歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「承久の乱」をゆっくりと考えてみる。北条政子の演説と大江広元の野望。「鎌倉殿の13人関連」

2022-01-13 | 鎌倉殿の13人
承久の乱における幕府の勝利、1221年をもって「鎌倉幕府の真の成立」とする。なかなかに魅力的な考えです。まあ「鎌倉幕府の成立」は、「こう考えるとこの年になる」というだけで、「正解を求める必要はない」命題でしょう。ただし、これは歴史学者さんが「説」を出すのを無駄だと言っているわけではありません。むしろ「何年と考えるか」によって、その人の史観や歴史の見方がはっきりするので、「静かに論争して」ほしいなと思います。今は1185年と教科書にあります。これは「諸国に守護、地頭を設置することを朝廷が認めた年」ですが、さっそく「そんなこと認めていない」「いや守護そのものがこの年にはいなかった」等の意見が出てきています。「静かに論争」するなら、どんどんやってほしいものです。

さて、承久の乱では有名な政子の演説が存在します。実際は御簾の内にいて代読とか吾妻鏡には書いてあります。でもドラマでは演説してくれないと絵になりません。
こんな感じですね。

最後の言葉だと思って聞いてください。御家人の皆さん。右大将軍頼朝が、幕府を開いていて以来、官位も俸禄もみーんな頼朝様のおかげでもらえたでしょ。その恩は山よりも高く、海よりも深いわよね。ところがね、京の後鳥羽院がね、三浦胤義とか藤原秀康にそそのかされて、とんでもない命令をくだしたの。名を惜しむ人はね、胤義たちを討ち取って、三代の将軍の遺業を全うしてね。もし京都に付きたいというのなら、ここで言ってね。

歴史学者さんの「一部は」いいます。「義時追討と後鳥羽は言っているが、幕府を倒せとは言っていない。政子は巧妙に後鳥羽が討幕を狙っているという風に読み替えをしている」と。

つまり討幕じゃない。あくまで義時追討だということですね。私はそうかなー、結局は幕府の解体になる、それは討幕だと思います。もちろん学者さんがほぼ共通していうように「武士の根絶を考えているわきゃない」わけで、要は後鳥羽上皇にとっては「武家がコントロール下」に入ればいいわけです。でも北条に代わって「上皇のお気に入り」が幕府の実権を握っても、また御家人抗争が始まるだけでしょう。それに「鎌倉」に幕府を置くとも思えない。上皇の武家機関は京に置こうとするでしょう。とりあえず鎌倉幕府は一旦解散、つまりは討幕状態です。(と素人の私は考えます。倒幕だと考える学者さんも結構いると思います。)ちなみに幕府側の意識は今の段階では私にはよく分かりません。幕府は「朝の大将軍」として、日本と朝廷の守護者を自負してきました。「朝廷を守る。その為に後鳥羽上皇を討つ」、この論理なのかも知れませんが、浅学にして今は分かりません。ゆっくり考えてみたいと思っています。

倒幕か。うーん。そもそも幕府という言葉が政権を指さない。倒幕なんて「文字」はたぶんない。だから後醍醐だって「幕府を倒せ」なんて言ってないそうです。あくまで「北条高時一派を排除せよ」。でも結局倒幕になってしまいます。(足利尊氏は自分が倒幕をしていると本当に気が付いていなかった。北条排除だと思っていたという説もあります)

話戻して、北条政子の凄いところはこっからあとです。義時たちは箱根あたりで迎え撃とうかと考えます。しかし大江広元一人が「それじゃあ、士気が緩んで負けますよ。すぐにでも京に向かいましょう」と主張するわけです。すげーな。大江広元。そして「大将軍である泰時殿一人でも出撃するのです」と言います。
やがて朝廷と幕府が戦いとなることは予想していた。その時「朝廷と戦え」というために、自分は鎌倉に来たのだと言いそうな感じです。(吾妻鏡では、そこまで言ってはいませんが)

二つの案がでたので、この二つの案を政子に持っていく。政子が最終決定権をもっていると吾妻鑑は記します。そして政子は言います。

「(馬鹿じゃないの)、京に行かないと、朝廷軍を破ることなんかできないじゃないの」(上洛せずんば、さらに官軍をやぶりがたからんか)

その通りです。もし本当にこれを政子が言ったなら、大江広元と示し合わせてのことかも知れません。さらに追討される本人である義時も、表面上は多少謹んで、迎撃戦に傾いたふりしてますが、政子にこれを言わせたかったのかも知れません。

政子や大江広元は全く朝廷や上皇や、上皇の恨み(怨霊)を恐れていないように私には読めるのですが、いかがでしょうか。

「当時の人は朝廷や上皇(やその怨霊)をこの上なく恐れていた」と「タイムスリップして鎌倉時代に行ってきたようなこと」をいう人がいます。あくまで方法的懐疑ですが、「本当かなー」と思います。本音が文字に残されることは少ないですからね。それに「頼朝時代からさんざん朝廷と渡り合ってきて、頼朝追討の宣旨なんか、鎌倉が勝ったらあっという間になかったことになっている」わけです。1180年から1221年の30年間は、武士の朝廷に対する意識を変えるには十分な時間です。「あれ、怖くないじゃん」と思う人間が出現しても、不自然ではないでしょう。

「当時の人はこうだった」と聞くと、「そうなのか、鎌倉時代に行ったのか。もしかして中世の人なの?」という疑問が、どうしても心に湧いてきてなりません(笑)。批判ではありません。どんな専門家のお言葉でも、納得できないものは納得しない。ただそれだけの話です。もちろんほぼすべての学者さんが「恐れていた」と言うのですから、この勝負は私の完敗です。でも完敗でも、自分で考えてみたいと思っています。「政子も広元も全く恐れていないじゃん」と最後に小声で言っておきます(笑)

「鎌倉殿の13人」・新垣結衣さん演じる「八重姫」の運命

2022-01-08 | 鎌倉殿の13人
ネタばれの「可能性」があります。NHKが発行する「あらすじ紹介ブック」は読んでいませんが、時代考証を担当する坂井孝一さんの「鎌倉殿と執権北条氏、義時はいかに朝廷を乗り越えたか」を読んで書いているからです。ネタバレする可能性が高いということになります。

さて、新垣結衣さん演じる「伊東八重」は伊東祐親(すけちか)という平氏側の有力武士の「娘」です。八重さんは源頼朝の「最初の妻」で、子供も産みます。しかしそれを知って怒った伊東祐親は、生まれた子供を殺し、源頼朝とも敵対関係に入ります。八重さんは北条義時と似た名前をもつ「江間次郎」または「江間小四郎」のもとに嫁にいかされます。

「悲劇の人」らしいのですが、どうもそうでもないらしいのですね。なぜなら「北条義時の初恋の人」とも書いてあるからです。

ちょっと歴史に興味があって、ネット検索をよくする人間ならここで「あれ、おかしいな」となるはずです。なぜなら「北条義時の母は伊東祐親の長女」だからです。すると「伊東祐親の三女」である八重さんは「実のおばさん」です。年齢は近くても、血のつながった叔母さんです。「初恋の人」とはおかしな話です。もちろん「当時はありえた」(叔姪婚、しゅくてつこん)でもいいのですが、現代語で話しているし、全体に現代的ですから「見ている側」はいかにも気持ち悪い。「近親婚」は「当時はあった」としても、一応大河では描かない「お約束」があります。

この矛盾を回避するためには、①「北条義時は伊東祐親の娘の子ではない」とするか②「八重さんは伊東祐親の実子ではなく養女」とするしかありません。①は動かしがたい感じなので、容易なのは②です。

さて、八重さん。頼朝と引き離され、江間さんと結婚します。が、この江間さんも比較的早くに死んだようです。八重さんの運命は史実的には分かりません。

で、時代考証の坂井さんがどういう「大胆な仮説」を立てているかというと、八重さんは三浦に預けられ、その後、義時の最初の妻になったというものです。推論の上に推論という感じは否めないんですけどね。

最初の妻は公式的には「姫の前」で、義時は30歳ぐらいで初婚を迎えます。当時としては相当晩婚みたいです。その前に妻相当の八重がいて、その人が「北条泰時を生んだ」と坂井さんは仮説を立てています。

つまり全く詳細が分からない「泰時の母である阿波局」が八重ということです。ガッキーを起用して「早々に離婚で退場」ではおかしいので、私も前から「もっと長く出演するだろう」と予想していたのですが、「八重は義時の実の叔母さん」問題があって、「阿波局だ」とまで予想できなかったのです。叔母さんに憧れるの(初恋)はいいが、子供作ってはまずいでしょと思ったからです。伊東祐親の実子ではないとして「回避」するのでしょうか。いや義時の母の方の「伊東祐親の長女」を伊東祐親の実子ではないとするのか。そっちの方が簡単かも知れません。

前々からあれほど高名な「北条泰時」の母親が誰だかよく分からないのはおかしいなと思っていました。まあ史学的には今でも「誰だかよくわからない」わけですが、坂井さんは「八重だ」という考えを「仮説」として書いています。

ただし泰時を生んだ後の「その後」は「死んだ」とされています。死んだので「姫の前」と義時は「再婚?」したということです。

あれ死んでしまうのか。いやそれでは新垣結衣ファンが許さないのではないか。すると「死んだと思ったけど京都で生きていた。記憶をなくしていた」などの設定が考えられます。これ三谷さんは「真田丸」において「真田信繁の姉の設定」として採用しています。

ちなみに「八重に相当する人物」は43年前の大河「草燃える」にも登場します。北条義時の初恋の人です。「大庭景親」の娘、「茜」で、松坂慶子さんが演じました。やはり「泰時を生む」のだろう。あの赤ん坊は泰時なんだろうと思います。でも妊娠すると同時に、義時のもとを去り、京で平家の女房となります。なんで去るかというと、頼朝に夜這いされたから、です。泰時は頼朝の子という設定なのかも知れません。義時の子か頼朝の子か、わからない感じにドラマではなっています。とにかく京で生き、そして壇ノ浦で平氏と運命を共にします。さらに書けば、それでは松坂慶子さんの出番がなくなるということで、後に「そっくりな顔をした女性」として登場し、悪人となった北条義時の前に現れ、、、、という感じになります。妖艶な女性として再登場します。純情娘も妖艶な美女もできる点が松坂さんの強みでした。ガッキーも「そっくりな女性」として再登場するかも知れません。妖艶かどうかは分かりません。

史実的には「八重姫は本当にいたのかさえ分からない」人です。頼朝の流人時代のことは「頼朝説話」と言われます。作り話が非常に多いらしい。

三谷さんは「意外と史実の縛りを意識している」人なんで、他の人物はそれなりに史実風にふるまうでしょうが、「八重は比較的自由な駒」として利用できます。「泰時を生む」、、ここまでは確定的だと思います。その後は普通に考えれば病気で死にます。でもなぜか生きていた、、、そして年末になっても登場する。私は別にガッキーの熱烈なファンではありませんが、そう予想しておきます。

「鎌倉殿の13人」・北条義時の「復権」はありえるか。

2022-01-03 | 鎌倉殿の13人
北条義時、「鎌倉殿の13人」の主人公。鎌倉幕府の二代目執権で「北条執権」制を主導した人です。北条政子は姉です。源頼朝の「側近筆頭」で、どうやら「江間」という姓だったようです。承久の乱では「後鳥羽上皇」と戦い勝利します。そして上皇を3人も島流しにしています。上皇が3人もいたのです。

「やってることは織田信長より凄い」のですが、「知名度は低く」、人気もありません。江戸期から不人気でした。「源氏の将軍を断絶させた悪いやつ」(徳川は最初は藤原氏だったが、最終的には源氏)、源氏将軍を圧迫したということで評判が悪かった。当然「物語」も作られないし、登場しても悪役です。明治期以後も「天皇家を圧迫した」ということで「悪人扱い」です。後醍醐天皇を圧迫した足利尊氏は「極悪人扱い」でしたが、「極悪人」だと知名度だけは高くなります。北条義時は「悪人」だったので、知名度も上がりません。一方織田信長はあまり朝廷を相手にせず(朝廷は弱かったので)、京都御所の修理などをしたので、戦前は尊王の人として評判は悪くありませんでした。徳川家康の協力者だったから、江戸時代も悪くなかったと思います。

皇国史観から見て「極悪人」の足利尊氏や「悪人」の北条義時は物語の主人公になりません。すると国民は彼らの物語に接する機会がなくなります。この状態は皇国史観が否定された「今も続いて」います。

「物語の集積」がないので読者に予備知識がなく、さらに義時に至っては知名度も低いから、皇国史観の悪弊がなくなった(正確には薄れた)戦後になっても「小説」になりにくいわけです。司馬遼太郎さんも小説化していません。「義経」には登場しますが、わきです。そもそも源頼朝は「悪人側」です。

ただ永井路子さんが姉の北条政子を熱心に小説化したので、その小説には登場します。大河では永井路子さん原作の「草燃える」(北条政子主人公)に登場します。北条義時が「主人公格」で登場したのは「草燃える」だけです。それが43年も前のこと。

三谷幸喜さんは「新選組」や「真田信繁」と言った知名度も高く、人気がある素材を使って大河を二作書いてきました。今度は「成功者だけど不人気、知名度が低い」人物が主人公です。そして「源頼朝」「源義経」といった知名度の高い人は、物語の前半で亡くなり、「北条政子」だけが残ります。

私は北条義時が好きです。「草燃える」の義時は、最後は本当に悪いやつになりますが、「悪には悪の魅力がある」のです。悪漢小説というジャンルすらあるほどです。

でも「鎌倉殿の13人」では悪に徹するということはないようです。さて北条義時の復権はあるのでしょうか。興味を持って見ていきたいと思っています。

「鎌倉殿の13人」・北条義時は過去に一度だけ主人公並みになっている。

2022-01-03 | 鎌倉殿の13人
1979年(43年前)の大河「草燃える」の主人公は、源頼朝と北条政子です。頼朝は途中で亡くなるので、後半は政子が主人公なのですが、この政子、さほど政治的ではありません。色々な歴史的事件(頼家殺害、実朝暗殺)については「政子は知らなかった」とされます。となると政子の名で幕府を動かしていた北条義時が「実質上の主人公」になっていきます。松平健さんが演じました。

1979年、私はまだ子供で、見てはいましたし、非常に強い関心を持ったのも覚えているのですが、内容をはっきりと理解したわけではなかったと思います。その後総集編がDVDになって、「なるほどこういう作品だったのか」と気が付きました。一言でいうと、単純ですが「素晴らしい作品」です。大河の中でも筆頭格の作品だと個人的には思います。

言葉遣いがとても平易です。現代語に近い。当時はそれで多少批判されたようです。でも「分かりやすい」わけです。さらに現代語を話すことによって、感情が豊かに表現できているとも感じます。最後の最後に北条政子はこう思います。「一生懸命やってきて、幕府も安定したけれど、気が付くと、夫もいない、子供も死んだ。孫もみんな死んだ。私は一人だ」(正確ではありません)。そして政子の「むなしげな顔のアップ」で「完」となります。平曲が流れています。「諸行無常」を平家だけでなく、頂点を極めた北条政子にも当てはめているのです。

ただなんといっても絶妙なのは「北条義時の変化」です。登場時はまさに「好青年の典型」なのです。虫も殺せないような男です。優しいし、賢くもある。松坂慶子さん演じる「初恋の人」をひたすら慕う純粋な男でもあります。それが最後は権力の権化となります。そしてこういう認識を語ります。

「おれは今になって、俺の兄貴が考えていたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。俺たち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまで源氏は借り物。となれば、俺たち坂東の武者の中で、一番強い者が権力を握る。それは当然のことなのだ。俺はよくやっている。十郎、誉めてくれないか」

この「十郎」というのは源氏に恨みをもつ伊東家の侍で、第四の主人公と言える人物です。若い頃は荒んでいて、平氏について敗れ、とうとう強盗でも殺人でも強姦でもなんでもありの悪となります。が、北条義時の変化とクロスするように更生していき、最後は平曲を語る琵琶法師となります。

話を戻すと、子供の私が一番衝撃を受けたのが「源氏の旗揚げではない」というセリフでした。「鎌倉幕府を作ったのは源氏でも、源頼朝でもなく、坂東の武者たちである」、こう考えると、源氏将軍がすぐに死に絶えても、鎌倉幕府が存続した理由が、合理的に説明できるような気がしました。「歴史の解釈」というものに生まれて初めて興味をもったわけです。

現在、歴史家の中には「歴史は解釈不要であり、偶然の集積である」という人もいます。でもそれじゃあ「つまらないし、学ぶ気にもなれないな」というのが素人である私の感想です。「歴史の解釈」は面白いし、必要だと私は思います。同時に「私の解釈は絶対的に正しい」と思わないことも、また必要だと思います。

鎌倉殿の13人関連・鎌倉幕府の成立と北条氏のことを少々

2021-10-08 | 鎌倉殿の13人
東大の教授で鎌倉時代が専門の本郷和人さんが、鎌倉幕府というのは「武士の武士による武士のための政治」が行われた時代なんだよと書いています。

本郷氏はおそらく子供の頃、大河「草燃える」を見てこの認識に触れたのではないかと思います。「草燃える」では、晩年の北条義時・松平健さんがこういうのです。

「おれは、今になって、おれの兄貴がやろうとしたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまでも源氏は借り物」

「草燃える」は1979年ですから、私もまだ子供でしたが、よく覚えています。「なるほどな」と思ったのです。源氏が三代で滅んだのに、鎌倉幕府は続いていく。子供心に「おかしいな」と思っていたのですが、主体がそもそも北条氏など関東武士で、源氏は「みこし」に過ぎないとすれば、すとんと得心できます。

鎌倉幕府の成立はいつか問題が存在します。もっとも当時は幕府なんて言葉使ってません。「鎌倉殿」が政権をも指します。頼朝も頼朝の政府も「鎌倉殿」だったようです。朝廷では「関東」と言ったのかな。室町時代になっても幕府なんて言いません。公儀です。幕府が一般用語となったは江戸も後期で、定着したのはたぶん明治時代です。幕府という言葉を使わないのに、幕府の成立というのは実は変な話で、だから「成立年」はよく分かりません。源頼朝が「幕府を開くよ」なんて言うわけないのです。幕府という言葉は存在しましたが、政権は指しません。徳川家康も「幕府を開くよ」と言ったことはありません。自らの政権を幕府と呼んだこともないはずです。

という事情もあって、成立年ははっきりしません。論理的には永遠にはっきりしないはずです。でもでもでも。それじゃあ「日本史を教えにくい」という先生もいるようです。だから昔は1192年になっていた。今は1185年と教科書に書いてあります。

鋭い子供がいたら「あれ、頼朝が征夷大将軍になったのは1192年なのに、なんで幕府の成立がその前なの」となると思います。「それを考えさせたら」面白いと思いますが、学校にそんな時間があるのかは分かりせん。「将軍がいなくても、幕府(武士政権)は成り立つ」というのはやや難しい問題です。ホント、学校では「将軍いなくても幕府は開ける説」をどう子供に教えているのかなと思います。説明が難しい。鎌倉期は将軍不在の時代があった。頼朝もどうやら将軍を辞任している。頼家もすぐには将軍になっていない。豊臣政権は武士政権だが、将軍に依存していない。武士政権にとって「将軍」は必須ではない。朝廷が将軍に任命しなくても、武士団が自分たちの長と認めればいいだけであり、政権政府を開くことが可能となってくる。子供はだいぶ混乱するような、、、いや子供は柔軟だから大丈夫なのかも知れません。

さて、鎌倉幕府または鎌倉殿の成立。1180年から1192年ごろのいつか。それでいいと私なんぞは考えます。朝廷の権威を重視して「〇〇に朝廷が任じた年」とすると1185年とか1192年という数字が出てきます。いや朝廷からはかなり独立性が強かったんだ。そうなると、頼朝が挙兵をして鎌倉に入った1180年をもって成立と言えるわけです。「歴史をどう考えるか」によって成立年は変化することになります。「こう考えると、こうなるというだけである」と歴史学者の近藤成一さんはTVでおっしゃっていました。氏自身は1180年説ですが、自説への過剰なこだわりはないようです。そういう寛容さを持つ歴史学者は「いい感じ」です。「正しさ」に過剰にこだわると、相手を否定することに無駄な力を使うことになってしまうからです。ちなみに1180説なのは鎌倉殿の独立性を高いものと考えるからでしょう。私も同じ考えですが、別に人にその考えを押し付ける気持ちはありません。

北条氏は何故将軍にならなかったのか、という問題設定なども鎌倉殿の独立性が考慮されないといけないでしょう。この問いの前提には「朝廷の権威を背負った将軍になったほうがいいのに」という考えが存在します。そういう歴史認識を前提に「無自覚に」問いを発してしまうと「ならないほうがいい」という考えが存在する「ゆとり」がなくなるのです。

ここからは私の「暴論」となりますが、「ならないほうがいい」からならなかった。暴論というか、権門体制論ではなく二つの王権論にどっちかというと論的整合性があるように感じます。

「鎌倉殿」は「鎌倉殿」でした。何が言いたいかというと、朝廷から「鎌倉殿」と認定されたわけではないということです。「朝廷の許可」などいらないのです。関東の武士が「実質的な幕府の長」と認めれば「実質的な幕府の長」です。

北条氏も後期になると「鎌倉殿みたいに」になっていきます。「鎌倉殿」とは呼ばれず「得宗」と呼ばれました。北条義時の時代は「得宗」という言葉はなかったと思いますが、義時の「実質的な鎌倉殿化」は進んでいたと思います。将軍(名目上の鎌倉殿)はたしか藤原頼経です。

「将軍は任命できるけど、北条義時みたいな実質権力者は任命できない」わけです。後鳥羽上皇は「将軍追討令」は出しませんでしたが、「北条義時追討令」を出します。自らの権威から独立した存在である「北条執権」など認めないということかなと思います。そして承久の乱が起きるのです。

その後も北条氏は「幕府の運営者」であり続けましたが、それは「朝廷の許可を得て任命された地位」ではありません。朝廷に就任を邪魔されることもありません。北条得宗は鎌倉の宰相ですが、その世襲に朝廷が口を出すことはできません。だから「将軍になどならないほうがいい」のです。織田信長もそうでした。二位という位は返還しませんでしたが、官の方は辞任して、無官の二位です。朝廷が官に就いてくれと言っても、丁寧に断りました。私の「夢想」では、彼は朝廷に左右されない「安土殿」という存在を目指していたように思います。「安土殿」は「鎌倉殿」「得宗」の信長バージョンです。

ド素人の「思いつき」だと思ってお許しください。こう考えると、私的にはスッキリするのです。合理的に説明がついているような気になるのです。

「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。

2021-04-18 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。史実に「少しぐらいは」基づいています。

1176年頃、源氏挙兵の4年前、伊豆に「スケ殿」と呼ばれる流人がいました。源頼朝(大泉洋)です。最後の官職が右兵衛権佐だったので「佐殿=スケ殿」と呼ばれていたのです。伊豆に流されてもう16年が経っていました。すでに29歳です。16年前の平治の乱で父の義朝が討たれ、死刑になるところを平清盛の義母に助けれられ、伊豆に流されたのです。監視役は伊東祐親(辻萬長)という地元の有力武士です。しかし16年も経っていますから、監視といっても緩いものでした。お経を読むことが課されていたのですが、比較的自由に弓の稽古などもしていました。「巻狩り」などにも参加して、地元の若い武士と交流も持っていました。憎めない愛されキャラで女好き、地元では人気者で通っていました。

ここに、都に憧れる二人の女子がいます。北条政子(小池栄子)と伊東八重(新垣結衣)です。二人は地元の「荒くれた武士」たちが嫌いで、都の貴族と結婚したいと夢見ていました。貴族といえばスケ殿ぐらいしかいませんが、八重は積極的、政子は「スケ殿はどうも女にだらしがない」と思っています。結局、頼朝は八重と結ばれます。これに涙したのが八重に憧れていた北条義時(小栗旬)です。義時の母も伊東家の生まれで、八重は「おばさん」なのですが、八重と伊東祐親に血のつながりはなく「養女」なので、八重と義時も血のつながりはなく、義時は美しい八重に恋していました。

八重と頼朝の間には子が生まれますが、これを知った伊東祐親は激怒します。生まれた子は死んだことにして養子に出されます。八重も「身を投げて死んだ」ことにされ、北条に匿われました。やがて義時と八重は結ばれ、生まれた子供が後の「北条泰時」です。なおこの時、北条義時は北条家の人間ではなく、江間に養子に出ていました。ですから名前はまだ江間小四郎義時です。小四郎と呼ばれていました。

伊豆に知恵者がいました。義時の兄の宗時(片岡愛之助)です。「平家の世はいつか終わる。その次は源氏の世だ。いや俺たちの世だ」と考えていました。そこで頼朝と血縁を結んでおこうと思います。そのころ、頼朝は八重と別れ落ち込んでいました。そこへ嫌がる政子を世話係として派遣します。やがて頼朝と政子は結ばれました。

さて、都では平清盛(松平健)がこの世を謳歌していました。「平家でなければ人ではない」と言われます。そもそもこれほど清盛が出世したのは、武力の実力もさることながら、後白河法皇(西田敏行)の「推し」だったからです。後白河法皇は自由人で、そもそも天皇になる予定もなかった人です。好きになったら止まらないタイプで、当時のJPOP=今様が大好き。歌い過ぎて喉を傷めたり、歌詞集(梁塵秘抄)を作って喜んだりしていました。清盛とは持ちつもたれつ「おぬしもワルよのう」という関係でした。清盛の異常な出世は藤原氏などの反感を買います。すると後白河法皇は自分のひいじいさんである「白河法皇が清盛の父だ」とすればいいと思います。「さすがにそれはない」と清盛は思いましたが「まあいいか」と乗ることにします。

ところが1180年になると、清盛と後白河の関係は色々あって悪化していました。清盛が後白河を幽閉し、これに怒った後白河の息子、以仁王が「平家を討て」と「令旨」を発します。源行家(杉本哲太)は食えない男で、実は「おれが源氏を仕切る」と思っているのですが、なにせ庶流です。そこで「へたれのスケ殿」を担いで「かいらい」とし、平家を倒そうと思います。そして以仁王の命令書を持って伊豆にやってきました。

驚いたのはスケ殿です。「なんで持ってくるかなー」と思います。伊豆にきてもう20年も経っています。政子と結婚し、子供も生まれ、やれやれと思っていたら源行家(叔父)の訪問です。「命令書を読んでしまった」ので、もう平家に討たれる運命が見えています。「やられる前にやりかえす」と叫んだものの、自信は全くなく、家来と言えば足立盛長(野添義弘)ら数人です。ここは北条に頼るしかないのですが、宗時を見ると「無理だ」という顔です。政子の父の北条時政(坂東彌十郎)はやや芝居がかった男で、「こうなれば仕方なし」「しかし声をかければ500騎は集まる」と言っています。しかし実際に北条が集めたのはわずか50騎でした。「えー話違うじゃん」と頼朝は思いますが、もう後へは引けません。なんとか集まった300騎で、平家の代官ヤマキを襲い、これは成功します。しかし思ったように兵は集まりません。

梶原景時(中村獅童)という武将がいました。鎌倉武士には珍しく歌の教養などがあります。北条宗時は彼を味方に引き入れようとしていました。しかし梶原は大庭景親とは親戚だったため、平家軍に加わります。ヤマキを襲った後、頼朝は「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親など平家軍にコテンパンにやられます。山中に潜んだ頼朝に追手が迫ります。ここで梶原景時は頼朝を発見しました。しかし北条宗時の言葉を思い出し、彼は頼朝を見逃します。梶原はやがて鎌倉幕府の重臣となっていきます。梶原は頼朝を知っていました。おかしな男だと思っていたものの「弓の技能」を見て「ひとかどの武士かも」と思ってもいたのです。

頼朝は千葉に逃げます。この間、北条では宗時が討たれてしまいます。しかし義時は江間小四郎のままでした。父の北条時政は、貴族の出の「牧の方」がいずれ男子を産めば、その子を北条の嫡男にしようとしていたのです。義時は優しいだけが取り柄のような男で、期待できないと思っていたのです。義時はその方が楽だとも考えます。

千葉では千葉常胤や上総広常(佐藤浩市)が加わります。特に上総広常らの軍団は公称2万騎(実際は千騎ぐらい)と言われる大軍団でした。自然、上総広常が事実上の大将のような位置につきます。頼朝は血筋などを強調して威を張り、上総広常に対向しようとしますが、全く通じません。自分を見直すかと思って「帰れ!」というと「では帰ります」となってしまいます。頼朝は足にすがるようにして上総広常を引き留めます。とにかくその「圧」の前に頭が上がりません。北条などは50騎程度の伊豆の小者で、もちろん軽く見られていました。時政は悔しがりますが、義時は何も感じません。権力欲とは無縁の男でした。

義時は上総広常に興味を持ちます。広常は義時に言います。「お前の親父は政子殿を大将に嫁がせ、その子を大将にしようとしているのだろう。だが間違ってはいけないぜ。坂東は坂東武者のものだ。武家の棟梁なんていらねえのよ。坂東を治めるのはおれたちだ。おれたちの中で一番強いやつが大将になればいいのさ」。義時は「ふーん」と思って聞いていました。その言葉の意味が分かるのは、はるか先の話でした。「ところでお前の家はなんだい?平氏だったな」「いや、よく分からないんですよ。一応桓武平氏になってるみたいですが、系図もないし」「なんだい、偽平氏かい」と言って上総広常は笑いました。

さて源頼朝ですが、この後鎌倉に拠点を定めます。富士川の戦いで平氏の追討軍を破った頼朝は、このまま「都に攻め込む」と宣言します。しかし上総広常に「ふざけたこと言ってんじゃねえ。坂東の地固めが優先だろ」と一喝されてしぼみます。広常の言い分は正しいものでしたが、御家人たちの間には、その不遜な態度に不満が高まります。北条時政と梶原景時はその不満を背景に、上総広常の排除を考えるようになっていました。(以上)

「鎌倉殿の13人」・ガッキー演じる八重姫は意外と活躍するのではないか?

2021-04-15 | 鎌倉殿の13人
鎌倉殿の13人の「史実のネタバレ」を含みます。ただ八重姫ってほぼ伝承的人物で、どこまで史実が確定してるかは分かりません。

たぶん伊東祐親の娘なんですよね。でもそうすると「おかしく」なるわけです。発表されているのは源頼朝の最初の妻で、北条義時の「初恋の人」。うん?となります。なぜなら「北条義時の母は伊東祐親の娘」のはずだからです。すると八重姫は「おばさん」になります。

もう一つおかしいことがあります。新垣結衣さんは「主役級女優」です。源頼朝の妻が「北条政子」であることはみんな知っています。ドラマの早々に妻となるでしょう。するとガッキーはドラマの「早々」で「退場」ということになります。そんなもったいない使い方をするだろうか?石原さとみ、上戸彩、長澤まさみ、さんなどは、大河に出た場合は、ほぼ最後までずっと出演して、重要人物でした。新垣結衣さんを登場させて、3話目で既に退場。そんなはずはない。客寄せパンダなのか?

といって色々あって源頼朝と離縁した後、北条義時と結婚した、って言うのも「史実の制約」があって難しいのです。北条義時の妻は比較的はっきりとしています。
八重姫は「江間の小四郎」と再婚したとなっていて、江間の小四郎は義時と「同じ名前」なんですが、別人とされています。ここを強引に「義時だ」とするのか。

私は「鎌倉殿の13人」にも「真田丸のきり=長澤まさみさん」のような女性が登場するのではないかと思っていました。「八重姫」はその候補として「ありえる」人物です。

従来は「かわいそうな人」でしたが、史実はほとんど分かりません。「身を投げた」とかいうのも伝承です。するともっと活動的で悲劇を跳ね返すキャラにすることも可能です。

「京都に行って女房となって情報を伝える」とか「商業団の女頭になって」とか「ああ、真田丸の真田信之の最初の妻と同じ設定もあるか」「江間の小四郎は義時だとするのか」とかいろいろ考えます。3話目までで退場ということはないでしょう。

北条義時の後継者は北条泰時、御成敗式目で教科書にも載っています。この方「最も優れた執権」なのですが、母のことが分からない。「京の女房である阿波局、あとは未詳」です。つまり誰だか全く分からない。義時が21ぐらいのときの子供です。NHKのキャスト表にも「泰時の母」はいません。とすれば「泰時の母候補はガッキー」しかいません。ただ血のつながった叔母なんですよね。そこを強引に設定変更すれば、泰時を産めます。それにそのそも「誰だかちっともわからない女性」が母ですから、「八重じゃない」という証明もできないのです。「叔母問題」のみクリアーできれば、泰時の母となるでしょう。そうなれば、、、です。最後の最後に大活躍します。北条泰時とは北条義時の後継者です。政子が彼を後継と指名するのです。いろいろ「すったもんだ」はあったのです。もし仮に、ガッキーがこの時まで生き残っていれば、彼女は政子と「組んで」、わが子を義時の後継者とすることで、「北条執権政治の基礎を築く」ことになるのです。新垣さんほどの女優を起用するなら、そのぐらいのことをしてもらわないと困るというか、物足りないように感じます。

「鎌倉殿の13人」と「草燃える」・北条義時とは何者か。

2021-04-13 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」の主人公は、鎌倉執権北条義時です。執権2代目となりますが、初代とも言えそうな人物です。父は時政です。教科書にも載っているのに、知名度はいま一つでしょう。大河において主人公格で扱われたのは、1979年の「草燃える」が最後です。そもそも源頼朝以後の「実朝時代の鎌倉」は「草燃える」でしか描かれません。「日本史上最大の事件」と思われる「承久の乱」を起こしたのに、いや起こしたからこそ不人気なのかも知れません。

鎌倉御家人というのは、幕府の成立から滅亡まで、ずっと抗争を繰り広げている「感じ」があります。特に頼朝死後はそうです。梶原事件、比企事件、畠山事件、和田合戦、承久の乱、泰時の時代はやや安定、そして宮騒動、宝治合戦、、、と安定期がほとんどありません。そういう荒々しい時代の「執権」ですから、北条義時もとてもお上品な武士とは言えません。お上品ではやっていけない時代です。

むしろ「悪党」の名がふさわしい人です。実際「草燃える」では、悪党として描かれました。もっとも最初はとても純粋な青年で、徐々にどんどん悪くなっていきます。松平健さんです。
彼が悪くなっていくのと反比例して、荒くれたワルだった伊東十郎(義時の友人)が、どんどん善人になって、最後は仏道に目覚め、琵琶法師になって平曲を語ります。この善と悪の「クロス」が非常に印象的でした。

今は総集編を見られます。全5回です。実は「全編が残っている」のですが、家庭用VTRの画像であるため画質が悪いのです。かつて時代劇専門チャンネルで放送されました。録画したのですが、BDRに移したら再生不能になってしまいました。ぜひもう一度放送するか、画質悪いままDVDにしてほしいものです。

さて北条義時。源頼朝死後、御家人同士の「パワーゲーム」、仁義なき戦いに生き残り、執権政治の基礎を築きます。承久の乱では後鳥羽上皇と戦い勝利。3人の上皇を配流。天皇を廃して、新天皇を即位させます。六波羅探題を京において、朝廷を監視するとともに、治安の維持を行います。治安の維持は難しかったようですが。

つまり「本当の意味で武士の世を開いた人」です。ただ上皇と戦っているため、「素晴らしい」とか「立派だ」とか「言いにくい人」なわけです。

三谷さんがどう描くか分かりませんが、「徹底したワル」ではないでしょう。義時の知恵袋は大江広元で、この人は元朝廷の下級役人です。源頼朝のブレーンでもあります。この人は京都出身で、京都が怖いとは思っていません。「上皇、かかってくるなら来い」と思っていたのはこの人で、実際そんな感じで義時を励ましたりします。

この大江広元を「ワル」にして北条義時は「意外と純粋」とできるかどうか。義時のやったことが、全て大江広元の指示ではないので、難しいかも知れません。でも上皇と戦うという局面では、大江広元の指示で、北条政子の熱意に動かされ、となるかも。しかし義時も相当年をとってますから、そんな「かいらい」みたいな感じにはできないかも知れません。

「草燃える」に話を戻します。見た時はまだ子供でした。でもとても印象に残っている義時の言葉があります。こんな感じです。

「今になって、兄貴が考えていたことが分かってきた。あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだった。源氏は借り物。おれたちが主体だったのだ。」

鎌倉、源氏の幕府と言っても、源氏はすぐ絶えてしまうことが、子供心に不思議だったのですが、「源平合戦ではない。平家もしくは京都対坂東武者の戦い」とすれば、すんなりと理解できます。

今は「古い史観」として異論があるのかも知れませんが、坂東武者が主体というのは否定しがたいと思います。「すんなりと理解できる」ことは重要で、あんまり小難しい論理を構築しても、「分かりにくくて、すんなりと理解できない解釈」は、歴史学者の「言葉遊び」とされても「仕方ないのでは」と思います。

鎌倉殿の13人の内容を少し予想する。大河「草燃える」の思い出。

2020-12-15 | 鎌倉殿の13人
大河「鎌倉殿の13人」は「麒麟がくる」と同じ「リメイク大河」です。「草燃える」のリメイクですね。こう書いても三谷幸喜さんは「怒らない」と思います。三谷さんは大河好きで、「草燃える」は名作中の名作だからです。なおこの文章は2020年の12月に書いています。

「鎌倉13人」の主人公は北条義時、小栗旬さんです。「真の武士の世を開いた人」と言われます。承久の乱で、後鳥羽上皇と戦って破り、鎌倉幕府を「確立」させた人です。初めて朝廷から政治の主導権を奪った。彼と彼の与党がやってのけたことは空前絶後のことですが、教科書上も世論上も、そういう評価は受けていません。その理由は何なのか。放送までに考えていきたいと思っています。今のところは皇国史観が描いた逆臣義時像の影響が、未だに残っているからと思ってますが、まだまだ理由はありそうな気がします。

「草燃える」では松平健さん(13人では平清盛役)が演じました。純粋な青年からスタートして、最後は親友(伊東十郎)の目をつぶすほどの悪人に変化していきます。この人が主人公だと私は思いますが、正式な主人公は源頼朝、北条政子です。滝田栄さん演じる伊東十郎は極悪人となったが、最後は琵琶法師になっていく。北条義時は好青年からスタートして、悪人になっていく。正確には「悪人でないといけない」と自分を追い詰めていく。この二人のクロスは子供心にも「深いなー」と思ったものです。

さて「鎌倉殿の13人」の内容です。時代考証も決まっていて、なかなかにNHKは考えたなと思います。うるさい人を取り込んだ形です。(その後呉座氏は炎上騒動で降板)

源頼朝は大泉洋さんで、最初は「へたれのスケドノ」でしょうね。でもすぐに「源頼朝」になる。まあなっても小池栄子さんの北条政子にはいろいろ支えてもらうのでしょう。

誰が鎌倉幕府を作るのだろうと考えました。大泉洋さんのブレーンですね。最初はたぶん北条宗時、片岡愛之助さん。次に三浦義村、山本耕史さん。俳優からみての話です。さらに当然大江広元、栗原英雄さん、阿野全成、新納慎也さんかと。

史実で言えば大江広元、三善康信がブレーンですが、俳優からみると最初の知恵者は北条宗時のような気がします。「草燃える」でもそうでした。大泉洋さんは最初は「へたれ」で、平清盛に殺されると言ってアタフタし、杉本哲太さんの源行家に励まされ、小池栄子に励まされ、そして北条宗時が立てた計画通りに「まつり上げ」られる。大泉洋「勝てるの?本当に勝てるのね。えっ、北条って50名ぐらいしか兵いないじゃん」「やっぱ一回戦、大負けじゃん。死ぬかと思った。おれ、逃げるから。奥州藤原に逃げるから」とか言いそうです。(その後、北条宗時は結構ポンコツキャラだと判明。)

頼朝は、徐々に「鎌倉殿としての凄さ」を発揮していくのだろうと予想します。

主人公の北条義時は最初は「きままな次男坊」の「江間小四郎義時」でしょう。父と兄に従ってなんとなく生きている。妹の阿波局とキャッキャとやっている。それが色々あって北条の嫡男になってしまって、和田とか三浦とか比企との「父親の喧嘩」に巻き込まれる。「メンドーだな、おやじたち、仲良くしようよ」となる。このあたりは、真田丸の真田昌幸と信繁の関係なのかなと思います。

もっとも「13人の抗争」が始まるまでは時間があります。挙兵から始めるようです。すると平家との戦い、そして義経ですね。義経は菅田将暉さんです。比企の佐藤二朗さんも見ものです。

そして最終局面では後鳥羽上皇が出てくる。後白河は源頼朝が対抗したけど、後鳥羽には自分が対抗しないといけない。承久の乱。その頃にどうなっているのかは分かりません。悪になっていく「草燃える路線」か。主人公が小栗旬さんですから、基本は青年時代と変わらない「信長協奏曲路線」か。私は後者のような気がしています。