難しくなかった。でも民青の掲げる「平等」は魅力的だった。しかし「闘争がだめ」なんです。とにかく「信じないそぶり」が大事と思っていたおかげで「はまり」ませんでした。運動をしていた人を貶める気持ちはありません。静かに本を読んでいたい私には、とても戦う力がなかったということです。

歴史学者の意見も当然「信じないそぶり」です。魅力的な説もたまにあるのですが(笑)

2,おきざりにした悲しみは

小学校4年だったかな。「生きていくのは、ああみっともないさ。あいつが死んだ時も、オイラは飲んだくれてた」。これをみんなで歌って下校してました。友達も結構好きみたいでした。

3,初恋

歌の題ではありません。小学校高学年から中学まで「なんとなくいつもいて、楽しく話す女の子の友達」がいました。同じ部活でもありました。でも中学ではクラスは同じにならなかった。それでも一緒に拓郎を聞いて、感想を述べあったりしてました。でも中2になると、僕は陽水に走り、彼女は拓郎派で、なんとなく拓郎の話はしなくなりました。
私はブサイクですが、彼女は小学生の頃から「完成された美人」でした。彼女といるのは楽しかったけれど、なんというか眩しかった。年を経るにつれてどんどん女性として美しくなるので、眩し過ぎたのだと思います。
中二に最後だったか。彼女はこう言いました。「ねえ、拓郎が嫌いになったの。本当に嫌いになったの。嫌いなの」。それは明らかに拓郎の話ではなく、私はドキリとしました。そして、なんとなく恐ろしくなりました。彼女と「親友」であることは心地良かったし、自慢でもありました。そういう関係が別のものに変わってしまうのが、恐ろしかったのだと思います。

夏目漱石の「それから」の男女関係を「恐れる男と恐れない女」と表現することがあります。大学になってそれを聞いた時、私の心には真っ先に彼女の顔が浮かびました。
私は「いい年」ですが、「いい年」なるとかえってこういう記憶が鮮明に懐かしく思い出されます。

話は脱線しましたが、吉田拓郎。小学校の時、私のアイドルでした。ご苦労さまでした。拓郎ちゃん。

後醍醐天皇の「理想と悲しい現実」・リラックス文体で書く。

2022-12-20 | 後醍醐天皇
重くならないため、なるべくリラックス文体で書きます。たぶん重くなるけど。

後醍醐天皇ぐらい「アゲられたり」「サゲられたり」「異形の王権にされたり」、まー評価がコロコロ変わる人物はいません。同時代の評判はすこぶる悪いんです。お仲間の公家も批判してます。なぜって「新しいことをやったるぞ」と言ったから。朝廷は「超先例主義」ですから、「新しいこと」は生理的に無理なんです。「やったるぞ」はいいけど、「仕組みを作らない」から日本がカオス状態。武者にもその他市民にも、すこぶる評判が悪い。明治になってからすら、公家である岩倉具視は悪王としています。先例を破った後鳥羽と後醍醐は悪王。岩倉は公家の感覚をよく継承しています。

ところが昭和、戦前。今の皇室は北朝なのに、南朝を正統としてしまったから、後醍醐天皇を上げざる得なくなっちゃった。悪名高い皇国史観ね。好きな人もいるけど。

皇国史観といえば、布教者は東大教授の平泉澄。ないことないこと書いて歴史を捻じ曲げたくせに、最近は「見直そう」という人がいて、私は大反対。同時代にボロクソ言われた後醍醐を散々持ち上げ「聖君」とし、足利尊氏を「大悪人」に仕立てあげた。ついでに「北条の小四郎義時」も悪人。「大悪人じゃない」から、小四郎はさほど有名にもなりませんでした。トホホ。皇国史観のせいで、一体何人の人間が死んだのか。殺したのは軍隊だ、東条だ、という向きもあるかもしれませんが、実際の政治装置より、イデオロギー機構のほうが恐ろしいことがある。それは歴史の教訓です。
「天皇の歴史」「寺社の歴史」を詳らかにすることには無論反対しない。しかしそのツールとして皇国史観の旗手であった平泉澄を利用するのは、極右言論人ならいいとしても、「学者」には慎重であってほしい。そう願います。

さて、読んだ本の中では、伊藤喜良「後醍醐天皇と建武政権」が一番バランスよく後醍醐を論じている。「それなりに評価」してるんですね。「それなり」だからバランスがいい。桃崎有一郎氏などは「京都を壊した天皇、護った武士」の中で、まーボロクソ毒舌を書いている。実は「同時代の評判をまとめた」だけなんだけど、当時の史料を紹介すると「それだけでボロクソの悪口に」なる(笑)。それが後醍醐。桃崎氏はTVで見る限り温和な坊ちゃん顔なんだけど、やっぱり平泉史学、皇国史観の「復権」(というか天皇の美化)に危機感を持っているのでしょう。だから言葉がきつくなる。歴史探偵の平安京ダークゾーンに出てた人。英雄たちの選択の「足利義満」にも出ていた。「天皇の権威という言葉を安直に使う学者がいなくなれば、日本史学も少しはましなものになって、ビシッとしてくる。内部改革は無理だから、読者、国民の厳しい目が必要だ」と「いうようなこと」を書いています。

じゃあ伊藤氏がどう「それなりにアゲて」いるかというと、「東アジアで普遍的な君主独裁官僚制を目指した」というアゲ方。ところが失敗。なぜなら東アジアにはいない武家と公家がいたから。
しかも高い家格の公家にそっぽ向かれ(先例主義じゃないからが理由)、官僚制を担える人材がいなかったから、結局君主独裁だけが残って、綸旨を乱発。滅茶苦茶なことになった。「後醍醐天皇と建武政権」は画期的な視点に満ちていると思います。天皇制を解体して中国風の君主官僚制にしようとした後醍醐が、戦前「天皇制の鑑」とされ、歴史は実に皮肉であるとか。検討しがいのある説です。

私にとっては皇国史観の象徴が後醍醐天皇だから、あんまり勉強する気にもなれなかったのです。でも伊藤氏の本を読んで考えが変わりました。これから少しずつ勉強するつもりです。

即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

2022-12-18 | 鎌倉殿の13人
少し前に書いた「義時の死」ですが、「少しかすっていた気が」します。もっともこの「駄文」の最後の部分はある歴史ドラマのパクリです。

悪人・北条義時に捧ぐ

承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。

公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。

その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。

「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」
「北条は怨霊によって、この後、だれが執権になっても短命で終わる」
「北条時房が次の執権を狙っている。泰時と時房は口もきかぬ仲らしい」

江戸期の「かわら版」のようなものも、すでに存在して「ないことないこと」を書いている。

泰時も時房も洒落は分かるので、目くじらはさほど立てない。だがこの噂は泰時にとってはちと頭が痛かった。「鎌倉犬追物の残虐さ」についてである。

犬追物とは、犬を放ちそれを「馬場」という空間で、馬から弓で射る競技である。一応神事と言っていたが、要するにスポーツである。単に射るだけではだめで、打つ時の姿勢、打ち方の珍しさ、美しさ、射た場所の位置などが審判によって点数化される。室町時代は「武家文化に染まった京都」でも行われたが、鎌倉期ではまだ「野蛮な東夷の行為」とされていた。現代の動物愛護協会にあたる

一切衆生悉有仏性の会・いっさいしゅじゅう・しつ・う・ぶっしょうのかい

というのがあって、そこの会員が匿名だが「許せない」と言っている、と噂文に書いてある。
泰時は鎌倉に下って、義時にそれを伝えようと思った。鎌倉の名誉に関わる事案である。

鎌倉に下った泰時は馬場に平然と足を踏み込んだ。騎射は止まったが、手負いの獰猛な犬が2匹残って駆け回っている。「危ない」と見物している御家人の誰もが思ったが、泰時は意に介さない。自分は死なないという絶対の自信があった。子供の頃から、危険な場面にはいくらでも遭遇したが、なぜか傷一つ負わない。

義時もそれが分かっているので、泰時を止めなかった。ただ神事の場の無礼だけは叱った。泰時は京の「動物愛護について」また「毒を盛られているという噂」を伝えた。

義時は宣言する。「犬追物は神事とは言え、京では評判が悪いようだ。今後、犬追物では先の丸い矢を使い、犬を殺さぬこととする。なお、今の泰時を見たであろう。天の加護があるのだ。次期執権は泰時である。」

泰時の弟、朝時、重時、政村たちは神妙な面持ちでそれを聞いている。伊賀の方も同様である。

泰時が京に戻って半年もたった頃、義時倒れるの一報が京に届いた。泰時は急ぎ関東に下った。泰時は伊豆で鎌倉の様子を探っていると京で噂されたが、実際はすぐに鎌倉に入っている。
しかし肝心の義時が床にいない。聞くと出家し、病躯をおして雨ごいをしているという。鎌倉は少雨による凶作が起こりかけている。天に祈り雨を降らせる、中世においてはそれが為政者の「徳」であった。義時はすでに死を覚悟している。

「雨ごいの場」には誰も出入りを許されなかったが、声だけは聞こえてくる。
義時は言う。

「天の神よ、雨を降らせたまへ。私は悪行を積んだが、それすなわち民のためである。それが分からぬ神なら、そんな神はいらない。悪行は全て私が地獄に背負って逝く。恨みも憎しみも全部私が引き受ける。私はここで死ぬが、鎌倉の悪行は全て消え、ただ息子泰時の徳だけが世に残る。悪行は全てこの義時が一身に背負う。雨を降らせたまへ。泰時を聖君になしたまへ。」

すると雨が降り出した。鎌倉の人々はこの奇跡を長く「義時の涙」と呼んで言い伝えた。

義時は死んだ。泰時が次の執権となる。泰時の時代、北条と他の一族の殺し合いは、起きなかった。義時は泰時の世を作ることで、悲願であった「撫民」を遂に成し遂げた。