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歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

それでも八重は復活する・鎌倉殿の13人スピンオフ小説あらすじ風

2022-05-29 | 鎌倉殿の13人
途中で「小説風」になります。あと史実のネタバレがありますが、「ごく少ししか史実のネタバレさせない。誰でも知っていること。」なので、多分読んでも大丈夫だとは思います。ガイドブックとか見ていないので、どんな情報にも基づいていません。

「草燃える」でも八重さん相当の娘(大庭の娘、松坂慶子さん)は金剛を生んでのち、壇ノ浦で死に、「そっくりさん」(一人二役)として復活するのです。でも新垣さんはもう「クランクアップした」という情報もあります。しかしながら、復活するのは最終回前の2話ぐらい、というのが私の予想なので「もう撮っている」かも知れません。

史実という視点から
北条義時の死の詳細は書きませんが、それなりに急なことでした。義時には他に「正妻の子」とかいまして、金剛ちゃん(北条頼時のちに泰時)が北条を「継げる」という保証はなかったのです。で、私はその時に、政子と「京都から戻った阿波局こと八重」が「北条泰時」を「誕生させる」と思っていました。ちょっと目算が狂いましたが、「そっくりさん復活」も上記の理由で、あり得ると思っていました。

ということで、急に「あらすじ風」になります。時間がないので「あらすじ風」にします。時間があれば「小説風」にしてアップするつもりです。

奥州合戦、義経の死から30年近くがたとうとしていた。義時は幕府の執権である。金剛こと泰時は侍所の長官である。そんな時、義時たちは京都の公家から女性を紹介される。その女性は京都の情勢にも通じ、商売もでき、鎌倉のことも知っており、とにかく「何かと役に立つ女」だと言う。会った義時親子は、驚く。「八重にそっくり」だったのである。
「名、名はなんと申す」
「本名は椿ですが、まあ色々。商売をするときは八重とか」
「や、八重。それで生まれたののいつだ。えっ、奥州合戦のころではないか。これは生まれ変わりとしか思えない」

八重のそっくりさん、は、義時、泰時のそばで仕えることになります。

やがて義時の死
「ああ、椿殿か、、、」
「義時殿、義時殿、わたしです」
「なんだ本物の八重ではないか。迎えにきてくれたのか。おれはなー。随分と人を殺してきた。極楽には行けそうもない。お前とはあの世でも会えない」
「自分を善人だと思っている者でも往生はできるものです。まして悪人だと思う心があれば、なんで成仏できないことがありましょうや。あなたは極楽に行けますよ」
「ああ、そうか。ありがたい。あっ、椿殿ではないか。泰時を、泰時を頼みます」

泰時、急を知って京から鎌倉へ
泰時「義母が毒を盛ったとか、政村を次の執権に担いでいるとか、正確なことが分からないのです。椿殿」
椿こと八重「それはみんな嘘です。義時殿の死を利用して、裏でうわさを流しているのはあの一族」

てな感じで、椿こと八重こと「新垣結衣」は、政子とともに、「名執権北条泰時の誕生」に深くかかわるのでした。さらに八重が救った鶴丸は、成長して、、、、。

とにかく「このドラマの最後の希望、北条泰時が誕生」して、「つらいことが多いこのドラマも、一応はハッピーエンド」です。ただ全部予想です。

「#後白河院のスマホ」・保元の乱まで3話・鎌倉殿の13人スピンオフ

2022-05-29 | 鎌倉殿の13人
1,中継ぎで帝になった男

後白「舞え、舞え、かたつむり♪、やりだせ、つのだせー」
鳥羽「後半歌詞違わないか。雅仁、相談あるんだけど」
後白「あっ父さん。大丈夫すか」
鳥羽「いつまでも死んだ近衛のことで、泣いていてもしょうがない」
後白「まあ、そうすね。世は無常ですからね。諸行無常の響ありってね」
鳥羽「それ平家物語だろ。時代考証的におかしくないか。まあとにかく、それでさ、美福が育てているお前の子、守仁を帝にしようと思ってな」
後白「ああ、そうすか」
鳥羽「リアクション薄っ!もっと驚けよ」
後白「政治興味ないんすよ。面倒くさそうだし。武士とか怖いし」
鳥羽「じゃあそれでいくから、ヨロシク。あっ、電話だ。ああ忠通っちゃん。えっ。何。親より先はおかしいから、とりあえず雅仁を中継ぎで帝にする!」
後白「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ。ぴえん超えてぱおん、なんすけどー」 注 ぴえん超えてぱおん・・少し涙が出るどころではなく、大声で泣きそうだの意味

2,基本的に人まかせな男

後白「われらもついには仏なりー、あなたも仏になれますよー、死体って意味じゃないからねー♪」
信西「よっ。相変わらずいいお声だ。あのー荘園整理令のことなんですけど」
後白「いいよ。いいよ。信西ちゃんなら間違いないから。あれ好きだなー、信西ちゃんの名言、今一度日本を洗濯いたし申しそうろう、だっけ。カッコいいー」
信西「いやそれは。あっ、言ったかな。うん、言ってるな。言った気がする。ありがとうございます。じゃあ印を押してください。こことここね。シャチハタはダメですよ」
後白「いいよいいよ。ポチッとな」
信西「清盛さんも協力してくれてますしね。これで日本は安心だってとこですよ。儒教っていいな、礼の思想っていいな♪。じゃあバイバイきん」

後白「忙しい男だな。我をたのめて来た男ー。その名は信西。ジーニアス。ほんとは儒教の学者だよ。仏教じゃなくて儒教だよ。あっ、電話だ。あっ清盛ちゃん。えっ、何。信西ちゃんが兄ちゃんを攻撃しろと言ったけどいいかって。聞いてないよー」

3,勝ってしまった男

後白「仏は常にいませどもー。なんだかはっきり見えないなー。そういう時こそクリンビュー♪」
信西「保元の乱の後始末。だいたい終わりました」
後白「だからさー。やり過ぎなんだよ。都で死刑とか。やだなー。祟られるよ。お前死ぬよ。オレも危ないな。寺作ろうよ。怨霊対策。何はなくとも怨霊対策」
信西「もとより地獄行きは覚悟の上、仏に逢たら仏を殺し。」
後白「冥府魔道か!柳生一族の陰謀の徳川家光か!ぜってー違うからな。親に逢うたら挨拶し、仏に逢うたらニッコリ笑い、、、だ」
信西「それでー、新院(崇徳)にも、ちょっとばかり長期旅行に行っていただこうかと。どこかがいいかなー、、なんて」
後白「遠流じゃん。それって遠流じゃん。もう本当やだ。あっ、兄貴はうどんが好きなんだ。讃岐だよ。讃岐しかない。すぐ呼び戻せよ。」
信西「うどんってなんすか。じゃあ、讃岐ってことでいきますね」

後白「讃岐に電話しよ。あっ、兄ちゃん。ごめん。本当にごめんね。全部信西のせいだからね。これは逃げ口上じゃなくて本当だからね。えっ、元気。うどんが美味しい。そりゃ良かった。調べたら盆栽なんかも名物らしいよ。あっ、送ってくれたお経ね。ちゃんと納経するから。安心して。まあさー、今まで人任せだったけどさー。やってみるわ。10年、10年ガマンして。必ず呼び戻すから」

後白「兄ちゃん元気で良かったな。にしても信西、やりすぎだよな。命惜しくないかね。えっ、えっ、あっ、源義朝。痛い痛い、どこへ行く。清盛ー、清盛ー。ヘルプミー、プリーズ!」

第4話につづく予定。

上総介広常の「大疑問」・一つの仮説・鎌倉殿の13人関連

2022-05-27 | 鎌倉殿の13人
上総介広常は「草燃える」では、小松方正さんが演じて、とにかくガラの悪いおっさんでした。「おい武衛ふざけんじゃねえぞ。佐竹が先だろ」とか言ってました。「おい武衛、パン買ってこい」とか言いそうな勢いだったのを覚えています。

私は歴史のシロウトの上に、「大先生の本でも一旦は根底から疑う、基本的に信じない」という「癖」があるので、頭の中はいつも疑問で一杯です。上総介広常は「上総の介で、上総全土をほぼ勢力下においていた」(上総は介が最上位)と言われても、

1,上総介という「世襲でもない官職名」が「そのまんま本名」なの?千葉氏は千葉介とも「名乗る」けど、千葉〇〇で、介はつかないじゃん。
2,勢力下においていたって「具体的にどういうこと」。
3,それほどの権力を持った人間が、源義朝(頼朝のおやじ)の「郎党」だったの?「郎党」って何なの?子分なの。協力者なの。友達なの。「おい、義朝親分、パン買ってこい」って感じだったの。
「義朝をまとめ役として紛争を仲裁してもらった」の。それとも「仲裁させていた」の。あっ。義朝は国司しかも守だったっけ。国司に郎党がいるわけだ。
4、本当にたくさんの兵を持っていたの。平治の乱に参加して負けてるけど、兵は連れていかなかったの。なにより暗殺後、その兵なり家人なりにはどうしたの?梶原景時に「あだうち」しないの?
5,在庁官人なの?在庁官人って具体的に何をしていたの。たとえ在庁官人じゃなくても、「親分」として政治をしていたの。じゃあ「字の読み書き」できるよね。「上総介」なら国司なんだから、字は当然読めるし書けるよね。
とかまー色々です。

頼朝に2万騎で駆け付けたとか言われてますが、当時の生産力からして2万騎なんて絶対ありえません。かなりの大勢力でも「数百騎がいいところ」と言われます。とにかく「兵の数」は盛りに盛られています。

仮説
上総を「実効支配」していたのかなと思います。「上総介」も「金で買った」か「勝手に名乗った」のかなと(仮説です)。つまり都ともまあうまく(年貢を少し上納)やりながら、大部分の年貢は自分の家のものにしていたのかと。

別に「源氏の恩」とかなかったでしょう。源義朝を「利用はしただろうけど」、子分に収まるとかそんな殊勝なおっさんとは思えません。平治の乱も、とりあえず参加したけど、源義朝、義平が不利と見るや、さっさと引き上げたのでしょう。ロマン的武士像という色眼鏡をはずせば、ドライで利にさとい地元の親分の顔が見えてきます。義朝に仲裁してもらったのではなく、仲裁させていた。そこはドライに互いに利用しあっていた。「恩だ、忠だ、義だ」というのは、江戸時代の話で、江戸時代さえ本当にそういう雰囲気だったかは疑問です。

ここは全く自信がない仮説ですが、どうも私には恩義的武士集団が理解できない。だから当面この仮説で考えてみて、「だめだ」と思ったら放棄します。

平家や平清盛と戦っています。途中までは、平家の力を利用してましたが、最後は仲たがいです。本質的に上総を実力で支配したおっさんで、年貢なども「みやこに送る分」は自分たちの裁量で「これぐらいでいいだろう」と決めていたのでしょう。ところが平家が力をつけて、中央集権化してきた。生意気にもきちんと年貢を取ろうとした。それで「仲たがい」だと思います。

関東独立の志向が強かったことは頼朝が言っていて、それはその通りでしょう。でも特別強いわけじゃなく、他の御家人も同じだった。暗殺の理由は、ちょっと分かりません。

以上は仮説です。間違っていることも多いでしょう。でもこういう仮説を組み立てて、自分の頭で考えることが楽しいのです。自分の仮説を自分で潰す。結構勉強になります。

「貴族から武士へ」と「公武政権?」の問題

2022-05-25 | 鎌倉殿の13人
貴族から武士の世へという構図は間違っている、という本が多くあります。ふと「そうかな」と思いかけたのですが、色々考えて「貴族から武士へ」は間違っていないと思うようになっています。

大河ドラマのOPでも「武士が貴族に挑んでいる兵馬俑」みたいのが描かれます。「日本史への間違ったイメージを増長する」という方もいるでしょうが、いや「合っている」と思うのです。個人的には。

どうして「貴族から武士の世へ」が「成立しない」可能性があるのか。もっとも重要なのは「荘園という同じシステムに乗っかった収奪者である」という点です。荘園には公家寺社本家とか下司とか武士地頭とか、複数の人が利権を持っていて年貢(コメとか労役とか)を「ぶったくって」います。だから「武士が新時代のヒーローなんて図式は成立しない。同じ穴のむじなだ。」というわけです。

「誰がヒーローだなんて言ったのだ」ということです。だから「ヒーロー、英雄視」を否定しても意味はない。ただ「政治というか、ぶったくりの実権が貴族から武家に移った」というお話です。価値判断はないわけです。「ぶったくり」は価値判断かも知れませんが、、、。

武士も貴族も権力者です。その点では同じです。だから貴族という権力者から武士という権力者に実権が移ったということになります。「虐げられてきた武士の怒りが爆発して貴族を倒した」なんて言ってないわけです。ただ「権力が移行」したというだけでしょう。変な「想定」をしてその「想定」を否定しても、そんな「想定」してないから、困ってしまうということになります。清盛が「王家の犬になりたくない」と叫ぶ。あれは物語の話です。

昨日吾妻鏡の1185年以降の部分を現代語訳で読んでいました。頼朝はもう後白河と和解してますから、非常に丁重です。いやその前から丁重です。で、後白河が「地頭が本家に年貢を上納しない、なんとかしてくれ」と言うわけです。すると頼朝は「ちっとも知らなかった。驚いた。よくよく叱ってなんとかします」と応じます。知らなかった?

「地頭を置けば、ちゃんと貴族にも分け前入れるって言ったよな。全然年貢上がってこないんですど。子分をちゃんと指導してんのか」という院の怒りに対して、「ごもっとも。院の意向に全面的に従います」と応じるのですが、その後も「同じことの繰り返し」です。ちっとも改善しない。その上、都の治安も良くない。すると「武士が守るって言ったじゃないか。もっとましな警備員を派遣しろ」となります。

頼朝、口だけなわけです。そりゃ、少しはやるだろうし、やったふりもするけど、本格的に地頭を取り締まろうとしていない。していたら「同じことの繰り返し」は起きません。ついには「本家だって地頭に恨みをもって、いい加減なこと言ってませんか」と少し逆切れしてみせます。また「都の治安なら貴族にも立派な検非違使がいるじゃないですか」とも言う。院側は「あれはさー。見てくれなんだよ。警備能力がないわけ。とりあえず検非違使という職を与えているだけ。わかってよ」と応じます。頼朝はやっと「じゃあ仕方ない。〇〇を派遣しますよ」となる。「京都のことぐらい自分たちでやれよ」という不満が見えるようです。でも結局は幕府が色々やるのです。

結び
武蔵野大学、桃崎有一郎教授の「武士の起源を解き明かす」という本があります。こう書いてある。

「ところで、四世紀近い中世の大部分で、京都の形式的な主人は天皇と朝廷だったが、日本の実質的な支配者は武士だった。京都で最も重要なこと、たとえば大規模なインフラ工事に(中略)決定権を持っていたのは間違いなく武士であって朝廷ではなかった。」

ならば

「中世京都を形成したのは、一般に漠然と信じられている天皇や朝廷や町人ではなく、武士ではないか、という疑いが生まれる」

桃崎氏は「京都の歴史の専門家」であり「礼思想の専門家」でもあります。

「京都は武士の都市である」「天皇は時々京都を破壊するが、そのたびに武士が京都を再生した」、、言われてみれば目からウロコ、その通りです。すでに平清盛の段階から、大きな事業は武家が行っています。昨日読んでいた「吾妻鏡」所収の「手紙」からも感じるのですが、公家側は基本的には「なんとかしてくれ」というだけです。実際に建物を修理したり、荘園から年貢をとったり、都市のインフラを整えたり、治安を守ったりするのは幕府です。

公家の都と思われていた京都さえ「武士の都なのではないか」、、、これがどれだけ検討されているかは、学会のことは全く知らない私には分かりません。ただ個人的には、考え、検討すべき重要な提言だと思います。

短編小説「九郎義経のハッピーエンド」・フィクションです

2022-05-24 | 鎌倉殿の13人
小説「九郎義経のハッピーエンド」 鎌倉殿の13人 「史実のネタバレ」を含みます。九郎義経と足利義氏のこと、鎌倉殿禅譲のこと、以外は「少しだけ史実に近い感じ」で書いていますが、完全なフィクションです。「承久の乱の大筋」を知らない方は、史実ネタバレするので読まないことをお勧めします。

健保6年、1219年、頼朝の挙兵から既に39年がたっていた。多くの人々が鬼籍に入った。名前を挙げればきりがないだろう。そして源頼朝も、もうこの世にない。頼家、実朝と「鎌倉殿」は移り変わった。

その実朝が甥の鎌倉八幡宮別当(長官)公暁によって殺された。公暁は頼家の忘れ形見である。ほんの二年前、京から鎌倉に舞い戻り、北条政子のはからいで別当職についた。政子にとっては公暁は孫であり、実朝は次男である。

その日、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮拝賀の日、北条小四郎義時は、実朝に近侍していた。しかし本宮には近侍は連れていけない。実朝の死はあっけなかった。

実朝は義時にとって、決して好ましい「鎌倉殿」ではないと民は思っていた。資質は十分だった。しかしあまりに京に寄り過ぎた。和歌においては後鳥羽院の弟子というべき存在であった。そのため暗殺の背後に義時がいる、または三浦の義村がいる。うわさは色々だった。しかしつまるところ、公暁の単独犯行であった。その公暁もすぐに追手に誅せられた。

源頼朝の血統は絶えた。

鎌倉殿は源氏でなくともよい。実は実朝自身がこの考えを持っていた。実朝は鎌倉幕府の本質が坂東武者の連合政権であることをよく理解していた。無駄に源氏の血が流れてきた歴史に自分が終止符を打とうと思っていた。実朝は数回、鎌倉殿の地位を義時に禅譲したいと密かに申し出た。しかし義時は固辞した。御家人が納得しないというのがその理由だった。すでに多くの一族を北条氏は討ってきた。鎌倉には北条に対する不満が山積していた。とてものこと鎌倉殿になどなれない。
実朝は政子や義時と図って、京から摂家子息、できれば幼い親王を呼んで、鎌倉殿の地位につけたいと計画していた。「お飾り」で良かった。いや「お飾り」こそ必要だった。坂東武者の血縁がいない高貴な血筋。成長して政治力を持とうする前に京に送り返す。それを繰り返していけばいい。実朝はそう計画していた。政子も義時もそれを支持した。
「公暁とともに、頼朝殿の血を自ら絶とうとしたのかも知れない」と政子は泣きながら言った。新しい鎌倉殿には、かねてからの計画通り、京から摂家の子息が迎えられた。

小町亭の義時宅に、半ば公然と奈良の寺の一角で暮らしていた九郎判官義経が現れたのはその頃だった。義経が静と奈良で百姓暮らしをしていることは、御家人なら皆知っていた。むろん頼朝も知っていた。
「九郎は鎌倉第一の功労者ではないか」と頼朝は言った。
これは「平家打倒」を指すものではない。九郎が「逃げ回って」くれたおかげで、頼朝は朝廷から多くの権利を獲得した。九郎追討の名のもとに、税をとる権利、地頭を置く権利を獲得した。さらに奥州出兵の大義も得た。九郎の「功績」はむしろ「平家打倒」のあとの方が大きかった。
「それに免じて」と頼朝は言った。そもそも九郎への同情心が強い御家人たちに、反対するものはいなかった。あの梶原景時さえ一言も言わなかった。

「九郎か、久しぶりだ。死ぬ前に一度会いたいと思っていた」九郎殿とは言わなかった。義時は今は鎌倉の主とも言える執権である。武家の棟梁と並ぶ立場だった。そしていささかの「愛着」も込めていた。今でも義時は、三浦義村を「平六」と呼ぶ。そうした友情を込めて「九郎」と呼んだ。
その思いは義経にも伝わった。義経が激することはなかった。
「小四郎、偉くなった。よく頑張ったな。誉めてやる。」義経の態度は相変わらず尊大である。
「九郎、命が危ないと思わなかったのか」
「兄上の遺言があるだろう。奈良から出ない限り、九郎には手を出すな」
「奈良から出ているではないか」
「なにもかも昔のことだ。忘れろ。いまさら俺を殺してなんになる。それより実朝のことだ。兄上の血筋はこれで絶えた。他の源氏はどうしている。」
「今のところ動こうという一族はいないようだ」
「そりゃ、そうだな。鎌倉殿の地位なんぞ、呪われた地位だ。すこしも幸福じゃない。おれは頼まれてもお断りだ。」
「だれがお主に頼むか。それよりなぜ危険を冒して鎌倉に来た」
九郎は声を落とした。
「静が病だ。もういかん。もってひと月だろう。里が看病してくれている。息子に会いたいと言っている。」
「足利義氏殿か」
「そうだ。死んだことになっている俺と静の息子だ。義兼が兄上の命で養子にした。義氏は知っているのか」
「知っている。何もかも知っている。あの男はいいぞ。お前と違って身の程を知っている。控えめで真面目で、欲がない。清和源氏を鼻にかけることもない。いい武者に育った」
「それなら話は早い。静は動けない。奈良に来いと伝えてくれ」
「あい分かった。早く去れ。お前が鎌倉殿の地位を狙ってここに来たと思う輩が出てくる。おれにしても黒幕扱いされたのではたまらん」
「わかったよ。邪魔者は去るのみだ。小四郎、ありがたく思うぞ」
去り際
「小四郎、弁慶が京で妙なうわさを聞きつけてきた。後鳥羽の院が騒がしくなっているそうだ。気をつけろ」
「それは俺もつかんでいる。大丈夫だ。まさか院から戦を起こすことはあるまい」
「いや、わからんぞ。院はなんでもできるそうだ。和歌も蹴鞠も、刀まで自分で作る。腕っぷしも強いらしい。それに若い。昔の俺のように、自分を過信する男かも知れない」
「腕っぷしか。しかし坂東武者とは気持ちが違う。自分の死を考えたことはないだろう。いくら腕っぷしが強くても、刀が打てても、京の御所の中にいたのでは、武士とは何か。どういう人間か。そこが分からん」
「要するに武士とはちょっと頭がおかしいやつら、ということが分からないということか。分からないから余計に危うい。せいぜい気をつけることだ」
そう言って九郎は去った。足利義氏は奈良に出向いた。この義氏の子孫が足利尊氏であるが、彼が室町幕府を開くのは、100年以上後のことである。

承久3年、1221年になった。後鳥羽院による「北条義時追討の宣旨」が下った。承久の乱の始まりである。
義時の子、金剛は見事な武者に育っていた。はじめ「頼時」と名乗った。頼朝の一字をもらったのである。実朝がそれを嫌った。「父のようになってほしくない」というのがその理由だった。天下の安泰を願って「泰時」と名乗るよう言われた。後世、鎌倉随一の政治家と言われた北条泰時である。
政子や義時、義時の弟の時房、大江広元、三善康信、泰時、三浦義村といった幕府首脳は、「義時追討の宣旨」を幕府つまり関東追討の宣旨と捉えた。京では鎌倉政権を関東と呼んだ。当時、「追討宣旨」を幕府のような「機関」に出す先例はない。「追討宣旨」には朝敵の個人名が必要だった。そして義時が名指しされた。北条義時が倒れれば、幕府が鎌倉という場所に残るはずもない。新たな坂東武者の主(三浦が最有力だが)は京に召されるだろう。地頭職は残っても、鎌倉に幕府は残らない。有力御家人もみなそう受け取った。
しかし宣旨の力は大きかった。頭では、みな分かっていた。頼朝追討の宣旨など数回出された。朝令暮改のようにそれが義経追討の宣旨に変わった。宣旨は坂東武者にとってそういうものだった。
しかし中世は宗教と迷信の時代だった。宣旨は軽くとも、後鳥羽院には何か人を呪い殺すような特殊な力があるようにも思った。それも迷信だと頭では分かっていた。しかし心のどこかに恐怖があった。
そんな義時たちの前に、九郎がふらりと現れた。
「私が呼んだのです」と泰時が言った。
「これで勝てる」、義時たちは瞬時にそう思った。しかし心が華やぐということはない。上皇に勝つということが何をもたらすか分からなかった。
「何を暗い顔をしている。小四郎、いろんな借りを返してやる。」
九郎は会議の主役となった。
「大江広元、京都育ちだったよな。宣旨が恐いか。どうだ」
「宣旨などというものは、勝てばたちどころに撤回されるもの。上皇も人の子。人を呪い殺す力などありません。しかし御家人にそれが分かるか。ともかくも、すぐに動くことです。でなければ御家人たちに動揺が広がります」
「よく言った。そうだすぐに動くことだ。ああ、そこで寝ている三善の爺さん。病なのにご苦労だな。どうだ」
「大江殿と同じ意見です。そもそも我らが京を捨てたのは、こうなることを見通してのこと。すでに今日があることは分かっておりました。戦のことはともかく、京のことは我々がよーく知っています」
「そうだ、いずれこうなったのよ。金剛、いや泰時だっけ。金剛の方が強そうでいいと思うけどな。これは金剛推しだぜ。お前どう思う。」
「少し様子を見て」
「バーカ、慎重もいい加減にしろ。様子なんて見てたら、どんどんどんどん相手が有利になるのさ。御家人に考える時間を与えないことだ。やつらは動き出したら止まらない。動いているうちに、上皇への恐怖などなくなって、死に物狂いになるもんさ。泰時、お前は大将だってな。一人でいけ。これが終わったらすぐ馬に乗って京へ走れ。どうせお前は慎重居士なんだろ。そのお前が飛び出せば、御家人たちは我先へと追いかけるさ」
「相分かった」泰時の顔が紅潮した。
「さて、姉上、姉上は御家人に話かけるのです。やつらは恩義に弱い。恩とはつまりは利。やつらは利にさとい。恩という言葉で、利を刺激するのです。」
「わかりました。すぐに盛時と文章を考えます」
「思いっきり感動的なので頼みますよ。さて最後、小四郎お前だ」
「俺は何をすればいい」
「何もするな。話すな。動くな。山のようにどんと構えてろ。間違っても心配事や弱気を口にするな。お前が動揺すれば、みなが動揺する。」
「よし分かった。で九郎はどうする」
「馬鹿だな。金剛が飛び出せば、そこで勝負ありだよ。まあ大体の作戦はここに書いてきた。この通りやれば勝つ。俺は金剛の勝利の舞を見に行く。金剛、面白く踊ってくれよ。」
「分かりました。出ます。しかし上皇様ご自身が先頭にたって向かってこられたらどうすれば」
「来ないけどね。まあ来たら、一旦は馬を降りて、礼をしろ。丁重に礼をしろ。そして丁重にとっつかまえろ。それで勝負ありじゃねえか。来てくれたらありがたいな。ありがたく、捕まえて差し上げろ」
「おい、平六(三浦義村)、これでいいか。大丈夫か。弟は京都側の大将なんだろ。馬鹿な弟を持つと苦労するよな」
「ああ、馬鹿な弟ほど始末におえないものはない。武衛(頼朝)の気持ちがよく分かったよ。小四郎、俺も京に行くぜ。せめて胤義を俺の手で立派に死なせてやりてえじゃねえか」
九郎はつぶやいた。
「後鳥羽の院もかわいそうな男だ。年は30の半ばか。才能があったのがいけなかった。凡庸なら、可もなく不可もなくで生きていられただろう。小四郎、殺すな。殺せばのちが怖い。お前の名が悪名として残る。これだけのことをやったのだ。これで本当の武士の世がくる。歴史に美名を残せ。まあ美名は無理でも、極悪人扱いはお前も嫌だろう。まあ朝廷をなくしてしまうというなら、そこまで徹底してやる気なら、話は違うけどな」
「そこまでやる気はないし、できはしないさ。分かっている。院は丁重に扱うよ。ただし遠流だ。あの才気は、正直怖い。」
「怖いと言うなと言っただろう。雷が鳴っても、大風か吹いても、何も恐れるな。祟りなんてものはない。小四郎、お前は怯えてはならんのだ。死ぬのなんて怖くないだろう。どうせお前の地獄行きは決まっているのだ。死んだら地獄で会おう。兄上も地獄で待っていることだろうよ。」
九郎は微笑んだ。
「そうだ、泰時。お前が次の執権だ。俺は今百姓だ。だから言うが、民を思え。まあ飢えないほどコメか粟があればそれでいい。それと頭が悪いくせに威張っている、残忍な地頭を取り締まれ。あんな奴らをのさばらせたのでは、滅ぼした平家に申し訳がたたん。しっかりやれよ。」
泰時は頷いた。これで会議は終わった。泰時は発った。結果は九郎の言う通り、幕府側の勝利に終わった。

九郎は御家人になる誘いを断り、多くの金銀を貰って西へ去った。非御家人ながら奈良に豊かな荘園を一つ手に入れた。九郎は里や子供たちとともに畑仕事をして暮らした。時々、京に出向いては白拍子を呼んで遊んだ。鎌倉の御家人たちの子弟は、九郎のもとに出向いて合戦の話を聞くことをせがんだ。九郎は喜々として手柄話を話した。義経は余生を「おもしろく」生きた。 了。

鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。

2022-05-23 | 鎌倉殿の13人
変な題名ですが、「ジンギスカンは義経にあらず」という大正13年に出た本の題名のパクリです。大正13年に義経ジンギスカン説がブームとなり、それを「いさめる」ために書かれた本です。

まあ新田義貞の作戦に似ているし、「新田義貞のもの」でもいいのです。ただし難癖をつければ「新田義貞は船を持っていなかった」はずです。刀を持って海に祈ったら、海の水が奇跡的に引き、海岸を馬で渡って鎌倉に乱入した、、とまあこれも「伝説のたぐい」ですが、そうなっていたと思います。

陸上に敵を引き付けて、船を使って長距離移動し、敵拠点を攻める。「これをやられていたら、とても勝てない。」「鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」。

それで私が思いつくのは幕末の幕府対官軍の戦いです。「花神」という作品でおなじみです。「花神」は三谷さんが好きな大河の筆頭として挙げている作品です。

結論から言うと、新田義貞の作戦とは船を使う点で違っている。これは江戸幕府の京都攻略計画である、ということです。

官軍は東海道を主力部隊として江戸に攻めてきました。それを「箱根の関」で足止めする。さらに海軍を回して官軍に艦砲射撃を加える。

そして海軍主力は、船に幕府歩兵を積んで、大阪湾に向かう。官軍の兵は関東に出払っている。上陸を阻めない。そこから京都を攻めて、官軍政府をせん滅する。これが幻の「京都攻略計画」です。

実際に計画されたようです。しかし軍事的に一回は勝てても、政略的、政治的に勝てないと時局を洞察した徳川慶喜によって退けられています。

これを知った長州の天才的軍略家(花神の主人公)、村田蔵六はこう言ったといわれています。

「これをやられていたら、官軍はとても勝てなかった。京都は陥落しただろう。」

このセリフは今回の梶原景時のセリフとそっくりです。いろいろ書きたいこともあるのですが、とりあえず以上です。

「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。

2022-05-22 | 鎌倉殿の13人
義経勢力に対して頼朝追討の宣旨が出されたのは1185年です。

しかしそれはすぐに撤回され今度は「義経追討の宣旨」が出る。頼朝は北条時政に千人の兵を率いて上洛させ「後白河の失策につけこんで、自らの要求を認めさせ」ます。
それが1185年勅許。文治勅許といいますが、それでは歴史の流れが掴みにくい。頼朝の挙兵は1180年です。1185年勅許までたった5年。この「たった5年」という感覚が「文治勅許」では理解しにくいのです。元号に反対とか賛成とかいうことでなく「日本史の用語はわかりやすく」するべきだと思います。だから1185年勅許。

1185年勅許によって守護地頭の設置が認められた、、、となりますが、
そもそも現物はありません。「玉葉」の記事をもとに復元すると

1,五畿内、山陰、山陽、南海、西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与
2,荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米の徴収
3,田地知行の権限 

となるようです。正直意味がつかみにくい。
ただこれとは別の史料で「守護地頭の設置を申し入れて許可された」というのもあり(後年の史料)、総合的に考えると「守護地頭の設置なんだろう」という感じになっていったようです。

今の段階では、ここでいう荘園公領とは「旧平家の支配地」だろう。「守護地頭」は後年の守護地頭ではなく、「国地頭」と言われる「惣追捕使」のことなんだろう、とされます。各国に「警察の支部」を置いて「その支部長を置く」、その支部長が「国地頭」です。守護に近い。大河ドラマでもはっきり「国地頭」と言っていました。ただし確定した説ではありません。

もっとも2は分かる。荘園公領から税金をとる権利です。これは画期的です。税金をとる権利ですから鎌倉幕府は国家そのものになります。今もそうですが、特に前近代において、「税金をとる」ことは、国家の最重要機能です。強大な権限で、これを与えることは「第二日本国」を認めるに等しい。あのシーン。後白河が目を回して終わり、でしたが、「幕府の日本」が誕生した瞬間ともいえるのです。

さて、では「地頭」(荘園公領の管理人、税金の分け前をぶんどることができる)はどうなるの、ということですが、「別に許可されなくても挙兵段階から占領地には勝手に地頭を置いていた」わけです。「いまさら許可される必要はない」のか「それでも許可を得ておいたほうがよい」のか、このあたりから「人によって解釈が分かれてくる」ところです。

つまり
・朝廷に許可してもらったのか。
・朝廷に許可させたのか。

ということ。大河ドラマでは「許可させた」「脅しが効いた」とされました。私もその解釈のほうがしっくりきます。

ここからは「解説風」はやめて「とことん私説」でいきますので、ご容赦ください。「正しい」と主張する気持ちはありません。「私はこう考える」ということです。文体も「ですます体」はやめます。

源頼朝は「平将門」として京政権に意識された。それがこの1185年勅許のたった5年前である。頼朝は挙兵するや、占領地の利権を配下に与えはじめた。もちろん京都政権の許可など得ていない。頼朝は「反乱軍」であったし、この後も「反乱軍としての優位さ」を利用し続けた。「幕府」という呼称は一般ではなかったが、自分たちは「幕」にいる、つまり戦争時のテント(幕)=戦争状態の中にいるという意識はもち続けた。「戦争時においては将軍は天子の判断を仰がなくてよい」、中国の古典にあるこの考えを、頼朝は最大限利用した。例えば「奥州出兵」に後白河は反対したが、頼朝は無視した。

1185年勅許は画期的かつ革命的なものであった。衰えたとはいえ朝廷がもっていると「されて」いた、税金の徴収権を「一部もぎとった」のである。ただし全部ではない。公家(天皇上皇を含む)はその後も荘園のオーナーだったし、税金をとる権利を有していた。「武士は荘園利権の片隅に食い込んだに過ぎない」とも言われ、実際そうであった。荒っぽい手段で容赦なく税金を徴収する地頭も後を絶たなかった。ただし武士はどんどんこの利権を拡大していき、税金の取り立ても洗練?されていき、最終的には荘園そのものが消滅する。「複数の利権者」制ではなくなり、徐々に武士および大名に税の徴収権が一元化されていく。それが荘園の消滅である。それは室町後期から秀吉の時代のこととされる。

日本大学の関幸彦教授は「鎌倉殿誕生」(2022年新装版)のなかで、この1185年は「王権の危機」「王朝の危機」だったと書いている。つまり頼朝は、認められないなら王朝を倒す気であったということである。これは「京都中心史観」を奉じる人々にとっては「なんとしても無視したい」説であろう。頼朝は王朝の理解者であり、王権の一部を分与されたに過ぎない、「王朝の侍大将」である。実際、そのようなことを後年、後白河院に会った時、頼朝は言っているではないか。

つまり日本の政治権(大政)は武士に「委任」されたに過ぎない。潜在的には京都政権のものである。これは江戸時代後期の国学者たとえば、塙保己一らが唱えた説である。大政委任があるから「大政奉還」がある。そういいたい気持ちがわからないではない。

またあまりに坂東武者の力が顕彰されるような歴史認識に修正を図りたい、「京武者だって存在するぞ。京都を見ないのは片手落ち」という熱情が分からないわけでもない。(京武者なんて、用例は1つしかないし、それも単に「京都方面にいた武者」という意味に過ぎないらしいが)

しかしおそらく「あの井伊直弼の時代」(幕末)ですら、大政が委任されていると幕閣は考えていなかった。井伊は勅許を得ずに条約を結んだが、そもそもそれ以前に幕府が結んだ条約には勅許など出ていない。「大政委任」というのは一種の「すりこみ」である。皇国史観の残り火ではないだろうか。

頼朝に大政を委任してもらう必要はなかった。彼は反乱軍で自力で占領地を勝ち取ったのである。後白河は平家、木曽義仲、源義経と三度に渡って、頼朝討伐の命令を下している。たった5年間に三度である。どうしてそんな相手に「乞う」必要があるのか。「吾妻鏡」を読む限り、頼朝の後白河に対する態度は極めて丁重だが、そもそも後代の史料であるし、頼朝の社交辞令をそのまま鵜呑みにするわけにはいくまい。

後白河院は優れた政治家なのかも知れない。この「王朝の危機」を瞬時に見抜いたように思える。彼は簡単に勅許を与え、それ以前に義経追討の宣旨も出している。「朝令暮改」と馬鹿にされる所以であるが、この「定見のなさ」によって王朝は生き残った。以来「定見を明らかにしないこと」が王朝生き残りの秘訣になっていく。と言いたいところだが、この祖父の政治眼が孫の後鳥羽上皇にはなかった。それが「承久の乱」における王朝の敗北につながっていく。もう一人、定見を明らかにした天皇がいる。後醍醐である。それゆえに後醍醐は戦前の皇国史観に依拠する政府によって顕彰され、彼に逆らった足利尊氏は極悪人とされた。極悪人の始祖が「源頼朝」「北条義時」とされた。しかし、後醍醐が依拠した「南朝」は結局は滅んでしまった。これは形式上だけでなく実質もそうで、今の天皇家は「北朝」である。(正統論争は意味をなさないが)
ともかく王朝は生き残った。室町以降は官位の認定機関となり、それが最大の政治機能だった。ただし官位の認定は幕府の推挙のもとに行った。

後白河との戦いに勝利した頼朝(鎌倉幕府)は、「天下草創」を宣言する。それは「革命」以外のなにものでもなかった。

むろん黒田が権門体制論で主張したように、歴史は武家によってのみ作られるわけでない。公家は荘園のオーナーであり続けた。寺社勢力は何の傷も受けなかった。さらに網野のアジール論を加えるなら、「無縁の人々」も社会を底辺から動かしていた。

ただ私にはやはり「公家から武士へ」という「古い図式」が、基本的に間違っているとは思えないのである。つまり新しい説に魅力や説得力を感じられないのである。

補遺
それにしても、挙兵から「たった5年」で、なぜこのような政治が頼朝にできたのか。伊豆の流人に過ぎない男に。
それにはやはり大江広元以下の「文官」の存在が大きいだろう。鎌倉幕府は文官を積極的に起用した政権であった。武士の中には文字さえ書けないものが多かったからだ。
これら「京下りの下級貴族」たちは、京育ちゆえに「京都政権のていたらく」がよくわかっていた。なにしろ国司さえ地方に派遣せず、目代(代理人)を派遣して、それが統治だと思っているのである。すでに「ただ地方から税金を吸い上げる機関」に堕落して久しかった(と私は認識している)。

鎌倉の文官の主な目的は「一旗揚げよう」という野心であったろうが、「理想に燃える」側面が全くなかったとは言えないだろう。彼らは日本国を立て直そうとした。北条義時の次の執権である北条泰時の段階で、すでに「善政」「民政」への志向がみられるのは、泰時の優れた資質ばかりでなく、この文官たちの「理想」が影響しているのかも知れない。もっとも鎌倉地頭の多くには「民政」などという志向はなく、理解も不可能らしく、「勝手をしている様」が「吾妻鏡」からは読み取れる。民政がある程度達成されるのは「室町後期」「戦国大名」の時代であり、さらに明確に意識されるのは江戸の中期以降であったと思われる。

昭和革命幻想とリアル革命「承久の乱」

2022-05-21 | 鎌倉殿の13人
昭和40年代を「革命が起こりそうだった時代」と思っている方がいますが、それは幻想です。私が子供だった1970年代、日本にそんな雰囲気はありませんでした。自民党はロッキード事件等で、議席を減らしましたが、それでもずっと政権与党でした。その後もほぼずっと与党です。高度成長に浮かれていた時代です。むしろ資本主義バンザイという時代だったのです。

ただ60年代は分かりません。その頃の運動家である吉本隆明氏の文章などを読むと「明日にでも革命を起こそう」というノリで書かれいます。

実際は「戦後」と「貧富の差が究極の拡大を見せた昭和初期」の方が、ずっと社会主義革命の可能性は高かったようにも思いますが、実際の「雰囲気」は、生まれていないので分かりません。

社会主義革命とは別に、「昭和維新」とかいう右翼の方々もいました。これはちょっと怖かったですね。少年だった私は「頭のおかしい暴力的集団」だと思ってました。今でも「維新」とかいう人間は、反社会的な感じがして、到底好きになれません。昭和維新なんて226の青年将校が好んで使った言葉です。

今は老人の一歩手前ですから「革命なんぞ起きては年金がもらえなくなる」と思いますし、革命はおろか、台風だって来て欲しくありません。そういう「大変動」には、体がもう、ついていきません。

だから私は「革命好き」でも「革命好きの左翼のシンパ」でもありません。それに左翼の方々であっても、暴力的な革命など支持する人が今の日本にどれほどいるでしょうか。ほぼ0でしょう。「革命は好みじゃない」。それでも「承久の乱」は、日本が経験した数少ない「革命の一つ」だと思います。

「承久の乱は革命ではない」というのが、一部の学者において「一種のブーム」になっています。「平家も、鎌倉幕府も、貴族と同じで荘園を基礎にしたのだから、同じ穴のむじなで、革命勢力でもなんでもない」というわけです。

そんなこと言っても「荘園は当時の経済活動の基礎」ですから、革命が起きようと政権が変わろうと、「基礎にするしかない」のです。「生産様式の改革こそが革命だ」という「マルクス主義的革命理論」からすれば「革命じゃない」かもしれません。でも「革命」とは政権や王朝の交代を含む社会の大変動という意味です。少なくとも「易姓革命」とはそういう事態です。「マルクス的革命」でもないし、「生産様式の根本的改革」でもありません。中国では何度も「易姓革命」が起きていますが、戦後の共産主義革命を除くなら、別に「生産様式の根本的改革」などは起きていません。

つまり近代以前の「革命」とは、「政権交代ぐらいの意味」で、政権が「朝廷から鎌倉幕府に移ったのだから」、「承久の乱は十分に革命だ」と私は言いたいわけです。
もちろん「政権は朝廷から鎌倉幕府になぞ移っていない」と言う人たちの存在は知っています。でもやっぱり「そうかなー」と思うのです。別に「革命とは素晴らしい事態であり、社会がいい方向に改善した」と言いたいわけでないのです。「変化した」と言いたいのみなのです。「進化論」は退化も進化とみなします。そういう認識です。ただし江戸幕府の存在を考えるなら、結果としては「いい方向に変化した。あのまま貴族政治が続いていたらたまったものではない」とは思います。

話少し変わって

「易姓革命が起きないから日本は素晴らしいのだ」と「江戸時代の国学者」は言いました。しかし鎌倉初期の慈円(藤原摂関家出身)は、「易姓革命も起きないし、朝廷はただ衰退するのみだ。となれば、武士が政権をとったのも道理なんだろうな。嘆かわしいけど」と言いました。「易姓革命」は「王朝に徳がなくなった時、新しい徳がある王朝が誕生する」ことです。

鎌倉幕府は以仁王の令旨を思想的基盤として成立しました。あの令旨、「今のニセ王朝を倒して俺が天皇になる。壬申の乱で新王朝を開いた天武天皇に俺はなる。」と言っているのです。明確な革命の宣言です。以仁王は後白河院の息子ですが、天皇になる可能性は1ミリもありませんでした。で「武力で俺がなる」と思ったのです。鎌倉幕府はそういう思想的雰囲気のもとで成立しました。

明治になって幕府は倒れましたが、同時に朝廷もこの世からなくなっています。あれも易姓革命の一種でしょう。王朝の姓は全く変わっていないにせよ。

戦後になって「民主主義革命」が、アメリカ主導で起こり、天皇家の在り方もガラリと変わります。全く新しい象徴天皇になるわけです。「血筋」こそ断絶しませんが、根本的な変革であり、あれも「一種の易姓革命」と私には思えます。

日本に易姓革命が起きなかったわけじゃない。鎌倉幕府の開府で、政権主の「血筋」は変更された。やがて明治維新で立憲君主はもとの「天皇家の血筋」にもどり、でも近代化の矛盾でそれが限界を迎え、戦争が起きて崩壊した。戦後、天皇家の血筋は残ったものの、根本的な変更が起きた。まさに「革命」ではないか。そう考えれば「承久の乱が革命であることに疑いはない。革命とはマルクス的革命だけではない」と私個人は思っているのです。人にもそう思え、などという気はさらさらありません。

鎌倉殿の13人・「義経花神説」の構想

2022-05-20 | 鎌倉殿の13人
題名を含めて「ふざけて」います。「ふざけて」いますが、内容は「そこそこ真面目」です。

前回の最後、なぜか逃げているはずの義経が、北条親子の前に現れる。会話を交わす。時政は全く捕まえる気がない。で、最後にこういいます。「まるで平家を倒すためだけに生まれてきた」ような人間だと。

で、思ったわけです。これは「花神」へのリスペクトだ。「義経花神説」だと。

三谷さんは大河「花神」が好きです。好きな大河を4つぐらい挙げていて、その筆頭が「花神」でした。1977年ですから、40年以上前の作品です。司馬遼太郎さんの原作。原作の方は「村田蔵六、つまり大村益次郎」が単独で主人公ですが、大河の方は3人主役で吉田松陰→高杉晋作→村田蔵六と移り変わっていきます。よい作品ですが、視聴率は悪かった。たった19パーセントです。

1977年だと私はまだ子供です。が「最高の作品だ」ということは分かりました。もちろん視聴率とかは知らないし、興味もありません。そんなことは関係なく、最高の作品でした。

こう始まります。

一人の男がいる。
歴史が彼を必要とした時、忽然として現れ、その使命が終ると、大急ぎで去った。
もし、維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわる事であった。
中国では「花咲爺い」のことを「花神」という。
彼は「花神」の仕事を背負ったのかもしれない。
彼、村田蔵六、後の大村益次郎である。


「もし鎌倉開府というものが正義であるとするならば」とするならば、そのまま「義経にも当てはまる」ことが分かります。

大河の中の「村田蔵六」は「天才的軍略家」です。しかし「政治ができない」「人間関係に弱い」という欠点を持ち、それが彼の暗殺=死につながります。

ぐだぐだ長く書きません。三谷さんが義経を、村田蔵六に重ねていることは「間違いない」と思います。「義経花神説」です。三谷さんはそう思っていると思います。

「鎌倉殿の13人」・第4回「矢のゆくえ」・感想

2022-01-30 | 鎌倉殿の13人
・面白かった。
・当時の兵数がいかに「少ない」かをよく表現していた。史書に出てくる数字は10倍ほど嘘をついているらしい。2万とあれば2千。
・女性が歴史を動かす。女性主人公大河はどうやら終了のようだが、女性は大活躍である。素晴らしい。
・法皇が「俺だよ」と言っていた。
・山木は実は流人である。平氏であるが、親父に流された。目代というのは結構な権力者。流人がそういう位置についている。不思議な時代である。もと検非違使らしい。
・八重さんと同じことをする女性は、「草燃える」では松坂慶子さんで、大庭の娘設定だった。むろん義時の思い人である。まあ完全に同じ設定である。リスペクト。

ここからは「難しい、まあ、さして難しくはないが」という話になります。「武士とは何か」とかそういう話です。興味のない方はここで読むのをやめてください。(できれば読んでください)

今、歴史学者の多くが否定しようとしているのは「武士とは土地を開発した領主が武装した者たちであり、新しい時代を築いたヒーローである」という考え方です。「武士は京都で生まれた」という人もいます。なにより「武士は支配階級じゃないか」ということです。「民から税金を徴発する」という点で、公家と何が違うのか。同じではないかというわけです。

京都好きの学者さんは「何が腐敗した貴族を倒して、新しい時代を開いただ!野蛮な支配者じゃないか!民の味方なんかしてないぞ。」と激おこぷんぷん、です。本当に激オコなんです。かなりマジです。

「支配者じゃないか」は正しいと思います。だから今日ドラマに出てきたような「民との平和な関係はあったのか」と思いました。で、今わたしは土地制度、荘園とか国衙(こくが)と言った問題を勉強中です。

小四郎は今日「平家に坂東は支配されている。飢饉がきたら民が死ぬ」と言ってましたが、平家が支配してなくても飢饉がくれば民が死にます。この後、京都には大飢饉がきて、人口10万のうちの5万が死んだと考えられています。当時の京都とはそんな都市です。

武士とはの話はここで終わりです。

さらに京都好きの学者さんたちは「頼朝は法皇の命令で蜂起した」とか「その後も法皇と色々相談した」と言います。後者は事実ですが、前者は根拠ないと思います。当時の歴史書「愚管抄」は全くの同時代に書かれ、はっきりと法皇の関与はないとしています。とにかく京に結び付けたがる。「なんでもかんでも京都だなー、そうはいかないだろう」と私などは思います。

昨日読んだ本のなかに「なんでも京都の権威という学者がいたら、偽物と思ってください。読者の知識が深まってきて、おかしいなと思う人が増えれば、歴史学者はいまのようなふざけた態度を捨て、まじめに現実を見るはずです」と「京都学の専門家」の教授さんが書いていました。やっぱり分かっている学者さんは多くいるようです。以上です。