歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉殿の13人・公暁くんは何がしたかったのだろう。

2022-11-21 | 鎌倉殿の13人
一応の区別として「公暁くん」「平六くん」「義時くん」は大河の物語の登場人物。「公暁」「平六」「義時」は歴史上の人物ということで書きます。途中で混交してしまったらすみません。

「公暁くん」(ドラマの)、を見て改めて思ったのですが、「何がしたいのか」が分からない。それは歴上の公暁も同じである。「実朝を討って、御家人に北条の犯罪を明かし、実朝に正統性が存在しないことを説けば、御家人は納得する」と「公暁くん」は言う。「平六くん」も「いい考えだ」とか言う。

そんなわけないじゃん。

誰が自分たちの棟梁を殺されて「ははー」と従うのだろう。北条義時が同時に死んだとすると、それをきっかけに御家人の主導権争い、また源氏系の「鎌倉殿の地位争奪戦」が起きるだけである。「三浦」が私たちが今日思っている以上に御家人への統制力を持っていたとすれば別だが、ドラマではそうはなっていない。また史実でもそこまでの力があった証拠はない。

そもそも「三浦」は公暁の「黒幕ではない」というのが学者の一般的見解である。

学者は「単独犯行」と言う言葉が好きである。本能寺の変も、今の通説は「明智光秀の単独犯行」である。へたに「黒幕」とか言い出すと、学者としての「品格」が問われるせいもあろうが、「黒幕は証明できないから黒幕」なのだから、学者が「黒幕は〇〇だ」に賛同するはずない。私は学者ではないので、黒幕探しをしてもいいのだが、あまり興味はない。

「公暁」(史実の)に関しては「実朝を殺しても鎌倉殿になれるわけない」と私は考えており、その観点からは黒幕に興味はない。しかし「実朝が死んで誰が得をするか」は「歴史的分析」としては面白い。黒幕は「いない」だろうが、「黒幕探し」そのものには「知的営為」としての意味はないわけではない。

話を戻して、公暁の犯行については「合理的説明」は無理であろう。鎌倉殿になりたくて殺した、は際立って無理である。「恨みをもっていたから殺した」なら成り立つ。「恨みで殺した」は一応「合理的説明」にも見えるが、「恨み」そのものは「非合理」である。

「頼家の霊が憑依して実朝を殺した」に比べれば多少合理的というだけである。

「中世人の考えていることは現代人には分からない」とよく学者は言うが、その学者は現代人である。私も現代人なので、そりゃ分からない。中世人に会ったことはない。会ったことがある現代人の気持ちだってほぼ分からない。それほどに人間は非合理な側面がある。

だから「公暁」「公暁くん」の気持ちは分からない。分かるのはそれが「現代人」である私からみて極めて「非合理」で「説明できない行動」であることだ。

鎌倉殿になりたいなら少なくとも「自分の手を汚す」べきではない。他者にやらせるべきである。「親の仇なら殺しも許される」なんてことはない。それは曽我兄弟の件でもはっきりしている。だが「実朝さえ殺せば、あとはどうでもいい」のなら自分の手で「うっぷん」を晴らすことになる。

では何が「うっぷん」だったのか。

実朝はどう考えても「親の仇」ではない。頼家が死んだとき、わずか12歳である。公暁は「親の仇はかく討つぞ」と叫ぶが、親の仇とは言い難い。
公暁と実朝の間に、記録には残っていない何かがあったのかも知れない。「実朝ぜってー俺の手で殺してやる」と考える強烈なパワハラとか何か。
しかしそれを証明することはできない。また「殺すこと」が今よりずっと「軽い行為」であったことも犯行を後押ししたかもしれない。しかし御家人クラスは上級者だからめったに殺されない。まして実朝をや、である。

「人間のすべての動機は説明できない」とまで不可知論を展開する気はない。特に「欲望によって殺した」というのなら、ある程度理解はできる。理解というのはもちろん共感ではない。

「金が欲しくて殺した」「恐喝されたので殺した」とかいう「自分の利益のため」ならある程度、理解はできる。繰り返すが共感でも肯定でもない。人を殺してはいけない。

だが公暁、公暁くんの行為は説明できない。間違っても「鎌倉殿」にはなれない。

とすると「ある強烈な恨みがあった」「鎌倉殿になれると何故か思い込んでいた」ということになる。私は「説明できない行為だ」というためにこれを書いている。

つまり私の動機は「公暁に関する学者の説をどんなに読んでも納得できないという、うっぷん」である。

例えば、ある実朝の専門家がいる。彼自身は多少粗忽なところがあって(テレビで拝見する限り)、愛すべき人である。パワハラ系の威張り癖のある学者、学閥を組んで徒党を組む学者、その親玉と追随者のような「品格のなさ」はない。サービス精神がある愛すべき人である。本郷和人さんとか細川重男さんの系統である。

氏は言う。中世国家は権門体制であった。公と武は互いに協調関係にあった。(少しは競合もしていた)。公武協調の象徴が「実朝と後鳥羽」であった。実朝は公武協調を進めるべく、親王を鎌倉殿に迎えようとした。ここに至って公暁の鎌倉殿継承の夢は完全に途絶えた。そこで犯行に及んだ。

だから「犯行」に及んでも「鎌倉殿になれないでしょ」と言いたい。今までの公武対立史観に代わって、公武協調を説明したいあまり、公暁の行為については分析が粗雑である。
「公武協調史観」(私は懐疑的だが)の立場ならより「そう」である。右大臣である実朝を殺して、後鳥羽の近臣でも源仲章まで殺している。それでも公暁が「鎌倉殿になれる」と幻想を抱いていたなら、西に住んでいたにもかかわらず、公暁は「公武協調」という時代の空気を全く吸っていなかったことになる。本当に公武協調の時代なら、そんなことはありえないことだ。公暁が幻想でも「なれる」と勘違いすることはありえない。
それとも公暁については公武協調史観の「例外」だとでもいうのだろうか。それはご都合主義すぎるであろう。

公暁には朝廷の意向など眼中になかった。征夷大将軍になる必要もないし、征夷大将軍は鎌倉殿の必要条件ではなかった。公暁は御家人の支持さえあれば鎌倉殿になれた。しかしその御家人の支持を得られると勘違いしたことが、公暁の間違いであった。もっともこれは鎌倉殿になりたいと公暁が思っていた場合の話で、私はそんな勘違いするわけないと思っている。つまり彼は「うっぷん晴らしたかった」だけである。そう考えないと説明がつかない。

実態としては幕府は朝廷がなんと言おうと、自分の意思を貫くことができたのである。頼朝がそうだったではないか。そもそも「反乱軍」である。幕府という用語は一般的ではなかったが、「陣中にいる」という意味である。常時戦場、それが字義からみた「幕府」の意味で、坂東武者はそういう精神的雰囲気の中で生きていた。「戦場においては朝廷の意向は無視していい」、それが幕府の出発点で、その後頼朝の路線変更があって、頼朝自身は朝廷と政治的妥協を図ったが、御家人がそれを強く支持することはなかった。

幕府は、ただ礼儀として一応朝廷に「うかがい」をたてて「朝廷の顔を立ててあげた」だけである。現代の歴史家の一部は、そういう幕府の社交辞令を、「朝廷の権威はまだまだ強い」とか勘違いしているのである。さらに言えば「勘違いしたい」のである。朝廷の権威は強かったと思いたい、のである。「京武者がいた」という幻想(願望)と同じ構造である。

黒田俊雄のオリジナル権門体制論は「対立と相互補完」は協調するが、「相互補完原理主義」ではない。「相互補完などというために構築した理論でない」という趣旨のことも書いている。権門体制論は「オリジナルじゃなくてはいけない」道理はないが、現代の権門体制論は黒田の論理をあまりに矮小化し、黒田が提起した「天皇制のメカニズムの明確化」という問題を避けている。あまりに単純化され、稚拙と言ってもいい「便利な説明法に過ぎないもの」に堕している。

公暁くん、公暁の行為は説明できない。またそれを「現代の権門体制論」や「公武協調説」の流布のために行うのは、間違っている。要するに私の「うっぷん」はそこにあるらしい。


「鎌倉殿の13人」と「公武協調または公武対立史観」・そして権門体制論

2022-11-18 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」のオープニング映像。最後は兵馬俑の像のような「武士」が「貴族に挑んでいる、刀を抜こうとしている」シーンで終わります。

明らかに昔ながらの「公武対立史観」を採用しています。「昔ながら」に批判の意識はありません。私は基本的に公武対立史観を支持しているからです。

源実朝は「上皇」と強く協力していこうとしますが、北条義時も三浦義村も「表面上は上皇を敬いながらも」、何度も「西のやつら」の「好きにされてたまるか」という言葉を口にしています。
そもそも北条義時の兄である北条宗時の「遺志」が「源氏も平家のいらない。西のやつらに指示されたくない。俺たちの坂東を作る。そこで北条が頂上に立つ、というもので、その遺志を北条義時は「継いで」いるのです。もっとも三谷さんは「王家の犬になりたくない」とか登場人物に言わせません。上皇をユーモラスに描くことで、政治問題化する危険を回避しています。

これが三谷さんの「史観」だとは思いません。大河は物語です。物語は「対立があったほうが面白い」場合が多いのです。「みんな仲良し」だったり、「上皇が出てきてははーとなって、すべてが丸く収まる」ようでは「時代劇は」成立しません。大河では「戦国もの」と「幕末もの」が好まれますが、それはまさにその時代が「対立の時代」だからでしょう。三谷さんは「物語作家として対立構造の方が面白い」と考えたことは確かです。がそれ以上は分かりません。年代的には「公武対立史観」で育ちましたからより「親しみを持っている」のは確かでしょう。さらにリメイクの元作品である「草燃える」は明確に公武対立です。最後に北条義時はこう言うのです・

「これは謀反ではない。ムホンというなら、上皇こそ謀反を起こされたのだ。謀反者は上皇なのだ」

私は若く「天皇、上皇のムホン」という概念を知りませんでした。しかし歴史を勉強してみると「帝ごムホン」と言う言葉は存在します。特に後醍醐関連ではしばしば登場するようです。
幼い私はこのセリフに驚いたのですが、同時に「興味深い」とも考えました。

「草燃える」が放送された1970年代後半を「革命の時代」みたいに思っている方がいますが、全く違います。日本では高度成長が1960年ごろ始まり、70年代後半には頂点に達します。それから徐々に「低成長」の時代にはいります。バブルというのは「あだ花」です。高度成長で多くの日本人が「浮かれている」のに、「その社会を根本的に壊そう」なんて勢力が広く支持されるわけはありません。自民党は今よりずっと支持されていましたし、共産党は今よりずっと嫌われていました。共産党支持と言っただけで「TV界から追放された大物司会者」もいたのです。

少しも「革命の時代」ではありません。ただし「反権力的な考え」は今より強かった。また知識人の多くがマルクス主義に親和感を持っていました。ただし大学では既に「マルクス経済学」は主流ではなく、「近代経済学」が主流でした。

要するに革命的なものに「多少のあこがれ」を持っていたのは「知識人」であり、それも「資本主義を改善するため必要」と考えただけであり、「革命を起こそう」なんて言っている人間は、極めて少数というか、私自身は東京に住んでいましたが、見たこともありません。

「公武対立史観」は確かに「マルクス史観の影響」を受けていますが、知識人、庶民含めて「基本的にはマルクスなんて原著を読めないし、理解していたわけでもない」ので、「古いマルクス史観の残滓」などという指摘も違います。史学者がきちんと分かっていたかも怪しいもので、せいぜい階級闘争史観を「便利なツール」として使った程度でしょう。

若い(40代ぐらいの)研究者や「西の研究者」が、「公武対立史観は間違いだ。あれはマルクス主義史観の古い残滓だ。公武は協調していたのだ」と叫びたくなる気持ちは理解できます。
しかし「その声があまりに大きすぎて」、なんだが「引いてしまうな」というが実感です。「大いなる間違い」だと思います。20年もたてば大きく修正されるでしょう。「一過性の流行」に過ぎないからです。

あらゆる場面において「公武」が「協調していきましょう」と思って行動していたとは到底思えない。実際は「対立もあったし」「協調もあったし」「妥協もあった」わけです。そういう「具体的な現実を」、公武協調史観という「原理」によって「言葉遊びのように塗り替える」のは、知性的態度とは思えません。

たとえばこういう極論をいう西の学者がいます。

「承久の乱こそ公武協調の現れだ。幕府は結局朝廷を尊重し温存した。いや朝廷の在り方を正常にし、朝廷を盛り立てるために承久の乱を起こしたのだ」

ここまでくると失礼ながら「頭がどうかしてしまったのだ」というよりありません。

公武対立が「あらゆる場面で当てはまる」ことはないですからそれも「原理としてはいけない」わけですが、「協調」も原理にしてはならないのです。「対立や協力していた」というだけです。「対立」という言葉を使うのが「生理的にいや」らしくて「競合」という人もいます。どうしても「対立」というワードを抹殺したいようです。

公武協調史観のモト原理は黒田俊雄氏の「権門体制論」です。黒田氏は学者にしては「珍しく」、生粋のマルクス主義者で政治的発言も「反権力的」なものが多い。そもそも「権門体制論」自体が、極めて反権力的な原理です。それはつまり「天皇制を支えている権力とは何か。貴族ばかりを見てはいけない。武士も支配者だし、寺社も支配者だ」と訴えているのです。

ところがそれを「読み変えてしまう」わけです。日本は天皇を中心に貴族、武家、寺社が相互補完しながら運営してきた、と。そして権門体制論については「まともな批判をしないまま、便利なツールとして利用」することになります。

こういう「おめでたい」読み替えを誰がしたのか。具体的な学者名を挙げることもできますが、別に「喧嘩するつもり」はないので、挙げません。ただ「もうちょっと冷静に考え、原理的思考を捨ててほしい」と思うのみです。

私は個人的に「権門体制論の検討」をしていますが、日本には「権門体制論」と名のついた本はほぼ皆無です。せいぜい数冊です。しかも「読み替え権門体制論」であることがほとんど。ちなみに権門体制論に批判的な本郷和人さんは時に触れて言及しますが、彼が言及しているのは「読み替えられた権門体制論」であって、黒田氏のオリジナルではありません。

ただ中には「まともな批判」をする学者もいるにはいるのです。ただ非常に少ない。

公武協調史観のモト理論は権門体制論です。しかしその権門体制論をまともに検討している学者は少ない。検討なきまま、便利なツールとしてのみ流布して、多くの学者が「乗っかって」いる。

これは憂慮すべき現状でありましょう。

小説「北条泰時の野望・民のために」・下書き・唐船の巻

2022-11-07 | 鎌倉殿の13人
舞台 1216年、実朝の死(この小説では死なない)の3年前

設定
北条泰時・・実朝側近。聖人君子ではなく、自分の政治をしたいという野望に溢れた男、いとこの実朝を同志と思っており、人のいないところでは「金剛、千幡」と幼名で呼び合っている。本当は「太郎、次郎」と呼ばせたいが、実朝が「次郎」であったという学者がいない。33歳。

源実朝・・生まれたからずっと坂東で育った坂東武者。上皇を「だます」ため、上皇の言うことを従順に聞く上皇懐柔政策をとっているが、それにもそろそろ限界を感じている。本来は坂東独立志向を持ち、そのためには「源氏もいらない」という立場をとっている。24歳。

安達景盛・・頼朝最側近安達藤九郎の息子。実朝最側近。かつて頼家に女性をとられそうになった過去を持つ。後、宝治合戦を引き起こす武闘派だが、実朝や泰時とは気が合い「3人グループ」を形成している。史実上、娘を北条泰時の子に嫁がせている。執権北条経時、時頼兄弟の祖父である。北条執権の元で、御家人代表として安達氏は力を振るい続けた。通称、弥九郎。30代後半か?

唐船の巻

10日ほどして、泰時が伊豆から戻ると、鎌倉は「鎌倉殿が大船の建造を命じた」と騒がしい。評判は良くない。いやすこぶる悪い。無駄な出費と労役だと不満の声が聞こえてくる。
泰時はなんの相談も受けていなかった。さっそく御所に乗り込んだ。

当の鎌倉殿、実朝は安達景盛と冗談を言いながらふざけている。泰時は腹がたった。「おい、千幡、貴様なんのつもりだ!」。
実朝はあっけにとられている。やがて「ああ、唐船のことか」とつぶやいた。

「いや、あれね。あれは弥九郎(安達景盛)もしきりに勧めるしな」
「弥九郎てめー」と泰時は景盛の肩を蹴飛ばした。景盛は予想していたのだろう。うまく受け身をとってくるりと回って起き上がった。
「やりやがったな。太郎」と景盛は泰時に殴りかかる。こんなことは坂東では日常茶飯事である。顔は殴らない、が暗黙のルールらしく、足を蹴ったり、関節を取り合ったりしている。遊んでいるようにも見える。実朝は笑って見ていた。いつものことで慣れている。

ひとしきり争いが終わると、実朝が口を開いた。
「陳和卿とかいう宋の工人がやってきてな。オレは前世、ナントカ山の長老で、自分は門弟だったとか言うわけさ」
「千幡、そんなアホみたいな話を信じたのか」
「信じるか、アホ。いくら信心深いオレでも信じない。」
「でもまあな」と景盛が口を開いた。
「頼朝公がほとんどの金を出した大仏再建の時、いろいろ尽力したのは本当らしい。」
「本当か、どうもうさんくさいおっさんだな。じゃあ京にいればいいじゃねーか。なぜわざわざ鎌倉に下ってくる。」
泰時の怒りは収まらない。
「ところで金剛、竜骨というのを知っているか」と実朝。
「竜骨、なんか聞いたことはあるな」
「中国の船にはな、竜骨という柱が通っていて、それで強いらしいのさ。陳和卿はうさんくさいおっさんだが、技術はあるらしい。まあ失敗しても、唐船の作り方を教わるだけでも意味はあるかも知れない。何より後ろに上皇がいるらしい。上皇の言うことは尊重して、アホな話でも尊重して、上皇に戦を起こさせないというのが、オレたちの、いや鎌倉の考えだろ」
「それは分かるが、金がかかり過ぎる。御家人も民も不満を持っている。」
「それはオレも考えた。あいつらの気持ちも分かる。頭の痛いところだ。だが、オレには別の狙いもあるのさ。おい金剛、オレが誰を一番尊敬しているか知ってるか」
「おやじの頼朝公と言いたいところだが、そう聞くからのは違うのだろうな。誰だ。」
「平清盛と北条義時よ」

北条義時の名は泰時にとっては不思議ではなかった。口うるさいが、偉大な政治家であることに間違いはない。後世、特に明治以降、北条義時は皇国史観というおよそ学問とはいえない非合理な学説のもとで「悪人」とされた。彼が勝利した「承久の乱」は「あってはならないこと」として「承久の変」と表記された。戦争の深まった昭和18年には、その「承久の変」自体、教科書の本文から消えた。しかしそれは後世の歪んだ評価であって、この時期、義時は御家人から圧倒的な支持を得ていた。それは京に対抗する坂東独立路線を彼が頼朝から継承したためである。坂東は長く闘争の場所であった。それは朝廷が現実を全く見ない政治を行ってきたせいである。朝廷は「徳治主義」という考えのもと、「天皇が徳を持ち、京の文化が盛んである、建造物が立派である」ことが「統治」であると考えていた。京の「徳」が全国に普及している「はずだ」と観念的に考えており「現実にどうなっているか」は問題ではなかった。そして現実的には、関東より以東は「収入源」以外の意味を持たなかった。つまり何の政治も行ってはいなかった。国司も派遣せず目代という代理人を送ったりした。ちなみに頼朝が最初に襲った山木も目代だが、貴族ながら流人である。流人が国司なのである。さらに知行国という制度を作り、平家や公家に「丸投げ」をした。無責任体制は究極に達し、地方は荒れに荒れた。無駄な争いが絶えず、無駄に血が流れた。源頼朝は、そこに粗削りながら「政治と実際の統治」をもたらした。北条義時はそれを継承した。御家人とて好んで戦をしたいわけではない。出費も多い。できれば安穏に暮らしたい。それには強い「芯柱」がいる。御家人が支持するのは当然であった。

平清盛は意外でもあったが、話の流れからして「宋との貿易」を実朝は強調したいのだろう。泰時は最後まで唐船建造に反対したが、結局はしぶしぶと引き下がった。
「陳和卿が本当に山師だったら、ただじゃおかねーからな」流石に実朝に直接言うのは嫌だったのだろう。安達景盛に向かってそう言った。

が、唐船は鎌倉の海に浮かぶことなく、朽ち果てた。それは「鎌倉殿実朝」の愚かさの象徴となってしまった。

それを笑って了承するほど泰時は温和ではない。御所に乗り込むや、今度は実朝の肩を思いきり蹴飛ばした。実朝は強く床に倒れた。
が、実朝は坂東武者である。すぐに起き上がり「なにしやがるんだ」と泰時の腕をつかんだ。実朝は中国から伝わったとかいう変な技を使う。今の言葉で言うなら「合気道」であろう。
泰時の体はあっという間に宙に浮き、床にたたきつけられた。腰を打ったのか、泰時は起き上がれない。「うーん」と唸っている。

泰時を見下ろしながら実朝は言った。
「泰時よ。どうやら間違っていたらしい。後ろに上皇がいても、時にははっきりと拒否すべきだったのだ。」
そうして歌を吟じた。

山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

「なんだそれは。お前が上皇に贈った歌ではないか。いつ聞いても腹が立つ歌だな」と泰時。

「これだけ言えば、上皇も気が付くと思ったのさ。いっぱしの大人が、犬じゃあるまいし、ここまでしっぽを振るか。オレは心のどこかで気が付いて欲しかったのさ。オレは心から上皇に従っているわけではないと。ここまで書けばオレが芝居を演じていると分かってくれると思ったわけさ。しかし上皇は喜んだという。ありゃ子供だな。そして子供が大好きなのが戦だよ。戦で民がどれほど困窮するか考えもしない。それで我慢をしてきたが、オレもそろそろ限界だ。泰時よ、オレは心を決めたぜ。戦を好み、民を顧みない上皇と、オレは戦う。」

「やっぱり俺の同志だけはあるな」。と泰時は腰をさすりつつそう考えた。しかし「戦う」とは、具体的にどういうことだろう。

つづく。

小説「北条泰時の野望」・下書き

2022-10-13 | 鎌倉殿の13人
北条泰時と安達景盛が御所に実朝の前に伺候すると、実朝はいつものように人払いを行った。
こうして宵の口になると三人で政の相談をする。それがもう何年も続いている。
「京の様子はどうだ」と実朝が尋ねる。
「伝わってくる話はいつも同じだ。上皇は相変わらず和歌を作り、武術を好み、そして大規模に国家鎮護の祈祷を行っているらしい。」と景盛。上皇とは後の後鳥羽院である。
「鶴岡八幡宮のほうは」と実朝。
「公暁殿も相変わらず、加持祈祷に熱心らしい。少し異常なほどな」と泰時。
「何を祈っておるやら」と実朝は笑った。
「あいつは俺を恨んでいるだろうな。やつは鎌倉殿になりたくて仕方ない。しかし母上と義時は先手を打って、さっさと京から皇子か藤原の息子を呼んできて、鎌倉殿に据えることを決めてしまった」
「鎌倉殿はそれでいいのか」と景盛が尋ねる。
「ああいいさ。それが公暁の為でもある。長く生きたければ鎌倉殿になどならないことだ。鎌倉は北条と御家人のものだ。それでいい。鎌倉殿など高貴な飾りで良いのだ。」
こういう割には、実朝には気概があり、「単なる飾り」になりきれない。そこが不幸と言えば不幸かと泰時は思った。実朝は色好みでないわけではない。上皇の従妹を嫁にしている手前、側室は公然とは置けないが、若いころから何人かの女性と関係を持っている。それでも誰にも子供ができなかった。北条政子と実朝、そして北条義時は話し合いの上、京から鎌倉殿を迎えることにし、話は進んでいる。子ができないことを除けば、実朝は鎌倉殿として御家人の力関係に配慮した政治をきちんと行っている。むろん義時の補佐のもとで、ではあるが。

公暁は先代の鎌倉殿、頼家の子だが、感情に流されやすく、狭量で、自負心だけが高く、とても人の上に立てる器ではない。鶴岡八幡宮の別当すら、勤まっているとは言えなかった。
「公暁殿が逆恨みして刃傷になど及ばねばよいが」と泰時。
「そこまで馬鹿ではありまい。鎌倉殿である俺を殺して、自分が鎌倉殿になれるとは、どんな阿呆でも思うまい。それに奴は軟弱だ。いざとなれば、自分の身ぐらい自分で守れるさ」
実朝の武術は飛びぬけてはいないが、それは荒くれ者ばかりの坂東の中でそうであるだけであり、京にいけば、おそらく「剛の者」という扱いを受けるであろう。日ごろから鍛錬を怠らず、身の丈も大きい。
実朝は言う。
「公暁のことはよい。それより気になるのは上皇のことだ。皇子を鎌倉に出すことを容認しながら、せっせと武を蓄えている。」
「一体、かのお方はどういう方なのだ。文を交わしている鎌倉殿なら、我々よりわかるのではないか」と景盛。
実朝は首をひねる。
「かのお人の特徴は競争心の異常な強さだろうな。なんでも自分が一番でないと気分が悪いらしい。文化においてはかの人は第一等のお人だ。しかし武においては、この鎌倉がある限り、一番にはなれない。それが悔しくてならないのだろう。慈円和尚のように、武人が力を持つのは道理、とは考えられないらしい。」
そして声を落として「わからないでもない。京は今はろくな政を行ってはいないが、とにかく長い伝統と歴史がある。たかだか三代目の、この鎌倉とは背負っているものが違うのよ」
「となると」と泰時。「今は鎌倉殿の上皇懐柔策おかげで、京との関係はすこぶるうまくいっているが、何かことが起きれば、あるいは上皇はこの鎌倉を潰しにかかるかも知れない」
少し間があった。
「そうなれば、戦うだけさ」と実朝がつぶやいた。
「上皇と戦えるのか」と景盛。
「戦えるさ。座してこの鎌倉が潰されるのを見ているわけにはいくまい」と実朝。
「すると箱根の坂あたりで、この国は二つに分かれることになるな。」と泰時。
それを聞いて実朝は笑った。
「太郎、お前はそうは考えてはいまい。院が兵を起こせば、お前は総大将となって、一気に京に向かうだろう。院に味方する守護も多いだろうが、結局は坂東武者の力にはかなわない。この国が二つに分かれることはない。鎌倉があるいはこの国の中心となろう.、、、、社稷は君である上皇より重いのだ。そしてその社稷より、民はさらに重いのだ。」
と言って、ニヤリと笑った。
この和歌好きの、京都好みの男は、あるいは自分より豪胆かも知れない。泰時は驚きをもって、この若い鎌倉殿の顔を見た。同時に、もし自分が将来、父の職を継ぐとしたら、父より実朝とはうまくやっていけるだろう。つまりは同志だ。と泰時は感じた。

かなり中略

実朝が公暁に討たれた。鎌倉は天地がひっくり返ったような騒ぎであったが、人気のなくなった自邸で、泰時はただ茫然としていた。そこに雪の中から一人の男が現れた。
「鎌倉殿!」と泰時は思わず叫んだ。
「太郎、俺が死んだと思ったか。公暁などにやられる俺ではないわ。だがな、俺はこのまま逐電して鎌倉を去る。」
「なぜだ」と泰時はまた叫んだ。
「まあ、そう興奮するな。次の鎌倉殿は京から来ることになっている。俺がいなくも問題あるまい。しかし問題なのは公暁の行いよ。まさかあの阿呆でも、鎌倉殿を殺して、自分が鎌倉の主人になれるとは考えまい。しかしやつはそう考えた。となれば、よほど強い力が、公暁に及んでいると考えなくてはなるまい」
「誰だ、それは、父か、三浦の義村か」
「違う。鎌倉に生きるものなら、俺を殺しても意味がないことは分かっている。公暁を唆したのは、鎌倉に住んでいない人間さ。しかもその者は大いなる力を持ち、さらに鎌倉を憎んでいる。」
泰時は考え、やっと落ち着きを取り戻した。
「上皇か」
実朝はニヤリと笑った。
「そうだ、上皇よ。公暁は鎌倉では棟梁にはなれないが、上皇が鎌倉を潰して、京に武士の都をおくとすれば、まあそれでも公暁を棟梁なんぞにしないだろうが、そう言って唆したのだろう」
実朝は泰時に背を向けた。
「そろそろ面倒な鎌倉殿の位など、辞めてしまいたいと思っていたのだ。太郎、俺は京へ行く。京とは必ず戦となる。俺は身分を隠し、京の情勢を調べる。お前は鎌倉を仕切れ。義時も相当老いてきた。これからが俺たちの時代ぞ」
そう言うと、実朝は風のように鎌倉を去っていった。

つづく。

「鎌倉殿の13人」・第33回「修善寺」・感想と考察

2022-08-28 | 鎌倉殿の13人
義時が真に冷酷な悪人になったのは、実は先週と先々週だけで、それまでは「迷い」がありました。迷いなく殺したのは、比企一族と一幡だけで、それも史実から言えば時政がやったことです。(義時は江間家の当主で、北条時政の共犯、主犯ではないということ)。私はやや義時びいきですので、今回、また義時が多少の「迷い」を持ってくれたことは嬉しい限りです。悪漢ヒーローも良いけれど、この時代、あまりに残酷なのは「ただ嫌われるだけ」ですから「歴史的存在としての義時」にかわいそうです。史実を考えるなら、ほとんど時政がやったことで、義時自身が主体的に企画した悪事は限られています。

今回の頼家の死については「幕府のみんなで決めたこと」なのに、結局義時ひとりで刺客を放った感じになっていて、そこはまた悪人を引き受けることになって、かわいそうでした。しかし泰時を「頼家救出に向かわせ、頼家に最後の機会を与え、かつそれが無理なら泰時に冷酷な政治の力学を体験させる」ためには、必要な「設定」だったのでしょう。泰時はどこまでも善を引き受けるようです。

頼家に関しては善児にあっけなく殺されるのではなく、武士の棟梁として「見事に戦って散る」設定にしてくれて、良かったと思います。また頼家も最期まで北条討伐を考えていたという設定ですから、今回の死は「一方的なものではなく」、勝負の結果ということになっており、それも良かったと思います。頼家への何よりの「供養」でありましょう。主人を討つから不忠という考えを、鎌倉時代に当てはめる気が、私にはありません。そもそも「鎌倉を火の海にする」と三浦義村に伝えた時点で、頼家は「戦って死ぬ」ことを自ら選択した、そういう設定だと思います。

トウが善児を殺したのは、親の仇というより「介錯をした。苦しみを早く終わらせた」感じがしました。善児も「これでいい」とうなづいていました。トウは、泣いているように(雨ですが)も見えました。

泰時が「昔の義時であり、最後の希望」であることは、視聴者には分かっていましたが、設定としてもちゃんと言ってくれて明確になりました。同時に時房が「汚れ仕事をする」理由も説明されていました。この時房、歴史的にみればなかなかの「くせ者」で魅力的な人物です。

源仲章がこれからの最重要人物になることは、キャスティングから言って明らかでしたが、さらに明確になりました。それにしても実衣さんは「自分の子供を討った男」に意外なほど寛容です。源仲章に注目したことは一切なかったので、少し勉強しようと思いました。ありがたい契機を与えてくれたと思います。

「時政とりく」がこのまま「調子に乗って」くれると、悪は彼らが引き受けることになります。義時びいきの私としては、時政が悪を引き受けてくれないと困る(史実もそう。史実は物語と基本関係ないけど)ので、どんどん調子に乗ればいいと考えました。〇〇ファンの方にとっては、たまったものではありませんが。

あと思いつくまま

・源仲章が和歌について色々言っていましたが、要するに「文章経国思想」の変形なんだろうと思いました。「漢詩文や和歌を詠んでいれば、それが政治なんだ」という儒教系の「変な思想」は、日本史においては「漢詩を莫大な費用がかかる会を開いて作ってさえいれば、現実がどうあろうと、それが良い政治なのだ」という形で、弊害を多くもたらした気がします。人々が飢えて死んでいく中で、歌を詠んだり、漢詩を作ることに何の意味があるのか。「文章経国思想」が「歴史に及ぼした影響」について私は最近、多少の興味を持っています。

・頼家が後鳥羽院と通じていたという話は聞いたことがありませんし、史実ではないでしょうが、ここから後鳥羽院との戦いにもなっていくので、都の影響というか、陰謀は、ちょくちょく登場するのでしょう。

・物語としては「公武対立」の方が面白いですから、この物語も「やや公武対立的」にはなっています。しかし公武協調史観も巧みに取り入れていて、公武対立派にも公武協調派にもそれなりの納得を得られる作品になっていると思いました。私自身は、公武対立も公武協調も「どちらも合っているし、どちらも間違っている。原理主義的思考に陥ってはならない」と考えています。ある程度「テキトー」で柔軟な方が、原理主義よりは良いと思います。

源頼朝「すでに朝の大将軍たるなり」が鎌倉幕府を滅亡させた説

2022-08-26 | 鎌倉殿の13人
私が上記のような「奇説」を書くのは「歴史は自分の頭で考えないと分からない」と考えているからです。つまり「人の書いたものを理解するだけではいけない、つまらない」と思っているから。取るに足らない「奇説」「珍説」ですが、一応まっとうな歴史学者さんの本を参考に書いています。しかし「だから正しいと」いう気などさらさらありません。

源頼朝は反乱軍として(平家が官軍)スタートし、朝廷とは関わりなく勝手に土地の「安堵」を行っていきます。ただそのうちにやや路線が変わって「朝廷ともうまくやっていこう」となります。挙兵には後白河法皇の院宣があったという方もいますが、その証拠は全くありません。愚管抄は否定しています。それどころか、後の奥州藤原氏戦争は、後白河法皇の強い反対を押し切って強行されます。法皇は「追認」という形で、形式を整えました。

そうして出来上がった東国を拠点とし、東北を「支配下」に置く政権は、実に貧弱な政治システムしか持っていませんでした。当時の「政権」の主な仕事は「土地裁判」です。これがある程度システム化されたのは(それでも貧弱ですが)北条泰時の時代とされます。それまでは源頼朝が決めており、その下に何人かのブレーンがいました。貧弱な役所も一応はありました。しかし膨大な数の案件を公平に処理できるような「システム」はなかったのです。これが二代目将軍源頼家の不幸でした。18歳の彼は、安定した「裁判システム」のもとで政治を行うことはできなかったのです。頼家が「適当に線を引いて土地の分配をした」という話が伝わっていて、学者さんの中には「嘘だ」という人もいます。ただ膨大な案件を「公平に」裁くことは、システムがなければ至難の業であり、「線を適当に引きたくもなる」というものです。

武士の政権ですから、武力は持っています。しかし政治力(裁判力・調停力)は未熟でした。地頭の「やり口」も洗練とはほど遠く、剥き出しの暴力で物事を解決することも多かったわけです。

さて「奥州藤原氏戦争」に勝利し、一応「政権」を構築した源頼朝は、やっと上洛して後白河法皇と会談します。朝廷との利権調整が行われました。ここで源頼朝は有名な一言を言います。法皇に直接言ったのではなく、九条さんにですが「すでに朝の大将軍たるなり」と言ったのです。

これはどういう意味でしょうか。「朝」とは「朝廷」か「日本」のことでしょう。「すでに」とはどういうことか。「朝廷が認めようと認めまいとそうなのだ」ということなのか。

しかし朝廷はこれを「朝廷のもとの大将軍」と捉えました。別に間違った解釈ではありません。現代の歴史家の一部が「鎌倉幕府とは国家の警察、軍事部門を担当した一権門に過ぎない」というのは、この朝廷の解釈をそのままなぞっているからですが、幕府がそう「宣言しちゃった」ことは史実です。朝廷、幕府の当事者意識はそうなのですが、実態としてそうであったかは別問題でしょう。頼朝の意識など所詮は当事者の主観であり、歴史学は客観を重視すべきものであるはず、です。なお「権門」というのは、支配層のことで、公家(王家)、寺社、武家(鎌倉幕府)が「権門」です。

朝廷は院政期、武家(平家)を治安維持と、荘園公領制の維持の為に使ってきました。荘園公領からの税は未納されがちでした。「武士が徴収してくれるなら」、むしろ朝廷にとってはありがたいことでした。もっとも地頭はそんなに「いい人」じゃありませんから、取っておいて貴族には送らないという事態も頻発します。

頼朝、というか「幕府」は「国家の警察、軍隊」であることを宣言したせいで、とんだ重荷を背負います。上記のような反抗的な地頭を取り締まらないといけない。そもそもの仕事である「土地の裁判をしなくてはいけない」。そして「大番役として荒れ果てた京都の治安を守らないといけない」(これは御家人だけの名誉とされました)、、、そしてついには「次の天皇を誰にするか決めなくてはいけなく」なります。

本来「次の天皇を決める」のは「警察や軍隊の役目ではない」はずです。しかし朝廷では天皇家の「跡目争い」が激化していました。保元の乱といった「殺し合い」も起きていました。鎌倉幕府は「ヤクザみたい」と言われますが、この時代の朝廷だって大差ありません。殺し合いで次の「治天」を決めていたのです。

天皇を朝廷内の二つの派閥で、戦争なく交代させるには、第三者である幕府の判断が必要だったのです。幕府は承久の乱後は天皇を指名しましたが、ずっと指名役をやることには「乗り気」ではありませんでしたが、やがてこれが「習慣」となって「深入り」します。もっとも後鳥羽系の天皇が生まれるとまた「やりたくもない戦争をしないといけないはめ」になる恐れがあったので、それを避けたいという意図が働き、乗り気でないと言っても、後鳥羽系だけは断固拒否でした。

幕府はなるほど「権門」でしたが、最初の方に書いた通り、その政治的実力は未熟でした。だんだんと成熟していきますが、武士の全てを統合しているわけでもなく、非御家人と言われる「幕府に属さない武士」も存在していました。正確には「本所一円地住人」と呼ぶそうです。

本来は「東国政権」に過ぎないのです。でも「権門体制の権門だ」「全国の警察、軍隊だ」と頼朝が宣言してしまいました。「すでに朝の大将軍たるなり」です。これが幕府滅亡への道につながります。東国政権に過ぎない存在が、「日本に責任を持つ」と宣言してしまったのです。執権政治下でもその考えは引き継がれました。でも西国は「朝廷がやるもの」と安心していたと思います。

しかし後鳥羽院が承久の乱を起こし、幕府が勝利し、幕府は本当に「全国チェーン」になってしまいます。西国まである程度の責任を負うことになるのです。

朝廷が西国を「きっちり」やってくれたら、幕府も楽だったでしょう。しかし朝廷は承久の乱の後、裁判力、政治力を減衰させていきます。というか院政期すら平家(武家)なしには相手を政治、裁判の決定に従わせることは難しかったのです。自然、全国政権の実力はない幕府に「おんぶにだっこ」という形に頼っていくようになります。朝廷は裁判も行っていたでしょうが、大きな「政治」としては、伊勢神宮の遷宮、大嘗会、内裏の修理新築、大仏殿の再興などがあります。これらの費用は「一国平均役」という税でまかなわれ、幕府もその徴収に進んで協力します。「建物の建設が政治、行事が政治、儀礼が政治」というのは、現代の感覚からするとおかしな話です。でも朝廷は本気で政治だと思っていました。朝廷の政治の根本には儒教の徳治思想があり、それは儀礼や行事を通じて実現されるとされていました。文章経国というこれまたおかしげな儒教思想もありました。大金を使って「漢詩の会」を催し、飲んで食って詩文を作って文学を盛んにすることが、社会を安定させる政治だという思想です。これが「政治なら」、なるほど朝廷は政治をしていたのでしょう。しかし現代の感覚からみても、現実な政治効果を考えても、それらを政治と呼んでいいのか。朝廷の「政治」の中身は、きちんと考えていくべきことだと思います。なおその「政治」に幕府も積極的に協力した事実も、考えてみるべきことの一つでしょう。朝廷が古く、幕府が新しいわけではありません。

さて、話は幕府に戻ります。既に時頼あたりの時代から、幕府は変質し、徐々に「王朝政権のように」なっていきます。「家格によって地位が決まる」ようになり、政治が硬化し、御家人の中に貴族階級(得宗、御内人、北条氏など)が生まれ、政治が儀礼化していきます。そのくせ、六波羅探題にすら「最終決定権」を与えず、鎌倉中央集権に妙にこだわったようです。

そして「次の天皇を決める」という幕府が「いやいや引き受けた仕事」が致命傷となりました。「自分の子をどうしても天皇にしたい」と考えた後醍醐帝が、「幕府を倒さないと自分の子供を天皇にはできない」と考え、不屈の闘志で3回も倒幕を企て、なんと成功してしまいます。高い家格を有しながら、御家人の貴族階級としては認められず、政治の中枢に参加できなかった足利尊氏が「北条幕府」を見限ったことが、成功の原因でした。

もちろん私は教科書的な「幕府滅亡のいくつかの要因」を知っています。悪党の跳梁、蒙古対策の費用、蒙古戦争での恩賞への不満、貨幣経済の進展、惣領制の動揺、得宗専制、高時の個性、足利尊氏、直義兄弟の意図、などです。しかしいずれも決定的な要因かというと、疑問もあり、しかしながら最後の決め手となったのは、後醍醐帝のわが子を天皇のしたいという意思であり、彼の強烈な個性である+足利尊氏と思っています。蛇足ですが、この「決め手」がなければ、室町幕府のように問題を抱えながらも続いたのか。足利尊氏は幕府を見限らなかったのか。それは面白い問題ですが、学者さんですら「まだ考え始めたところ」というのが実態のようです。

その後60年以上、社会は大混乱に陥ります。しかし大混乱の末、武家政権はやっと「非御家人」の問題を解決し、全国の武士(非御家人を含めて)の上に立つ政権となります。「土地裁判」に関しても、「幕府、中央だけで、できもしないのにやる」という姿勢を捨て、地方分権を選択します。室町幕府はどうやら「本当の全国武士の政権」のようで、後醍醐帝の功績は、公家の世を作ろうとして、「本当の武士の世を作った」ことにあるようです。(嘘つくな。バラバラじゃないか、と言われそうですが)。室町幕府は地方の親分化した大名の統制がうまくいかず、「あんな感じ」でしたが、やがて江戸幕府が「地方分権型中央集権」の「いい形」を作り、200年以上の「太平の世」が訪れます。江戸幕府は室町幕府の最終完成形態?なのかも知れません。(室町幕府の再評価はこの10年でしょうか。「あんな感じ」じゃなかった可能性もありますが、私はまだ不勉強で、いまだに「あんな感じ」です。)

現代でも地方分権が問題となります。地方のことは地方に任せた方がうまくいくのですが、「地方の親分が勝手気ままを始める」という問題が生じます(室町幕府の問題、ちなみに、分権なんだから勝手気ままでではないという考えもありうる)。現代の日本政府はよく地方に「丸投げ」しますが、地方分権型中央集権の「いい形」が構築できるなら、地方に任せること自体は、悪いことではないのかも知れません。日本史は、中央集権と地方分権の「いい形」を模索する歴史であり続けています。

鎌倉幕府の性格・公武協調か公武対立か。

2022-08-23 | 鎌倉殿の13人
鎌倉幕府が朝廷や公家と「基本的に協調していたのか」または「基本的に対立していたのか」。今は「基本的に協調していた」が学会の「常識」となっているとされている。

というか、学者さんもつらい立場で「協調史観」か「対立史観」かの「踏み絵」を踏まされているようなのである。もちろん数は多くないが「対立か協調か自体がくだらない話だ」と言い切る学者さんもいる。

そもそも石井進さんや佐藤進一さんが「公武対立史観の立場をとった」とされ、それが教科書的歴史観になったと「された」ことから、こういう面倒な問題が始まる。教科書は「単純化」されているから、なるほど「単純な対立的把握」をしている部分も存在する。その方が「教えやすい」からでもあろう。ただ石井さんや佐藤さんの「原著」を読めば、単純に「対立構造だ」と言っていないことは明らかである。吾妻鑑を読めば、頼朝が朝廷に対して「丁重な態度」をとっていることは明らかなのだから、なんでもかんでも「対立だ」などとするわけないのである。

さらに厄介なことは、この「対立史観なるもの」が「間違ったマルクス史観の、階級闘争史観の産物」とされたことである。ソビエト崩壊後のマルクス否定の流れの中で、マルクス史観の残滓である「公武対立史観」は間違ったもの、否定されるべきもの、とされた(ようである)。

そこで60年代に既に黒田俊雄さんが唱えていた「権門体制論」が注目され、2000年代に入ると、怒涛の「公武協調史観」の「強調」が始まる。

マルクスが何を言おうと言うまいと、この社会に「対立」は存在する。同時に「協調」も存在する。対立していたのに協調したり、協調していたのに対立したりすることもある。

しかし困ったことに、人間は「生物」だから「危険か危険じゃないか。敵か味方か」を判断するようにできている。「脳の仕組み」がそうなっていて、だから「生き残る」ことができる。単純な二項対立が人間の脳とは相性がいいようである。「協調・対立しながら複雑な関係を保っていた」というのが事実だとしても、「人間の脳にとってそれがわかりにくい考え方」であることも確かである。

偉そうにこう書いている私も「単純な生物」なので、二項対立で物事を把握することに慣れている。慣れているというか「複雑な把握」が苦手である。それには苦痛が伴う。

私は育ってきた環境(東京出身)の為か、受けてきた教育の為か分からないが「対立しながらも協調していた」と考える。つまり佐藤さんや石井さんの把握の方がすんなり理解できる。ところが最近はそれが「否定」されているから、元木さんや野口さんの「協調を基本としながら、対立もする」という文章が増えている。これは私にとっては実に読みにくい。いろいろ「オカシイ部分」が目についてしまい、内容がなかなか頭に入ってこない。自然、そういう京都大学系の学者さんの文章は読まなくなる。佐藤さん系列の学者さんの本を好んで読む。「趣味だからまあいいか」と割り切ってもいる。

私にとっての救いは「公武協調史観」の元祖、教祖である「権門体制論提唱者」の黒田俊雄さんが、実は「公武協調史観のその先」を見つめていたことである。黒田氏の主眼は「国家権力とは何か」ということであった。そして当時「武士の研究ばかりしていた。そして武士を階級闘争の勝利者だとしていた」学会の気風を「異端児として批判」した。当時はまさに「異端児」だったのである。今は異端が正統とされているわけである。

「全権力を総体として把握」するためには「公家、天皇家、寺社、武家、総権力の研究が不可欠」だと唱えたわけである。そして「公武協調史観のその先」を見つめていた。単純に「公武協調史観」を唱えたわけではない。そこが救いである。だから黒田氏の文章は私にとっては実に読みやすい。「著作集」がわが「区」の図書館にはないので、そこは苦労している。「買えばいいじゃないか」と思われるだろうが、とにかく「高い」のである。1冊6000円の本を買う勇気が私にはない。そこも「趣味だから仕方ないか」と割り切っている。

「公武協調史観」の「大合唱」もそろそろ終わりかけているようである。「完全勝利」を確信したからかも知れないが、そう簡単に「勝利」は勝ち取れない。とにかく学者という存在は「ああいえばこう言う」人たちだから、すでに「ゆりかえし」が起きているように思う。昨日読んだ本では若手の学者さんが「協調の強調はそろそろ終わりにして、対立にもちゃんと目を向けるべきだ」と書いていた。

いい傾向だと思う。

鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
歴史学の巨人である佐藤進一さんが「日本の中世国家」で「王朝国家」と「鎌倉政権」を「二つの国家」と書いたのは1983年です。既に黒田俊雄さんの「権門体制論」の賛同者は増えていましたが、佐藤さんはそれに対して一つの見解を述べたわけです。
今は文庫になっていますが、もう「感動的」というか「涙もの」です。知識が人間業じゃない上に、論理も明確すぎるぐらいです。この本が「正しいか否か」はとりえず置くとしても、「こんな美しい文章はめったにない」とまず私はそこに感動しました。「論理文に感動」というのはおかしいですが、時々そういう文章に出会います。

佐藤さんは中世を基本的に「分裂の時代」とみています。「権力の分散」とも言います。それに対して権門体制論は「統合」を主張します。「ゆるい統合」ですね。王朝国家、または朝廷?、天皇のもと、公家・武家・寺社という3つの支配勢力が「対立をしながらもゆるく統合し、相互補完なども行っていた」とするわけです。それにしても「ゆるい統合」って、それって「分散」なんじゃないでしょうか?まあ権門体制論自体はかなり観念的な理論ですので、あまり深く研究されたようには思えないのですが「ゆるい国家的統合」「相互補完」という「結論」というか「言葉」が、特に京都大学方面の学者さんには好まれます。私は「権門体制論」ではなく「相互補完論」だと思っています。「はじめに相互補完ありき」という感じがします。なんでもかんでも「相互補完」。相互補完原理主義だと思えて仕方ないのです。それで黒田俊雄さんの「原文」を読んだのですが、やはり「相互補完」は権門体制論の「主題」ではないと思います。

とはいえ「統合か、それとも権力の分散か」は、中世や室町、戦国、江戸、そして現代を見る上で重要です。「権力の地方分散」「地方分権」は現代政治の問題でもあります。

日本史というのは律令国家ができた段階から、地方は国造に「まかせた」傾向が強く、その意味で、ずっと「権力が分散」している状態だったと考えられます。「室町幕府は中央集権がなっておらず、だらしない」と私はずっと考えてきました。でも「地方分権が常態」だったのですから、律令国家、王朝国家、鎌倉幕府、室町幕府における「権力の分散」は特にオカシイことでもないと思うようになっています。むしろ「天下統一」の方が異常であり、江戸幕府が「おかしい」のかも。まして近代・現代政府なんて「日本史の常態」からすると、異常過ぎる中央集権国家なのかも知れません。

律令国家は、大和政権が唐と戦って負けて、唐が攻めてくるという危機感のもと、各地の豪族が連合して作りました。近代国家ができたのは帝国主義の時代で、アヘン戦争を見た為政者たちが、このままでは日本は欧米の植民地になる、という危機感を持ち、その危機感を基礎として作られました。

しかし中世には、というか日本史には比較的「外圧」が少なく、結局「唐は攻めてこなかった」わけだし「欧米も日本を植民地にするうまみ」はあまり感じていなかったようです。でも「外国が攻めてくる」という危機感というか不安が、「国家的なもの」の建設の契機になるという法則はどうやら存在すると言っていいでしょう。しかし聖徳太子の時代から、鎌倉中期に至るまで、結局外圧らしい外圧は「ない」わけです。そして「モンゴル襲来」が起きます。それは「得宗専制」という中央集権の強化はもたらしましたが、そんなに大規模な戦闘を経ずに、形上は「勝って」しまいます。その後できた室町幕府などは「明」とせっせと勘合符貿易して仲良しです。結局、日本史には外圧らしい外圧がなかったわけで、そのせいで日本には「強い中央集権」が育ちませんでした。これは「幸福な歴史」だと思います。江戸幕府は秀吉の「唐入り」の後です。ただし、どこまで「外圧」(明が攻めてくる)意識があったかは、分かりません。

結論を書くと「日本史とは権力分散の歴史」が正しいと私は思います。しかしそれが「二つの国家」かというと、違います。「国家とは権力集中の総体」ですから、私の考えでは「二つの国家とも言えない、二つのゆるい権力体」があったのではないかと考えています。もちろん「奇説」であることは承知しています。

そこで「承久の乱」の問題となるのです。あれは「なんだった」のでしょうか。

京都の後鳥羽には「日本は一つ」「朝廷が正統国家」という天皇家家長としての自負はあったでしょう。しかし現実をちょっと見れば「ずっと地方は国司や在庁官人に丸投げ」の状態だったわけです。いまさら「強烈な中央集権国家」を作ろうと思うでしょうか。いや「作れる」と思うでしょうか。思うはずがない。もっとも「ゆるい中央集権国家」なら可能性はあるか。そこは今後考えます。

彼は非凡な才能を持っていたとされます。和歌や芸術に優れ、刀まで打てたという伝説があります。「おれはできる」と思ったでしょう。しかし「天下統一」的な夢想を抱くとは「優秀な人物なら」考えられないことです。優秀な人物なら、ちょっと現実分析すれば「不可能」とわかるはずです。そもそも権力の分散状態が「常態」だったわけですから。

とするなら「西国は朝廷を中心にゆるく連合し、東国は幕府を中心にゆるく統合していればいい」と考えたはずです。形式上は「幕府は、朝廷に従います」と言ってきているのだから、「面目」もすでに十分たっているわけです。「朝廷が日本の国家だ」と言っても嘘ではないのです。幕府が「私たちは朝廷の侍大将」と言っているのだから、実力が朝廷と匹敵していても、上回っていても、別にいいわけです。もちろん現実を完全に無視して「公家一統」のイデオロギーに完全に囚われた後醍醐のような人物なら話は違ってきます。でもあそこまで変わった人ではなかったように思われます。

そもそも「幕府あっての朝廷」です。「朝廷の根幹である荘園公領制の守護神」こそ幕府だからです。幕府も武士もいなくなったら、税金が入ってきません。

そのために「源実朝に箔をつける」ことが、後鳥羽にとって重要だったわけです。彼は実朝を可愛がり、せっせと官位を上げました。最終的には「右大臣」にまで昇進します。鎌倉御家人にとって大事なのは「鎌倉殿」であり、「右大臣」は「箔」でしょうが、「鎌倉殿は官職ではない」から授与できません。右大臣ならできます。

ところがその肝心の源頼朝が暗殺される。さて困った。幕府がなくなってしまう。荘園公領制が崩れてしまう。そこで彼は「幕府討伐」または「北条義時討伐」の命令を出します。

これがいかにも分かりません。なんでそんな馬鹿なことをする必要があったのか。そしてこれが説明できないと、私の上記の「奇説」は根底からひっくり返ります。まあ「もともとひっくり返って」いるのでいいのですけれど、、、、。

実は、こういう仮説、珍説を考えることで私は自分の歴史理解を深めたいと考えているのです。私の奇妙な「仮説」「奇説」が成り立つか。そのこと自体は本当はどうでもいいのです。さて後鳥羽の意図が説明つくか。それは今後考えてみたいと思っています。

「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
北条時政に関しては「開発領主である」「在庁官人であるらしい」ということがよく言われます。

開発領主
奈良時代の743年。聖武天皇が墾田永年私財法を出します。「私財」と言っても「完全な私財」ではなく、いろいろ制限条件が付きます。税金も取られます。で、地方では資金や権力を持つ「院宮王臣家」という貴族たちが中心となって、それに国司も加わって、とんでもなくエグい開発競争が始まります。バブルです。法律的には制限があるのですが、院宮王臣家は法律なんて「知ったこっちゃない」というわけで、とにかく際限なく欲望を開花させます。土地の領主(管理人)である武士が、ほぼ「院宮王臣家」(貴族)の子孫を名乗っているのはこのためです。
北条時政が生きた時代は1138年以降ですが、この時には「富豪農民」や「郡司層」などが土地の開発を行って「開発領主」と言われました。上皇などの権力者も大規模な荘園開発を行っていました。開発領主が地方の小さな企業とすると、上皇などの荘園は大企業。開発領主は、上皇など大企業の傘下になることで生き残っていました。
北条時政は父の名すらきちんと伝わっていません。比較的新興の開発領主で、もともとは、つまり二代ぐらい前は富豪農民(土地開発人・管理人です。一般農民とは違います。)だったのでは私は思っています。(まだ自信はありません)

在庁官人
国の役所を国衙というのですが、この頃になると長官である受領は現地にいません。代わりに「目代」を派遣していました。国衙の役人を総称して国司と言います。国の役所として機能していたかは疑問です。で、現地勢力が国衙に「たむろ」して、いわば「国衙を乗っ取って」運営していました。国衙というのは開発領主にとっては、「土地をとりあげるいやな奴ら」なのですが、自分が「国衙に入りこめば」、土地の管理権は安定します。そういう人たちを在庁官人と言います。(鎌倉武士は字が読めたのかという疑問がここで生じますが)。名目だけの存在でも良かったのでしょう。
北条時政は開発領主であって在庁官人。らしいのですが、「在庁官人」の方は諸説ありです。もともと後年の護良親王(14世紀前半)などが、倒幕にあたり、「北条なんて在庁官人の子孫じゃねえか」と悪口を言ったのが、証拠の一つなんですが、誤った情報の可能性もあります。「在庁官人」と「下げた」つもりなんですが、北条時政がもっと低い階層だったとすると、「上げてしまった」可能性も残ります。

北条時政はよく「伊豆の豪族」と言われます。ドラマでもそうです。「豪族」というのは便利な言葉なんですが、曖昧です。「開発領主で在庁官人で、かつ武士」とか言ってもわけがわからないので、結局「豪族」ということになるのでしょう。

しかも「小豪族」です。ドラマ上、三浦とは刎頸の友らしいのですが、三浦や畠山は大豪族です。源頼朝と結びつくことによって、小豪族が大豪族と肩を並べるようになったわけです。


「鎌倉殿の13人」・6月から12月までの人々の運命・後半のネタばれ

2022-06-11 | 鎌倉殿の13人
このブログは一応ツイッターと連動しているというか、たまにツイッターにアドレスを載せることがあります。ツイッターでは「今後のこと」について滅多なことは言えません。「ネタバレ」になるからです。もちろん、ネタバレさせても犯罪ではないのですが、「故意に人を不快にする必要はない」ので、私はネタバレに気をつけています。ということで、逆にこのブログではネタバレ一切気にしません。もっとも、本当のストーリーはまだ公開されていないようです。ですからここでは「史実のネタバレ」となります。この大河は「史実と極端に離れたことはしない」ので、史実を知っていれば、ストーリーの大筋は分かります。ネタバレですので、ご注意ください。
ということでまず、

いつまでのことが描かれるのか

物語は6月初旬で1192年です。頼朝が征夷大将軍になったところ。来週が「曽我兄弟の仇討ち」ですから1193年です。そしてこのドラマは1225年までは間違いなく描かれます。あと30年が後半の内容となります。

では、思いつくままに、人々の運命について

北条家関連
北条義時・・1224年まで生きます。
北条政子・・1225年まで生きます。

源頼朝・・あと6年で死にます。1199年。まさに世紀末になくなります。覚えやすい没年です。
大姫・・あと数年でかわいそうに亡くなります。ちなみに彼女の「妹」も後を追うようになくなります。
北条時政・・このあと源頼家の時代が来ます。その後源実朝の時代が来ます。そこまでは調子いいのですが、実朝時代に畠山重忠をだまし討ちします。まあ「りく」の策謀とされるのか。そう単純ではないのか。牧氏事件です。それで失脚しますが、殺されはしません。伊豆に引退です。
北条りく・・牧氏事件で失脚します。が、京都に戻って贅沢しながら楽しく暮らします。
北条実衣・・夫の全成は頼家時代に殺されてしまいます。彼女自身は長生きするはずです。
全成・・頼家時代にたぶん八田、市原隼人さんによって殺されます。命じたのは頼家です。
北条金剛・・北条泰時になります。名執権となります。
北条時房(義時弟)・・結構長生きします。泰時のよき相談役となります。
義時の二番目の妻・・おじさんの比企が時政に殺され、義時とは離縁しますが、殺されはしません。
義時の三番目の妻・・義時が亡くなった時、息子を執権にしようとして流されます。

源頼家・・鎌倉殿になりますが、数年で死亡します。
源実朝・・鎌倉殿になりますが、頼家の子供に殺されます。公暁という子供です。

北条の親戚
畠山重忠・・上記のように実朝時代に殺されます。
稲毛重成・・畠山事件の冤罪をかけられて、かわいそうな死に方をします。ほとんど死ぬために登場した人物です。

目立っている御家人
三浦義村・・平六です。長寿を全うします。が、三浦家自体は北条泰時の孫の代で滅びます。
仁田忠常・・頼家時代に、御家人の抗争に巻き込まれて亡くなります。
安達盛長とその子・・長生きします。金剛に殴られた子は色々事件に巻き込まれます。三浦を滅ぼす合戦を起こすのもこの子です。安達家は鎌倉御家人ナンバー2として権勢を誇ります。
大江広元・・長生きします。執権泰時誕生に力を尽くして亡くなります。
三好康信・・承久の乱時点、1221年では生きており、主戦論を主張します。
和田義盛・・実朝時代に和田合戦で死亡します。
比企能員とその妻・・頼家時代は羽振りも良かったのですが、頼家が危篤となり、その間、北条によってだまし討ちにあって殺されます。

その他
後鳥羽上皇・・承久の乱に負け、遠流です。その後20年ぐらい島で生きます。