歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

2022-12-05 | 鎌倉殿の13人
吾妻鏡にこうあります。概略です。

泰時は5千の兵を率いていた。そこへ後鳥羽上皇の敗戦の院宣がもたらされた。泰時は馬を降りて受け取った。そして「この中に誰か院宣を読めるものはいるか」と言った。
武蔵の国の藤田三郎が読むことができたので、彼が読んだ。
「この度のことは、全て院の意思ではなく、謀臣のしわざである」

以上のことから分かるのは、泰時は院宣を読めなかったこと、5千人の中でも読める人間はほぼおらず「もしかしたら藤田一人だったこと」です。それにしても藤田はなぜ読めたのか。そっちがびっくりです。

吾妻鏡が「とても信用できない、泰時顕彰のための曲筆ばかり」なら、ここは「読めたこと」にしてほしいものですが、ちゃんと「読めなかった」としています。

この院宣は承久記前田本にあって、国会のデジタルコレクションで見ることができます。該当箇所を見てみると、さして難しい漢文ではありません。私の読解力では細かいところまでは訳せませんが、内容を知っているせいもあり、言ってることの概要は分かります。

「泰時に読めないとは思えない」のです。彼は3代目の坊ちゃまですし、そこそこの教養はあったはずです。私より漢文が読めないとは想像できない。でも読めなかった。

「達筆過ぎて読めない」ことは予想はされます。上皇自身が書いたわけではないですが、実際の書き手が達筆過ぎて読めない。その可能性はありますが、別のことも考えてみたいと思います。

さて、すると本当の院宣はもっと「小難しかった」ことが予想されます。昭和天皇の「終戦の詔勅」のようなもの。あれをルビなしで読める人間は、多くはない。内容は事前に分かっているけど、細かい訳となると無理です。負けたというだけですが、一種の美文にしてそれをはぐらかしているし、国民もその方が良かったでしょう。あんまり負けた感じがしない文章です。

京都政権には「文章経国」という悪い癖があります。悪い、というのは「文」(主に漢文、後には和歌)を作るための宴会に多額の費用をかけ、それが「政治だ」と思ってしまっていたからです。
すでに桓武天皇の孫の仁明天皇の時代に「漢文パーティー開きすぎで国家財政が傾く」という現象が起きていたようです。
「文章経国」(もんじょうきょうこく)は古代中国の儒教の思想で、文によって「礼の価値」を高め、「礼によって国家秩序を維持する」という「思想」です。

それは「高度なテクニックを駆使した漢文で、中国の故事がふんだんにちりばめられていた」と言います。(桃崎有一郎氏の著作より)

おそらく後鳥羽院の院宣の本物は、このような美文だったのでしょう。だから泰時には読めなかった。私はそう推測しています。

蛇足
呉座さんが「院宣はなかった。吾妻鏡または承久記の贋作」ということを書いておられるようです。それに対するヤフーのコメントに「重箱の隅突っつき史学はうんざりします」というのがありました。呉座さんうんぬんではなく、「重箱の隅突っつき史学」という言葉は、グランドセオリーなきあとの日本史学の現状の「一端」を表しているように感じました。私は歴史学者ではなく、ど素人の歴史好きに過ぎませんが、80年代までの佐藤進一、黒田俊雄、石井進ら諸先生の「骨太の歴史議論」をもう一度検証することの方に知的興味を感じるのは、やはり今の歴史議論がかつてに比べ相対的に卑小化しているように感じているからのような気がします。なお、吾妻鏡が泰時が「読めなかった」としていることは、美文の院宣が存在したことの、傍証になるようにも感じます。

鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

2022-12-04 | 鎌倉殿の13人
「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。

後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。
皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。

この南北朝時代の戦いや、その一部でもある「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か月、60年に比べれば超短いわけです。

承久の乱の後も、幕府は公家、武家の経済的基盤である荘園制に手をつけたわけではない。その意味では「革命」とは言いがたい。

「優等生の回答」ならこれで十分ですが、私はあまり興味はありません。もっとも「荘園制」には興味があります。「革命か否か」に意味はないということです。

別の優等生的回答もあります。「承久の乱によって朝廷や天皇・上皇は武力を捨て、今日の皇室の原型ができあがった。一方、幕府は国家の警察・防衛軍・外交を担う組織となった」

これも、私にとってはつまらない回答です。史実と違うと思うし。

武士は「荘園」を経済的基盤としていた。それは本所をはじめとする公家・寺家も同様である。従って武家は「荘園システム・治天の君システム」を破壊することはできなかった。しかし武家が大事にしたのは「国家体制システムであって個々の天皇・上皇」ではなかった。「体制を武力や天皇権威によって変更しようとする試み」をした天皇や上皇は、忖度なく幕府(鎌倉、室町、江戸)そしてなにより身内の公家・寺家によっても圧迫された。当時の言葉で言えば「帝ご謀反」。そのシステムは現在「権門体制」と呼ばれ、院政期から応仁の乱までは続いたとされている。
承久の乱は「帝ご謀反」の典型例で、その場合、武家は「体制に対する謀反者」として天皇・上皇も追放する。さらに公家内部からも批判される(乱後の後鳥羽上皇の評価は公家内部において低い)。
日本を支配しているのは権門が作る「相互補完体制」であって、上皇ではなく、「公家権門のみで支配しているわけでもなく」、武士が守っているのは朝廷や上皇個人ではなく「体制」である、そのことが「はっきり」したのが承久の乱。

いい線いってますが、まだまだ「つっこみどころ」は満載(上記は私の文章なので自分に突っ込んでいます)で、納得できるものではありません。それは本当に権門体制なのか。寺家は政治にどう関わったのか。公家権門の「長」を武家が決めているように見えるが、これは武家権門の優越性を表していないと言い切れるのか。各権門が相互補完をしていた、については東の研究者を中心に「ありえない」という声もあるが、東西の学者でよくよく考えた方が良くはないか。そもそも相互補完って曖昧過ぎはしないか。また、それは荘園システムなのか、治天システムなのか、天皇システムなのか。つっこみどころは山ほどあります。

権門体制の提唱者黒田俊雄さんは「二つの権門の対立、それは幕府の基盤の中核である在地領地制の発展を背景とした政治的対立の爆発」と書いています。1964年、「鎌倉幕府論覚書」

私見ですが、承久の乱に関する論点の多くは、1960年代、70年代の「黒田・石井進」という良きライバルの学説論争の中で出たものであり、「最新研究」を追うより、そこまで遡及して考える方が、たぶん有益であろう。そんな予見を持っています。

承久の乱には、日本史を考える上で大切な問題が山の如く詰まっていますから、簡単に回答を出しては「もったいない」気もします。

天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

2022-12-04 | 麒麟がくる
織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。

誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。

私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。

それでもこだわるとすると

・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。
・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したのか。中世の言葉である。
・言葉には「広義と狭義」がある。
・言葉が「新しい意味を獲得」したとしても、「古い意味」(古義)は残る。ヤバイは今でも「危険」という意味を持っている。「危険なほど素晴らしい」と両立する形で意味を保っている。

2014年あたりからの「信長は普通の人だブーム」の中で「天下布武」の「解釈変更」が行われましたが、定説にはほど遠い現状です。素人が考えても「言葉遊び、ただの解釈変更」に過ぎないことは歴然としているからです。

織田信長の発行文章を読むと、なるほど「天下を畿内の意味で使っている用法」は多くあります。特に上洛以前、直後ですね。信長だって上洛以前から「日本全土を統治してやるぜ」なんて考えていません。
その意味では「天下布武」はただのスローガンであり、「あれは看板に過ぎないから」と信長に聞けばそう答えるでしょう。

ただ信長も後期になると「天下を自らの支配地域の意味、または将来自分が統治すべき支配地域の意味」として使っていきます。「天下の概念が変化する」というより、狭義に重きを置いていたものが、広義に重きを置くようになります。もともと畿内、日本という両義性を持った言葉です。

信長の支配地域は日本の半分程度ですが、将来支配しようと頭で思っている領土には「九州、東北、四国」が加わります。となると晩年における信長の「天下」とは「初期の畿内ではなく、日本全土」ということになるのです。

江戸時代、天下はいうまでもなく「日本全土」でした。もし仮に、信長以前においてそれが畿内だったとしても、30年の間に意味は「広義」に重点が徐々に移行し、「日本全土を指すようになった」、その変化を推進したのは信長、秀吉、家康ということになるでしょう。「天下は天下の天下なり」、家康の言葉かどうか分かりませんが、江戸期には存在した言葉のようです。「畿内は畿内の畿内なり」ではありません。天下の意味は信長の時代から「天下人の支配領域の拡大に伴ってだんだんと広義で使われるように変化していった」。そう考えるのが合理的です。

信長は「自分の支配領域を全て天下と呼び、将来支配を狙っている領域も天下と呼び」ました。と私は思っているのですが、最近、信長を考えていないので、なんとか検証してみたいと思っています。

芸人の永野の「クワバタオハラがおったらそこは大阪や」というギャグをご存じでしょうか。あれに着想を得て書きました。「信長が支配していたらそこが天下や」「徳川が支配していたらそこが天下や」ということになります。

鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

2022-12-01 | 鎌倉殿の13人
後鳥羽上皇の願いを受けて、比奈は鎌倉に下向した。

義時とは直接文を交わしたことはないものの、比企の乱から18年、義時は京の比奈に、定期的に莫大な金銭を送ってきてくれていた。途中からは泰時の名で送られてきたが、義時の意向であることは間違いない。比奈はまずその礼を述べた。

「少しもお変わりになりませんね、小四郎殿」
「そうか、人には別人になったと言われるが」
「同じです。あなたはいつも鎌倉のことばかり考えて、そして疲れていらした」
「そうか」
「さて、今日は上皇様のお言葉を伝えに参りました」
京で比奈と後鳥羽上皇が懇意であることは、義時はよく知っている。
「文を託すまでの仲とはな。比奈、つらくはないのか」
比奈にとってはマツリゴトに関わることが苦痛であると義時は思っている。
「比企の一族のことは、すべて昔のことです」と言って比奈は笑った。そして一通の文を差し出した。
義時はそれを見た。「すべては比奈殿に聞いてほしい。尊成。」とのみある。
「随分と信頼が厚いようだな」
「私は鎌倉では天下無双の女房でございましたよ。さて上皇様のお言葉です。上皇様は窮しておられます。大内惟信殿と三浦胤義殿を首魁とする京都鎌倉党が、上皇に挙兵を迫っております」
義時は何も言わない。
「上皇様としては、北条義時追討の院宣は出したくない。鎌倉党は朝廷が西国地頭の任免権を持つことを望んでいる。ここはぜひ妥協してほしい、とのこと」
「比奈、知っておろう。地頭職は鎌倉の根本。それだけは叶わぬ」
「上皇様は、小四郎殿が思うようなお方ではありません。上皇様なりに民のことも考えておられる。戦は、民を疲弊させるだけだ。なんとしても避けたいと」
「お前に言われなくとも、上皇様がどんな方かは分かっておる。私も民のことは考えている。大内と胤義を斬れと伝えよ。それだけの覚悟がなくして、為政者といえようか」
「斬っても、西国守護の北条に対する不信感は消えません。大内様はかの平賀朝雅殿の叔父で、源氏の門葉、上皇様のもと、京にもう一つの幕府を建てようとしております」
「なるほどな、それでは上皇もなかなか扱いにくかろう。よし分かった。上皇様に伝えよ。大内ら謀反の輩はこの鎌倉が討つ。その上で、京の六波羅に探題を作り、上皇様と協力して西国を治める。鎌倉の武力の後ろ盾があれば、上皇様も思うように政治ができよう。ただし、地頭の件だけは絶対に譲らぬ。」
と言ったあとで
「とはいうものの、相談があればよくよく考えよう。」と笑った。
「分かりました。ありがとうございます。早速京に上って、上皇様にお伝えしましょう」
「もう帰るのか。つもる話もある。今宵だけでも泊まっていかんか」
「上皇様のお考えを聞いたら、すぐに鎌倉に下向しますゆえ、その時に。わたくしもつもる話はございます。では上皇様のもう一つ文をお渡しいたします」

小四郎殿、よくぞ妥協してくださった。これで民は救われる。これからは手を携えて日の本を治めていきましょう。院宣が出れば、あなたの命を奪うことになる。しかし鎌倉は混乱の極みに達し、やがてまた戦となるかも知れません。それは私の本意ではない。

「勝つ気でいるのか」義時は珍しく大声で笑った。「比奈、今の件は火急を要する。お前が京に戻るのを待ってはいられぬ。文をしたため、京に早馬を送る。長い旅だった。今夜だけでも泊まっていけ」
比奈はうなずき、にこりと笑った。

しかしその頃、京では、大内惟信、三浦胤義ら鎌倉党が、後鳥羽上皇に決断を強く迫っていた。後鳥羽上皇の煮え切らない態度を見た鎌倉党は、主戦派の順徳上皇とともに、北条義時追討の院宣を御家人たちに送ってしまう。
「なんということをしたのだ、守成」後鳥羽は順徳を殴りつけた。
「殴りましたね。生まれて初めてです。親にも殴られたことがないのに」
「しれ者が、われがお前の親ではないか」
後鳥羽は泣きくずれた。
「すまん、比奈。かくあいなった。もはや止められぬ。止められぬなら戦う。そしてわしは勝つ。鎌倉は焼け落ちるだろう。早く京に戻ってくるのだ」

比奈は京に上る途中で、後鳥羽の知らせを受け取った。急ぎ鎌倉に引き返し、太郎泰時邸に向かった。
「母上、母上の努力も、この太郎の努力もすべて灰燼に帰しました。もはや鎌倉は戦うしかない」
「太郎。私も心を決めました。こうなれば太郎が戦功を立て、時局を握る以外ありません。たった一人でも京に向かうのです。ためらっていては、御家人が動揺しましょう」
「分かりました。では私は評定では、強く箱根の関での迎撃を主張します」
「なるほど、そうなれば小四郎殿や大江殿は太郎に反発して、京出撃を主張するでしょう」
比奈は遠い京にいる上皇を思った。さぞ無念であることだろう。しかも上皇は負ける。なんとか命だけは救わなくてはならない。
「太郎、圧倒的な兵力を集結できるよう小四郎殿と図るのです。民を疲弊させてはなりません。ひと月で決着がつくよう、官軍を圧倒する兵力を持つのです」
「今、一人で京にいけと、、、しかし分かっております。鎌倉の大将が出撃すれば、諸国の御家人はそこに集結しましょう。迷っていることが一番まずい。」
比奈と太郎は、それから共に悲しげな顔で空を見つめた。泰時としてみれば、官軍に勝つ、そのことにほとんど高揚感はなかった。勝利のあとのマツリゴトをどうなすか。上皇をどう処遇するか。泰時の頭は、すでにそこに向かっている。
つづく。

映画「空海」と「Karaの復活」

2022-11-30 | ジェンダー論
映画「空海」、は1984年、北大路欣也主演のドラマで、最澄は加藤剛さんが演じました。
印象的な言葉が三つある。

1,妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である

これは密教の理趣経に書かれており、空海は東大寺の別当でもあったから、東大寺では理趣経は今も大事な経典らしい。むろん密教系にとって最高の経典の一つであることは言うまでもありません。
性交は仏の境地、性欲は仏の境地
無軌道な性欲の発動は社会の秩序を乱すから、この理趣経の考えは「小難しい哲学的解釈をもって改変」されてきました。道徳的になるように。
しかし私は素直に読むべきだと思います。「男女の合意さえあれば、性欲の発動は生きる活力であり、つまりは元気の源である」ということです。
「男女の合意」というのは「現代風の私の解釈」だが、空海においても強姦が許容されるはずもなく、さして間違ってはいないでしょう。もちろん私は現代人なので「合意でも未成年はダメ」は言うまでもありません。未成年同士の場合は妊娠の問題が気になります。「おじさんと未成年女性」は合意そのものが成り立つ気がしません。「成人で、きちんとした合意さえあれば」ということです。「交合」とは「合意を含む」と思います。

2,マンダラの世界が文字によって表現できますか。日本は文字によって文化を学んできた。だから空海に言わせれば「日本は貧しい風景に中にたたずんで」いる。

文字至上主義。理性至上主義の相対化ですね。マンダラの世界は私には分かりませんが、言葉としては好きです。

そして「3」、橘逸勢(たちばなのはやなり、)石橋蓮司の次の言葉です。中国でイランの踊りを見て言います。

☆なぜだ、なぜだ空海。日本のおなごたちは、なぜこのように体ごと飛び跳ねて踊らないのだ。

ここでkaraにつながります。ちょっと前の韓国の女性ユニットで、日本でも人気がありました。「体をくねくねさせてセクシーに」踊ります。韓国国内では「未成年にみだらな踊りを強要している」と問題になったこともあるようです。日本で一回限りかも知れませんが復活するようです。

Karaの全盛期。私はさほど興味がなく、ちょっと品がないとまで考えていました。しかし今になってユーチューブでよく「ミスター」を見ます。元気よく踊っていて、下品な感じは全くしません。
「元気があって、明るくて、活力があって、とっても結構」だと思います。

では「女性が体ごと飛び跳ねて踊っていればいいか」というと、それも違っていて、不思議なのですが、TikTokで踊っている「女子中学性や女子高生」は「何やっているのだろう」と思ってしまいます。
たぶん制服を着ているからでしょう。AKBでもなんでも「制服を着て踊る女子高生みたいの」が苦手です。
昔高校の教師をしていて、女子高生とは本当によく話をしました。いい子が多くて、基本的には「何でも話して」くれました。彼女たちの心は「いろいろ難しく複雑な」のです。それが分かっているので、どうも「明るいだけの女子高生」という虚像が苦手です。

「鎌倉殿の13人」スピンオフ小説・「比奈の乱」(仮)序章

2022-11-29 | 鎌倉殿の13人
比奈・・義時の正妻であった「姫の前」のこと。本名は不明だが、ここでは「鎌倉殿の13人」にリスペクトを込めて「比奈」とする。太郎泰時は実子ではない。実子に北条朝時、後の幕府連署、北条重時がいる。

「全く失礼な話だわ」と比奈は憤慨している。それにこの屋敷の様子はどうであろう。手はかけられているがどこか人間の生活感がない。
「それでも左近衛権中将様が会ってくれるのですから」と侍女の「お駒」は比奈を慰めた。
「あたり前です。勝手に人を死んだことにしたのですから、抗議しなくてはなりません」比奈の憤りは収まらない。
やがて一人の公家がしずしずと現れ着座した。どこか貧弱で体の線が細い。
男は黙って比奈を見ている。何も言わない。比奈も何も言わない。慌ててお駒が挨拶した。
「こちらは鎌倉の北条義時殿の前室であるお比奈さまでございます、この度は無理を申しまして」
「おひな様」という音を聞いて、男は少しうなづいた。比奈の顔をじっと見ている。
「少しお年は召しておられるが、なるほど雛のように可愛い方ですな」声にどこか落ち着きがない。気分の上り下がりが激しい人間のように比奈は感じた。
「そんなお世辞はいいのです。この文をご覧ください。わが子太郎泰時のものですが、私が死んだと貴方様が鎌倉のどなたかに文を書いたという内容です。日記にも記したとのこと。」
「ふむふむ」
「この通り、私は生きております。亡くなったのはお世話になっていた源具親様の正妻、波奈様です。お子を産んで亡くなりました。比奈と波奈は似ておりますから、あなた様の勘違いでございます」
「ふむふむ、しかるに、その侍女のお方、お名前は」
「えっ。駒でございます」
「駒、駒、駒、、、ところで近頃旅はなさいましたかな。どこかに美しい景色はございましたか」
「ええ、比奈様と共に、冬、大和のサノのあたりに参りました。でも雪が降って寒くて寒くて」
「ふむふむ」と言いながら男は泰時の手紙を手にした。
しばらく文を見るともなく眺めていたが、急に大声を出した。
「できた!」
わっと比奈も駒も驚いた。男は意にも介さない。
「駒とめてー 袖うちはらふ人もなしー 佐野のわたりの冬の夕暮れ、これはいいぞ。これはいい。」
「藤原定家様!あなた、人と話すことができますか」
「なるほど、冬はだめですな。冬の夕暮れではなく、雪の夕暮れ、これはますます良くなった」
完全に自分の世界に浸っている。およそ会話をする気はないらしい。比奈は「だめだこりゃ」と思った。
「もう結構です。とにかく私が死んだという日記は訂正しておいてくださいね」
比奈は泰時の文を定家からもぎ取って席を立った。それでも藤原定家は一人で話している。
「なるほど、人もなし、もだめだ。かげもなし、、、うん、、、これだ、、、できた、できた」

帰り道である。
「定家様は訂正してくださるでしょうか」
「訂正するわけないでしょ、変な人にもほどがあります。あーだめだ。あの方は有名人だから日記は歴史に残るでしょう。私は今年死んだことにされるのだわ」
「比奈様も対抗して日記を残したらいいじゃないですか」
「そんなもの、百年後に残るわけないでしょ。」
この年、承元元年(1207)である。比企の乱から既に4年が経っている。

比奈は屋敷に戻った。少し前まで源具親の世話になっていたが、死んだと不吉な噂が立ったので、方忌みの意味を込めて引っ越した。今は守貞親王という皇族のもとに身を寄せている。義時は、後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子の元へ行けと言ったが、政治に巻き込まれたくはないと比奈は断った。すると義時は守貞親王を紹介してくれた。大金を払って依頼したのかと思ったが、守貞親王はどこか世離れした男で、義時の申し出を断ったらしい。
後鳥羽上皇の異母兄に当たる。回りに集まる公家たちは、守貞親王を天皇にとも思っているらしいが、守貞にその気はまるでない、と比奈は感じている。
「どうです。定家さんは、会ってくれましたか」親王の声は柔和である。およそ怒る顔を見たことがない。
「そりゃ、殿下の紹介ですから、会ってはいただけましたが」
「変なお方だったでしょ」
「お駒の名を聞いて、急に和歌を思いついたらしく、もうそればかりに熱中なさって」
お駒が和歌を暗唱する。「駒とめてー」
「なるほど、それはいいお歌ですな。で肝心のお話は」
「およそ人と会話のできない方です。諦めました。」
「まあいいではありませんか。私なぞ4つの時から、死んだような扱いを受けておりましたよ」
彼の幼少期は数奇である。四歳の時に平家に連れられて都落ちした。異母兄は安徳天皇である。壇ノ浦では女房に抱かれて海に沈んだが、幼いながら泳ぎができた為、すぐに義経の兵に助けられた。その時彼は皇太子であった。しかし京に戻ると、既に異母弟の後鳥羽天皇が即位していた。その後、帝位を目指したこともあったが、今は諦めて静かに暮らしている。少なくとも比奈にはそう見える。

つづく

「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論

2022-11-27 | 権門体制論
権門体制論には黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」つまり「シン・権門体制論」と、そこから思想性とかいろんなものを抜いてしまった「現代風権門体制論」があります。
多くの学者が、今依拠しているのは単純化された「現代風権門体制論」です。
それは極めてシンプルな考えで、果たして「論」と呼ぶべきものなのかも分かりません。

A,中世(平安末期から室町中期または安土桃山時代まで)において日本を支配していたのは、公家、武家、寺家の3大勢力である。

終わり。基本的にはこれだけです。もうちょっとだけ複雑にすると

B,中世において日本を支配していたのは公家、武家、寺家の3大勢力である。彼らは天皇を中心にしてゆるく結合しながら、相互補完を行っていた。

これだけです。「現代権門体制論」は単純すぎて理論とは言い難い。図書検索をして「権門体制論」を調べてみてください。私の住む東京の某区には20以上の図書館がありますが、ヒットする本はわずか1冊です。
しかも黒田氏の著作ではありません。黒田氏には「権門体制論」という著作はありません。ただし永原氏らが編んだ著作集の一巻は「権門体制論」となっています。論文の題名ではありません。
権門体制論は1960年代に黒田氏が「中世の国家と天皇」という短い論文で主張しました。それは1970年代から唯物史観を凌駕する形で、日本歴史学の主流となりましたが。各々の学者は、自分なりに「権門体制論を理解し、または改変し」つつ使用しました。しかし黒田氏が亡くなった1993年までは、「新権門体制論」や「改変権門体制論」は出ませんでした。1993年以降、この考えはますます日本歴史学の「多数派」を形成しましたが、「権門体制論」という本は、皆無と言っていいほど書かれていません。「理論的な深化」はないのです。

しかも「B」は黒田氏の考えを正確に反映したものではありません。日本語としても極めて曖昧です。「3大勢力である」までに問題はないと仮定(実はあります)しても、「相互補完」とは何か。「天皇が中心」の「中心」とは言葉の厳密な意味においてどういうことか。「ゆるく結合」とは具体的にどういうことか。

説明は各学者によって微妙に、または全く違います。だから「相互補完」を「協調を過度に重視して」考えたり、「中心」を「天皇権威の高まり」として捉える「間違い」が生じます。

私が多少専門とするのは「現代文の読み方」です。歴史学者ではありません。しかし上記の「B」が説明になっていないことは、現代文読みの感覚で分かります。そこでこの半年、黒田氏の著作を「折に触れて」は勉強してきました。以下は私がその作業を通じて得た知識の披露ですが、むろん私が間違っている可能性はあります。でも結構「いい線いってる」のではないかと、私自身は思っています。

「オリジナル権門体制論」からみた場合、今よく言われていることは正確なのか不正確なのか。〇×形式で考えてみます。

1,権門とは荘園から税をとる権利をもった支配層のことであり、公家、武家(幕府)、寺家のことである。これはかなり正確です。

2,権門体制は中世を通じて維持された。これはかなり不正確です。黒田氏自身は、権門体制の始まりを平安末期、院政期が起点と考えています。しかし権門体制の終点については「足利義満の時代」「応仁の乱をもって終わる」とややぶれがあります。権門体制の終わりは「権門体制の克服」と表現されます。「江戸幕府が完全に克服した」ことは述べていますが、応仁の乱で「ほとんど消滅し」、戦国期に衰退を加速させ、秀吉期で「完全に終わる」と述べている、と考えるの妥当です。

3,権門体制が続くためには「荘園」が必須条件となる。これは正確です。だから現代の学者が、権門体制を江戸幕府開府の直前まで「延長」しようとすれば、「荘園」がその時代まで「命を保って活動していた」と言わなくてはならなくなります。かなりの無理をもってそういう言い方をする人がいるのはそのためです。

4,室町末期になっても権門体制は維持されたため、織田信長と幕府は「相互補完の関係」にあったし、織田信長と天皇も「相互補完の関係」にあった。これは完全な間違いです。
まず室町末期には権門=荘園体制は加速度的に崩れ、もはや機能不全の状態です。「幕府と大名の相互補完」というのは一応出てきます。しかし応仁の乱で終わったとしており、戦国大名には「適用できない」とはっきり書いています。さらに「天皇と信長の相互補完」もかなり支離滅裂です。天皇は権門という「私的勢力」に「公的なみかけ」を与える存在であり、権門ではないからです。ただし天皇自身が私的勢力の家長として権門になる場合はあります。いずれにせよ、信長の時代にまで「権門体制を適用」するのは、いわば「濫用」であり、「権門体制、相互補完濫用防止法」があれば、取り締まりの対象とすべき行為です(笑)。これはオリジナル権門体制論から見た場合、完全にアウトです。

5,江戸時代になっても権門体制は維持された。寺家は存在したし、公家も天皇も存在した。天皇は将軍を任命する立場であった。これはどうでしょう。「朝廷が将軍を任命する立場にあった」ことは事実です。しかしこの考え全体は全く不正確です。黒田氏は江戸期まで権門が存在したとは寸分も考えていません。「完全に克服され、将軍が王になった」と書いています。

6,天皇が王として権門の中心にいたのは、実質権力を失っても「権威」を持っていたからだ。これも不正確です。全く逆という言い方も可能でしょう。「権威があったから中心となった」のではありません。「私的勢力に過ぎない権門が、公的政治に関与するため、公的なみかけを獲得するため、天皇に権威を与えた」のです。ただしこれについては、かなり「長文の説明」が必要となるので、今は書く気がありません。

7,当時の支配層は権門体制を維持することを前提とした。したがってどんなに対立しても、相手を完全に滅ぼす、公家をなくす、寺家をなくすことなどはなかった。
これまた不正確です。黒田氏の考えでは権門は私的勢力として「絶えず相手を完全に滅ぼしたいという欲望を持っていたが、力不足でできなかっただけ」です。
「織田信長は中世人であり、当時は権門体制であったので、信長は幕府と対立しても、それを完全に滅ぼすことはしなかった」。まあ史実としても間違いですが、権門体制論に立った場合でも間違いです。
そもそも権門体制ではなかった事実は無視できるとしても、これは黒田氏の考えに見事なほど反した考え方です。黒田氏は「教祖様」じゃないので、反してもいいのですが、考え方としては「権門体制論とは違ったなにか別の史観」です。

まとめ

オリジナル権門体制論には継承すべき知見が大いにあるが、継承するにしても、黒田氏の考えをよく理解し、批判的に継承しないといけない。とこうなります。

私は黒田史観の信徒ではないので、「教祖はそう言っていない」などいう気でこの文章を書いているわけではありません。むしろ私は権門体制論を批判したい。そのためにオリジナル権門体制論について考えています。「聖書を読んだから、イエスは私のものだ」的な志向はありませんが、教祖の言葉を適当に改変して便利遣いする徒が多すぎるので「それは違う。それはあなたの考えだ。権門体制論ではない。」と言いたい気持ちはあります。

蛇足

黒田俊雄氏は後醍醐政権をどう見ていたか。

「権門体制の克服の試み」と考えていました。古代王権の復活ではなく「封建王政」(天皇を首班とする江戸幕府を想像してください)を目指していたと。
しかしそのどうしようもない「反動的性格」(目的は自らが属する大覚寺統を中心とした一部の公家の勢力回復ためであり、国家天下を思ったものでもなければ、広範な支配勢力の支持を得られるようなものでもなかった)、為に各権門の支持を得て、京都政権における大覚寺統の勢力を「認めさせる」以外方法がなかった。結果として後醍醐は既存の「権門」を「安堵」した。
つまり権門体制の克服(天皇のみが最終決裁者である社会体制)を「看板」として掲げながら、現実には全く別の方向に行くしかなかった。最後には権門の支持さえ失い、あっという間に瓦解した。
最後に黒田氏はこう書いている。(中世の国家と天皇)

後醍醐天皇は、封建王政を組織することに失敗しただけでなく、現実の政治に登場しただけに(形式的権威という姿勢を捨てただけに、リアルな政争に巻き込まれることとなり、これは私の注です)、権門としての私的権威自体もまでも根底から失い、ひいては天皇一般にまつわる「古代的」な形式的・観念的権威までも著しく失墜させる結果を招いたのである。以上引用終わり。

なぜ天皇に対して「私的権威」という言葉を使うのか。それは後醍醐天皇が「実際の政治家」としては「権門として振舞っている」からです。つまり私的勢力、王家という権門の長です。権門は国家から公認を受けても、たとえ天皇が家長であっても、その「私的勢力であるという性格」自体が消滅するのではありません。公的なみかけ、を獲得し、国政に関与できるようになるだけです。荘園を「私的家産」ではなく、「一種の公領」と考えるようなあり方は、黒田氏の所論を見る限り、到底容認できない、最も「反権門体制論的」な思考です。
荘園公領制は今は歴史学の通説どころとか「定説」でしょう。私はそれに疑問を呈している。ドン・キホーテ的暴論ということになりましょう。しかしおかしいものはおかしい。

荘園は私領的なものではあるが、公的国家的性格を有している。寄進によって成り立つというより、上皇の「計画」によって上から形成されることが多かった。

上皇が計画しても「公的でない」ことは、オリジナル権門体制論の立場からは明確です。むしろ「公領と言われているものは、その実質を考えるなら私領ではないか」という疑いを持つ必要を感じます。

加筆する必要を感じますが、一応以上です。

「オリジナル権門体制論」と「象徴天皇制的権門体制論」

2022-11-26 | 権門体制論
黒田俊雄氏のオリジナル権門体制論はきわめてシンプルな考え方である。

中世(平安末期から室町中期まで)において国家を支配したのは公家・武家・寺家の3大勢力である。以上。

これで「終わり」である。つけ足すとすれば「天皇の位置」だが、「天皇の位置」まで言及するとなると「シンプル」にはいかなくなる。「天皇を中心としてゆるく結合」は実は間違っている。そんな粗雑な分析で「こと足れり」とはならない。黒田俊雄氏は1960年代、「天皇制の権力構造の解明」の為に「オリジナル権門体制論」を提唱した。そして天皇制の分析に多くの労力を費やした。それを「ゆるく統合」などという粗雑な言葉で表現することは不可能である。「ゆるく統合」は現代の「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」の産物である。

ちなみに黒田氏の難渋さの断片だけを紹介するなら、

天皇は「王家の一員ではない」、王家は「王=天皇を輩出する私的勢力」ではあるが、王=天皇は「王として公的に振る舞う」場合、王家の一員ではなく公的な存在である。しかし天皇が私的勢力(王家)の家長として振る舞う場合、彼は権門の長という私的存在である。公的存在である天皇が、私的存在である天皇に「公的承認」を与える場合がある。これは「同一人物」であっても成立する。しかし一般には中世において天皇が「公的存在」という「みかけ」を付与するのは、上皇に対してである。そのことは天皇権力が上皇の私的権力より大きいことは意味しない。天皇は極めて無力な形式的存在であり「公家、武家、寺家という私的勢力に対して公的なみかけ」を付与するための機関に過ぎない。ただし天皇親政の場合、天皇は私的存在である自分に、公的機関として「公的存在」であるという「みかけ」を付与することになる。

以上は黒田氏の著作の引用ではなく、「私のまとめ」であるが、我ながら難渋である。この「複雑さ、難渋さ」についていけないと、オリジナル権門体制論の「天皇」「国王」は理解できない。
もっとも理解することは必須ではない。中世は上記の3大(私的)勢力が社会を支配した、で十分とも言える。天皇や国王の説明は国家論的課題である。大切なのは公家、寺家、武家の「具体的統治機構の理解」であって、天皇の位置は副次的問題である。とはいうものの「私的」の意味を理解するためには、多少は国家論に踏み込まないと無理である。

もっとも黒田氏の「思いなら」、もっと「シンプルに言う」ことは可能である。

武家(幕府)だって支配者じゃないか。天皇制下における「権力者」ではないか。武士は貴族階級を打倒した「英雄」ではない。

これだけである。戦後、皇国史観(今も実は健在であるが)に代わってマルクス史観が隆盛を極めた。実は多くの学者は「マルクス主義者ではなく」、単に「非皇国史観を基調とし、学問的にできるだけ中立で科学的な」立場を「とろうとした」に過ぎない。その時、「階級闘争」と「下部構造の解明」を重視するマルクス史観は、歴史分析のツールとして「ある程度有効で」科学的に見えた。世界の基調もそうであった。いわゆるグランドセオリーである。この「ある程度有効」という事実は、実は今も変わっていない。「武士の家計簿」を分析したり、「信長の天才性より経済力の源泉」を解明しようという姿勢は、「下部構造の分析」である。しかしそれを行っている学者は、マルクス主義者ではない。それは1960年代も違わない。彼らにマルクスに関する著作はほぼなく、おそらく19世紀のドイツ語も理解できなかったであろう。唯物史観をツールとして使うことと「マルクス主義者であること」は全く別の問題である。「下部構造」の代表選手は、中世においては「荘園」であり、「荘園研究」が歴史学の王道であった。優れた成果が多く生み出されたが、「武家の荘園、武家の権力の下部構造」の分析に重きをおくものが多かった。

1960年代以降、「国家史、政治史」とはつまり「鎌倉・室町幕府の歴史」であった。

それに対し黒田は「天皇の歴史、公家の歴史、寺家の歴史」の解明も必要だと訴えた。理由はシンプルである。中世国家が存在したとすれば、それを支配しているのは公家、寺家、武家の3大勢力であるから、武家=幕府の分析だけでは「片手落ち」であり、「すべての権力の構造」を解明することはできないからである。京大出身の黒田氏にも多少の「京都愛」はあったが、現代の一部の学者のように、臆面もなくその「郷土愛」を表明することはなく、天皇に関しては一貫して「知的分析の対象」として「突き放して」いた。

「中世においても天皇に権威があった」などとは書かない。「天皇に権威があるように見えるのは、また実際権威が機能することもあるのは」どのような具体的機構(政治機関、武力機関、なかんずく仏教と儒教、寺家を代表とするイデオロギー機関)によるのか、それを黒田氏は「解明」したかったのである。

黒田氏は書く。

国家における全人民に対する「全支配階級」の「総体」を分析するためには、幕府の分析だけでは不十分である。

そして「全支配階級の総体」を分析するためには、それぞれの権門の持つ「機構」=役所、暴力機構=武力、経済機構(税の徴収の機構、流通への関与)、思想機構=正当化のイデオロギーを分析しないといけない。「機構分析」が歴史学の王道となるべきなのではないか。

マルクスは時代のイデオロギーを「経済構造が決定する上部構造とみなした」(私はマルクスを勉強していないので、おそらく)と思われるが、黒田はイデオロギー装置(寺家が代表であるが、儀礼や様々な行事を通じてなされる民衆の価値観の誘導)を「下部構造」とみなした。

蛇足であるが、私でも「史学」を志すなら、権門体制論にとびつくだろう。「公家の研究」にはまだ「はいりこむ余地」がいくらでもある。また「寺家の研究」に至っては「まだ始まったばかり」であるからである。

しかしここに一つの困った問題が生じる。それは黒田氏が「武家の権力の分析だけでは、皇国史観の真の克服にはならない」と主張したことである。黒田氏が政治信条としては「反権力思想に親和感を持っており、共産党の機関紙にも寄稿し、象徴天皇制を天皇制美化の洗練された形態として批判した」ことは、そしてその為に多くの論文を書いたことは、自明の事実であった。

あまりにイデオロギー色が強いのではないか。3大勢力の分析を行えという主張は「正しく、また研究者としてはありがたい」が、このままでは「使えない」。「政治的に中立な立場」を「仮装」しなくては使えない。歴史学は所詮はイデオロギーの産物であるが、それでもここまで「露骨」では困る。

そこで黒田以降の学者は、黒田の理論から、政治性や思想性を「抜いて」(抜くという行為自体が極めて政治的な行為なのだが)、難解さが一切ない「馬鹿らしい」とも評される単純な「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」を生み出した。現代われわれが目にする「現代権門体制論」はこれであり「象徴天皇制的権門体制論」と呼ぶべきものである。イデオロギーとしては全く別の方向を向いていると言ってもいい。

一方黒田氏はどうなったか。その著作のうち、現代でも比較的容易に手にはいるのは、「寺社勢力」「王法と仏法」の二冊である。黒田氏のよきライバルであった永原慶二氏らが編集した「黒田俊雄著作集」は絶版となり、今は受注生産でかろうじて入手できるだけである。私の自治体東京某区には20以上の図書館があり、かなりの専門書でも入手可能だが、黒田俊雄著作集はない。東京23区では「中野区」もしくは「千代田区」に存在している。「権門体制論を黒田氏の原著に遡って研究しようとする学者」もほとんどみたことはない。

オリジナル権門体制論の復元と、それに対する静かな批判(継承を含む)が必要である所以である。

鎌倉殿の13人、スピンオフ「北条泰時の野望・鶴岡八幡宮の雪」

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
石段に差し掛かると、源実朝は北条義時の目を見てこう言った。
「叔父上、腰を痛めていると聞きました。この寒さはこたえましょう。ここで結構です。もうお帰りください」
それを聞いていた源仲章は得意満面の笑みを浮かべた。
「執権殿、ご老体にはこたえましょう。ささ、その太刀は私が持ちますゆえに」
「おお仲章、気が利くな。叔父上に代わり、太刀持ちをお願いしよう」
それにしてもこの太刀は、と仲章は思った。ずしりと重い。どうやら本身の刀である。
「ここは武家の都、武家には武家の作法があります」と義時は笑った。
実朝は何も言わない。仲章は黙って太刀を受け取った。義時と実朝は目で合図を送りあった。

拝賀は終わった。しばし休息。実朝は雑色頭の重蔵を呼んだ。
「仲章様の様子はしかと見ました。束帯の下に着込みをしておりまする」
「これと同じか」と実朝は、自らの着込みを重蔵に見せた。
「弓を使うでしょう。十分にお気をつけを」と重蔵は言った。
「かねてからの打ち合わせ通りに。お前の配下も命を落とさぬよう、注意せよ」
「われわれの命など、御所の命の代わりとなるなら」
「それはいかん。生きとし生けるもの、みな同じぞ。それに私は今日、一人の男を斬る。殺生はそれだけよい」
「はっ」重蔵は闇に消えた。

実朝たちは石段を下りていく。仲章がふと気が付くと、松明を持つ雑色の数が異常に増えている。篝火もたかれ、鎌倉の漆黒の闇は消え、薄明りに満ちている。
雑色たちは自分たちの行列を二重に取り囲んでいる。実朝の前方は特に厳重で、屈強で背の高い男がまるで壁のように実朝の前を歩いている。
一行は公暁が潜む大銀杏に近づいた。
「気が付かれている」と仲章は悟った。「とすれば自分の命が危ない。逃げなければ」と仲章は思う。
「あっ、足が」と言って仲章が立ち止まった。逃げるつもりである。
「それはいかんな、重蔵、介助さしあげろ」
実朝の命で重蔵が仲章をいだいた。「いだく」というより、羽交い絞めである。
「い、息が」と仲章はうめいた。

同時に、大銀杏の向こうで「おう」とか「うっ」という声が上がった。重蔵の配下が公暁の仲間を襲ったらしい。やがて静まった。
「公暁、出てこい。命はとらん。陸奥がいいか。どこぞの島か」と遠流の場所を尋ねている。
やがて大銀杏の向こうから公暁が現れた。利き手の右腕から血が流れている。これでは弓は使えない。左手に太刀を持っている。片手で使うには重いであろう。
実朝は仲章が手放した剣を、重蔵の配下から受け取った。
「公暁、何がしたい。俺を殺しても鎌倉殿になれるわけがなかろう」
「うるさい、実朝。おれは父の仇が討てればそれでよい。しかしそれだけでないぞ。おれは武家の棟梁になる。こんな田舎の鎌倉ではない。京の都で棟梁となるのだ。」
「ほほう、仲章がそう約束してくれたか」
「仲章などではない。もっともっとずっと尊いお方だ」
「だれだそりゃ、不動明王か誰かか」、実朝は会話を楽しんでいる。
仲章を羽交い絞めしていた重蔵の手が緩んだ。都の公卿はとっくに逃げている。仲章の背後には雑色が満ちている。
仕方なく仲章は公暁のほうへ走り出した。
「仲章」と叫ぶと、実朝はその背を袈裟に斬った。
「親の仇はかく討つぞ」と実朝は大声で叫ぶ。逃げる公卿たちは、背にはっきりその声を聴いた。この言葉は公暁の言葉として、長く日本史に記録されることとなる。

「な、なにをする実朝。仲章は上皇様の近臣ぞ」
「ほほう、そうか、ならお前はその近臣を斬ったことになる」
「な、なにを言う。お前が斬ったのではないか」
「いや、お前が斬ったのだ。上皇様は怒るであろうな」
雑色たちが実朝に向って走ろうとする公暁の前を幾重にも遮った。
「公暁よ。私はお前がかわいいのだ。哀れでもある。この鎌倉は私たち源氏の物ではない。坂東武者の都だ。われわれは所詮、まろうど(客人)に過ぎぬのだ。」
「うるさい」と剣を振りかざしたその腕を、重蔵がしたたかに棒で打った。剣は石段に落ちる。
「仲章を斬ったお前はもはや京にも居場所がない。俺を殺したのだから、むろん鎌倉にも居場所はない。どこぞの島で20年我慢しろ。呼び返してやる。おれは鎌倉を去るが、それは約束しよう」
「鎌倉を去るのか」公暁の声だけがした。実朝は雑色たちを下がらせる。
「ここは源氏の都ではないからな。実際疲れるのよ。あっちこっちに気を配り、儀式儀式の毎日だ。鎌倉殿なんて、そりゃ疲れるだけで、何のいいこともないんだぞ」
実朝はにっこりと笑った。
公暁は背後に向って逃げ出した。その背に向って実朝は叫んだ。
「三浦には行くな。殺されるぞ」
「実朝、お前が許しても、お前の主人である義時は許すまい。お前は犬だ。所詮は義時の犬だ」叫びながら去っていく。
「止めますか」と重蔵が言う。
「いいさ。死なせてやろう。島で20年、あの男にとっては地獄であろう。それになるほど義時は許すまい。あの男は怖い男だ。」
重蔵の配下が軽口をきく。
「御所様にとって執権様が邪魔なら、執権様をやっちまえばいいの、、、」
と言葉が終わらぬうちに、重蔵は男の顔を張り飛ばした。男はごろごろと石段を落ちていく。
「重蔵、義時に絶対手を出すなと配下に伝えよ。おれが死んでも鎌倉は大丈夫だが、義時が死ねば鎌倉はつぶれる」
「さほどのお方で」
「ああ、あの非情さはまさに父上の継承者にふさわしい。おれは優しいからな。あそこまで非情にはなれん。今はまだ鎌倉は開府したばかり、非情さが必要だ。」
「それに義時が今死ねば」
「執権様が今お亡くなりになると?」
「太郎泰時の時代が来ない。おれは義時死後の太郎の時代を見据えている。しかし太郎にはまだそこまでの覚悟がない。あと数年、そう5年は義時に生きてもらわねば」
「太郎様は御所と同様、お優しい方と存じますが」
「なに、あれはあれで非情になれる男よ。しかも太郎の時代は鎌倉は成熟期に入っていく。非情さと優しさ、二つながら必要だ。」
「それにしても御所は本当に鎌倉を離れるので」
「ああ、京に行く。死んだからな。太郎の為に、京の大掃除をすることにした。それに田舎暮らしは飽き飽きだ。京が好きなのさ。和歌も詠みたい。あの寺にもこの場所にも行きたい。」
とおどけた後、真剣な表情となった。
「京で遊んで、それからあの男にも会う。あの男には会わねばならん。」
「その男に会ってどうなさるので」
「𠮟り飛ばしてやるのよ。下らんハカリゴトはいい加減にしろとな。刀が打てるからといって、武士の心が分かってたまるものか。」
「刀を打つ、刀匠なのですか」重蔵は誰とわかっているが、わざととぼけている。
実朝は笑った。
「いずれ話してやる。とにかく太郎泰時の時代を招きいれるのが、この実朝の大仕事よ。その為に京に行く」
重蔵はそれ以上はきかない。
「金はあるぞ。ついてくるか重蔵。京の酒はうまいらしいぞ。」
「むろんのこと、地獄の果てまで」
「地獄とは、いちいち暗いのだよ、お前は。それに俺は極楽に行くつもりだ。12歳の年から苦労してきた。お釈迦様は見てくれているさ。地獄では俺に会えないぞ」
「ではこの重蔵も極楽に参りまする」
「そうか。いけるさ。人は殺すが民のためだ。それにお前には悪人の、罪人の自覚がある。自分を善人だと思っているやつらさえ極楽に行けるのだ。いわんや悪人が行けないことがあろうか」
あとは自分に言い聞かせるような一人語りになった。
「親父の頼朝には悪人の自覚があったのだろうか。父上は地獄に行ったのか。極楽か。義時は自分の罪が分かっている。叔父上は極楽に行くだろう。そうでなくてはならん。」
重蔵は黙って実朝の傍に控え、口を挟まない。

実朝は公暁が去った大銀杏を悲しげに眺めた。

すると「この泰時を少し買いかぶってはおらんか。それに親父は地獄行きだよ。その覚悟がなければ、鎌倉の執権などできぬ。」と雑色の一人が立ち上がった。
「おお太郎泰時か。俺が殺されるのを黙ってみていたのだな。冷たい男だ」
「俺が刀を抜くこともあるまい。公暁にはもう戦う力はなかった」
「公暁にはかわいそうなこととなった。事前に捕まえてやっても良かった。しかし俺は死ななくてはならなかった。それ以外、この鎌倉を離れる術はないからな」
「西国行きか。親父はだいぶ反対したようだな」
「ああ、西国に行くと言ったら義時は無責任だと怒り狂っていたよ。母上には頭をはたかれた。しかしこれでいい。鎌倉に源氏の棟梁はいらない」
「しかし、この太郎泰時。さほどの器であろうか。真面目なだけの男だ」
「子供の頃からマツリゴトの本ばかり読んでいた。民を本気で救いたいと思っている。俺にはそこまでの情熱はない。義時もいつの間にか初心を忘れたと言っていた」
「父上が」
「ああそうさ。叔父上も若い頃は民を救いたかったらしい。正しいことをしたかったらしい。それが気が付いたら修羅道を歩み、抜け出せなくなっていた、と言っていたよ」
泰時は黙った。
「俺に言わせれば、義時はよくやった。鎌倉には今でも秩序がない。今は覇道政治をなすしかない。王道政治はまだ無理だ。それに和田を討ってからは、評定も開いて御家人たちの意見にもよく耳を傾けている」
実朝の一人語りは続く。
「西はまかせろ。朝廷はおれたちが黙らせる。使ってもいない内裏を建てるために、民を餓死させるような真似はさせない。」
「朝廷は、おれたちと同じく田畑と民に支えられて生きている。本来は同じ船に乗っているのにな。争っている場合ではない。」と泰時がつぶやく。
「それを分からせてやるのさ。本当の意味で、朝廷と鎌倉は協力していく。それが民を救う道だ。そのためには、かのお方には退いていただくほかない。」
「撫民」
「そう、撫民。おれたち武士にとっても、それが良いことなのだと、地頭たちにも分からせねばならん。朝廷ばかりを悪党だと言うわけにもいかんだろう。鎌倉だって朝廷に劣らぬほどの悪党だ。次の執権、北条泰時、やることは山ほどあるぞ」
「千幡、お前が鎌倉に残ってそれをやったらどうだ」
「源氏の棟梁だから無理だ。坂東武者にとっては永久によそものだからな。まあ実際、できねえんだよ。人には得手不得手があるのだ。おれは趣味人だ。趣味が多い。お前は趣味もなんにもないつまらない男だ。だからマツリゴトに向いている。」
「千幡、てめー、結構人を傷つける男だな」
と実朝を見ると、実朝は泣いている。なぜ泣いているのか分からない。そして、
「太郎よ、聖君になってくれ」とつぶやいた。
泰時は無言でうなづいた。

つづく。

秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

2022-11-23 | 権門体制論
このブログは、「露骨に政治的なこと」は書かないし、他にブログもやっていないので、政治的意見の表明は「面倒なので避けている」わけです。ただ私は歴史学者と同じように、「後鳥羽上皇」を基本「後鳥羽」と書きます。「冷静な分析の対象」として「実朝」「後鳥羽」であるべきだと思っているのです。信長は信長です。「信長公」とは書きません。信長は多少好きですが、それでも分析の対象であることには変わりありません。実際、熱烈なファンでもありません。信長関係の本をよく読むというだけです。

「秋篠宮」は「秋篠宮さま」と書くべきなんでしょうか。よく分かりません。「宮」は敬称でしょうか。これは「辞書的問題」ではなく、「今の日本人が秋篠宮の宮を敬称ととらえるか」ということです。本当は秋篠宮さんと書きたいのです。「宮さん」という言葉は、時代劇によく出てきます。でも「秋篠宮さん」では「馬鹿にしている」と怒る人もいそうなので、「秋篠宮」と書きます。あーめんどくさい。

ちなみに「天皇」は明確な敬称なので、「昭和天皇」「現上皇」「今上天皇」です。

本音を書くと、30億のリフォーム代は実はどうでもいい。「警護のための仕組み」が必要ですから、それぐらいかかるでしょう。

私にとって不可解なのは「一体、日本人は天皇や皇族を敬っているのか、いないのか」です。これ「本音を言う人」めったにいません。ヤフコメの「暗黙のルール」では、天皇の悪口は言わない。天皇一家の悪口は言わない。その代わり秋篠宮一家のの悪口はクソみそに言っても構わない、ようです。秋篠宮という尊厳ある個人に対し、実に「失礼」だと思います。悪口言ってもいいのは、政治家だけ、または政治的影響力を持つインフルエンサー(TVコメンテーターとか、学者とか)だけ、が個人的感覚です。秋篠宮は政治的発言は「できない」ので、私は悪口は言いません。そもそも彼の孤高感が好きです。

私の現天皇、皇族観としては、「天皇は象徴として憲法に規定されているから、その規定通りに扱うべきだ」というところでしょうか。人間に貴賤なし、と結構本気で思っているので、貴賤は考えません。人間は基本的にみんな敬うべきだから、人としての天皇、皇族を、他のすべての人間と同じように敬うということです。

生臭い問題はこれぐらいにします。

歴史学者の桃崎有一郎さんが「天皇の敵は社会の敵となる。平清盛や木曽義仲はそれに気が付かなった。源頼朝は気が付いていたので、社交的辞令を散りばめながら、上手にふるまった」というようなことを書いていて、それが気になっているのです。

そこで私は「北条泰時の野望」という「小説みたいな駄文」で、「後鳥羽上皇をうまくあしらう、社交辞令ができる源実朝」を描いてみました。「頼朝と同じように、本音を隠して、うまく上皇を懐柔できるか」を考えてみたかったのです。

桃崎さんは「皇国史観の徒」じゃないですよ。京都学の教授です。たまにTVに出ます。「天皇みんないい人である神話を解体せずに京都の明日はない」と書いていますが、TVでは「天皇陛下さま」と言いそうな勢いで、敬称を使います。「天皇の敵は社会の敵」なので、炎上に気を付けているようです(笑)。著作では後鳥羽も後醍醐も「ぼろくそ」です。

桃崎さんの文章はちょっと「過激に過ぎる」ところがありますし、独断も甚だしいのですが、「礼思想の専門家」であるので、「読まずにはいられない」のです。

朝廷は「儒教の礼の思想に基づいて設計され、礼の思想に基づいて運営されてきた」、これ私にとっては目からウロコです。いろんなことが「すんなりわかる」のです。

人々が飢えて死んでいるのに何もしない後白河法皇を見ると、「なんで何もしないのだ」と腹が立ちます。しかし「やってる」のです。「儀礼と儀礼のための内裏の修築」をやっているのです。「和歌の会」だって開いているのです。人々を救うには儀礼を高め、天皇の徳を高め、徳治を徹底する。そして文章経国の思想に基づいて「和歌、もしくは漢文の隆盛」をはかり、言葉の力で天を動かし、そして人を救うのです。

そのためにはお金が必要ですから、税をとります。ただでさえ飢饉なのですから、人々はばたばた死んでいきますが、儀礼と文章経国の(宴会)の方が大事なので、やっぱり税金が必要なわけです。そして飢饉で人が死にます。

北条泰時が「立ち向かった」のはこういう「異常な現実」です。それを「撫民」と今日ではいいます。私が北条や鎌倉幕府を高く評価するのは、この「礼思想の悪害と戦う姿勢があったからだ」と、実は最近になって認識しています。前から好きだったのですが、好きな理由がよく分からなかったのです。なんとなく「泰時が民を救ったから」というだけでした。しかし朝廷が儒教の礼の思想に基づいて動いている、とわかると、いろんな疑問が解けていきました。思えば、悪左府頼長も、信西も、みんな「儒教の学者」です。

もっとも私の中ではまだ「仮説」です。礼の思想をそんなに学んだわけでもなく、消化しきれていないからです。「秋篠宮のリフォーム」は実はどうでもいいのですが、彼らが「あまり必要もない儀式を毎日やって疲れている」のは確かでしょう。私なぞ結婚式だって疲れるのでなるべく行きません。儀礼、大嫌いです。諸事、儀礼的空間は疲れます。秋篠宮さん、お疲れ様です。