歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

大河「麒麟がくる」の明智十兵衛は何故本能寺の変を起こすのか。A案。

2020-06-23 | 麒麟がくる
大河はフィクションですから、史実の明智光秀と大河の明智十兵衛は「違う人物」です。だからここでは大河の光秀を「十兵衛」と表現します。

理由のヒントは明示されています。①武士の誇りのため ②麒麟を呼ぶため

このうち十兵衛が実際にこだわっているのは①に見えます。

そうなると「信長に頭を叩かれた」とか「四国の件で面目を失った」などという理由も十分に成立可能です。しかしドラマですから、よく描かれてきた「足蹴にされた」とかにはしないでしょう。「四国問題」も一般視聴者にはピンとこない理由です。

となると「武士の棟梁である将軍なくして武士は存在できない」という十兵衛がよく使う言葉が気になってきます。つまり「信長が幕府をつぶしたから」という理由です。

これはストレートに「将軍義昭の追放」を意味していません。
①追放しても戻すと十兵衛は思っていたが、信長にその気はなかった(これは採用されないと思います)。
②追放しても義昭の息子を将軍にすると思っていたが、信長はしなかった。(息子を将軍にしなかったことは史実です)
③追放しても信長が武家の棟梁になると思っていたが、信長は「武士階級をなくそう」とした。または幕府を開く気がなかった。

などが考えられます。②は「ありうる」かなと思っています。

③ですが、武家の棟梁は別に幕府を開く必要はないわけです。武家政権を「幕府」と呼ぶことも当時はありません。家康は「幕府を開くよ」なんて一度も言ってはいません。

ただ家康は「征夷大将軍」なのですね。関白秀吉は明らかに武家の棟梁ですが、十兵衛が「征夷大将軍以外は武家の棟梁とは認めない」という立場をとる可能性はあります。信長が「太政大臣として武家政権を作ろうとする」か「信長が朝廷の官職とはなんの関係もなく、武家政権を作ろうとする」したら、「征夷大将軍はいなくなる」わけです。それが理由になる可能性はあります。(義昭はまだ将軍ですが)。ただどうも弱い感じですね。

「武士階級をなくす」というトンデモ設定はあるのか。明治維新的です。信長は「いくさが嫌い」なわけですから、「武士階級をなくせば」、戦争は起きにくくなります。信長が「王」となって、「科挙」を採用し、文官が治める国にするという設定です。しかしあまりに「トンデモ」で、ありうるとは思いません。

「武家の棟梁」がキーワードだと思います。信長は武家の棟梁としてふさわしくない。義昭もふさわしくない。自分もふさわしくない。しかしそこから唐突に「家康ならふさわしい」とはならないし、史実としても、本能寺から江戸開府までは20年もあるのです。

「武家の棟梁」がキーワードだと思いますが、どういう風に物語を持っていくのか。どうにも分からないし、期待もしています。

司馬遼太郎さんは織田信長を描きたくなかった。

2020-06-18 | 麒麟がくる
割と有名な話ですが、司馬遼太郎さんは「国盗り物語」を斎藤道三編だけで終える予定でした。でも編集者から信長も描いてくれと言われた。で、仕方なく描くわけです。その後も、織田信長をまともに描いた作品はありません。「新史太閤記」他、信長が出てくる作品はあります。しかし信長を主人公とした作品はありません。小説「功名が辻」には信長は登場しません。「国盗り物語」後編にしてからが、光秀とのW主人公です。

大河ドラマで信長ブームが起きたのは1965年「太閤記」の時です。私はむろん見てません。ビデオも本能寺の回しか残っていません。高橋幸治さん演じるクール極まりない織田信長に人気が集まり、助命嘆願が起きます。その結果「本能寺の変」は全52話の42話になるのです。10話だけが「太閤の時代」です。

作家は吉川英治さんなんですね。だから司馬さんが昭和の信長ブームの火付け役ではありません。

大河「国盗り物語」は遅れて1973年です。

もちろんこの作品で大河の信長の原型はできます。その後1983年の「徳川家康」ぐらいまではさほどの信長のデフォルメはありませんでした。大河「信長」は1992年の作品ですが、意外なほど「中世的な」信長なんですね。祈祷師とか雇ってます。

それが2002年の「利家とまつ」になると、なんか「典型化した信長」という感じで「デアルカ」ばかり口にします。2006年の功名が辻、司馬さんの原作なんですが、司馬作品には決してなかったセリフ「もはや朝廷もいらぬ。余は神じゃ」なんてこと言い出すわけです。私個人としては「まずいな、このデフォルメは」と思いました。「信長の自己神格化」は大河「信長」でも大河「秀吉」でも描かれています。

そっから後は司馬さんとは関係なくというか、「信長の野望」的になって、「魔王」になっていきます。2009年の「天地人」、2016年の「真田丸」などです。

魔王の最終形態は「おんな城主直虎」で、ほぼゲームの世界から飛び出してきたような信長でした。

司馬さんは天皇制を抽象的権威、透明な権威として認めていましたし、信長に南蛮胴を着せたりもしませんでした。「天才」または「天才と紙一重の人」とは描きました。室町将軍に関しては「よく分かっていなかった」と描きます。「義昭をかついで失敗した。こいつはうるさい。朝廷をかつげば良かった」なんて考えるのです。仏は「人が作ったもの」とは言います。合理主義者としては描きました。

「司馬が描いた信長を信じて」なんて人がいますが、司馬さんが描いた信長をちゃんと読んでいるのでしょうか。ちゃんと読めば「小説の中の人」だと気が付くはずです。

司馬さんは信長の晩年を描きたくなかったでしょう。虐殺の歴史です。秀吉の晩年も描いていません。「新史太閤記」は「家康の上洛」で終わりです。

描きたくもないのに書いて、それが「信長の原型」とされ、「原型が維持された」ならいいけど、とんでもないデフォルメをされ、そのデフォルメまで含めて「司馬のせいで」とかトンチンカンなことを言われる。国民作家はつらいものです。

大河「麒麟がくる」・「信長を暗殺せよ」・染谷織田信長が「左京大夫」にならなかったことの意味

2020-06-18 | 麒麟がくる
麒麟がくるはフィクションです。織田信長の第一回の上洛時に、足利義輝が信長に「左京大夫」や「幕府相伴衆」に勧めたなんて史料はありませんが、フィクションですからそこはどうでもいいのです。

ドラマの展開として「じゃあ信長は何をしに行ったのか」という問題は発生します。今川との仲介を頼みにいったわけですよね。それは承諾しているわけです。仲介の手紙は書いてくれるのでしょう。それに加えて今川義元よりも「高い官位」や「高い幕府内での地位」をくれるというのです。

「断る理由がない」わけです。しかし信長は冷めた目で見て、何も言いません。十兵衛には「効果がないだろ」と確かめます。松永久秀には「がっかりした」と言ったようです。

仲介の手紙も書いてくれて(たぶん)、地位もくれるという。目的達成です。なんで「がっかりする」のか。それ以上何を望むのか。どんなことを期待していたのか。まさか将軍出陣ではありますまい。官位を断った理由は推測はできます。効果がないのに金がかかる、からです。でもそれは描かれず「わしにはそれぐらいしかできない」と義輝は言います。将軍の権威低下を強く印象づける演出でした。「信長は将軍の器量を確かめに行った」とすれば「辻褄はあい」ますが、流れとしてそういう演出にはなっていませんでした。結果的には「将軍と幕府の力を確かめに行った感じ」にはなっています。それに実際、信長は官位に無関心な部分があります。義昭をかついで上洛後もずっと「弾正忠」のままでした。何年間も。

一部の方からは「不満の声」もありました。ツイッター上です。「これじゃあ古い権威を低く見る従来の信長像と同じ」ということでしょうか。麒麟がくるの「染谷信長」は従来説と新説の「混交物」で、だからどっちの「派」からも支持されます。従来説が全部間違っており、新説はみな合っている、なんてことはありません。だから「ちょうどいい」のでしょう。

信長だけでなく「あの真面目な、古い権威にも価値を置くはず」の十兵衛も「効果がない」と信長に示唆してます。ほほーと思いました。考えてみると十兵衛は「守護代道三にも守護土岐頼芸にも、そして弱気になった将軍義輝にも」、文句ばっかり言ってるわけです。「古い権威に価値を置く」と見せながら、実は本音ばかりを言っています。巧妙な設定だなと思います。

史実としての信長は、義昭追放後の2年後、1575年ぐらいまでは義昭と対抗する官位を求めるわけです。権大納言、右近衛大将になります。義昭に匹敵する官位です。その後あまり官位に関心を示しません。1578年には右大臣になりますが、すぐに辞任します。二位の位は残ります。が、それ以降、官職はない状態で死を迎えます。「さきの右大臣」のままです。

織田信長が幕府の中での地位に関心を持たなかったことは有名です。朝廷の官位となるとやや複雑で、義昭追放後は対抗上なのか興味を持ちます。しかし長篠の戦いで武田を破って、相当な実力をつけてからはまた無関心になっていきます。最後は朝廷の方から「こういう地位についてくれ」と要求されるような存在になっていきます。

信長は改革者、を認めない人はいます。さらに「革命児」となるともっと認めません。皇室をないがしろ、というイメージがあるせいなのでしょうか。私は革命は起こさなかったが、改革は行ったと思っていて、まあ「普通の意見」を支持しています。

信長は確かに朝廷を復興しましたが、朝廷のシステムの中に入っていくことはしません。巧妙に回避しています。私は朝廷に対しては「尊重しつつも距離を置く」という姿勢を、最終的には持っていたと思います。また本能寺、1582年の段階では朝廷の権威を利用する必要も薄くなっていたと感じています。敵には朝敵とか言ってますが、どれほどの意味を込めていのか。この「感じ」が正解なのかどうか、それは私が自分の頭で考えていく問題だと思っています。もちろん玄人さんである学者さんの意見を参考にしながら、です。

麒麟がくる・「信玄西上・三方ヶ原の戦い」・勝手なあらすじ

2020-06-15 | 麒麟がくる
以下は「デタラメな趣味の文章」です。勝手に題名つけて、勝手に書いています。麒麟がくる、のネタバレはないはずです。ただし史実を全く知らない方にとっては、一部史実がネタバレします。文章そのものは史実と関係ありません。史実をちょっと基にしたフィクションです。軽いノリのふざけた文章でもあります。家康のセリフは大河「国盗り物語」のパクリです。


さて目出度く足利義昭さんが将軍になれたのは、1568年の年末のこと。織田信長は1569年の正月には、殿中掟16条というルールを作ります。が、義昭さんはニコニコです。「信長殿は本当に足利家のことを心配してくれているんだ」と喜んでいます。善良な人なんです。

十兵衛は基本は幕臣として、そして織田家にも属すると言う「両属状態」で働いていました。義昭さんのことは信頼しています。奈良で托鉢増の姿になって、貧しい人々を救おうとしていた人間です。善良でいい人なんです。

しかし幕臣の多くは腐敗していました。十兵衛はそれを改革しようとします。信長は「オレは幕臣ではない。十兵衛がやれ」と言っています。それで段々、義昭さんとも口論になることも多くなっていきます。仲が良くても口答えはする。十兵衛と道三の関係と同じです。

光秀「も~辞めます。もー幕臣はやめますよ。いつまでたっても腐敗が改まらない。」
義昭「辞めるなら辞めろ。辞めてしまえ。実はわしが辞めたいわ!」
光秀「まさか私が土地を横領したとか、信じてないでしょうね」
義昭「信じてないわ!わしだって何とかしたいわけよ。でもどーにもこーにも。そりゃ老獪な奴が多い。三淵は諦め顔だし、細川は十兵衛より怒っている始末だ」
光秀「横領はするわ。公家と組んで土地はかすめとるわ、ひどいことになってますよ」
義昭「わかってるよ。でもここまでひどいと改革は無理じゃ。わかるか、この足利直系の将軍の辛さが。重さが。土岐源氏のはしくれには、分からぬ!」
光秀「えー分かりませんとも。罷免しましょう。罷免」
義昭「罷免はいいけど、だれが幕府を動かす?そういう官僚仕事、十兵衛できるのか。美濃の坊ちゃん育ちだろ。構造改革は難しいわけよ。科挙でもやるのか。」
光秀「しかし信長様ももう我慢ならないって感じですよ」
義昭「わしにどうしろというのだ。大名への仲介手紙なら書いてるよ。しかし内部の腐敗は奥が深い。公家ともつながっている。この前まで僧だったわしには荷が重い。むしろ三淵、細川、十兵衛の責任じゃないのか」
光秀「あ、そういうことを言うんだ。はい、責任転嫁、武家の棟梁失格」
義昭「失格なんてことはなった時から気が付いていたわ。お前たちが支えるからどうしても将軍になれなれとうるさかったんじゃないか。まあ、ホントの話、十兵衛は信長についた方がいいと思うよ。わしについていても先はない」
光秀「・・・・」
光秀「ところで、信玄が上洛するうわさがありますが、知ってますか」
義昭「またわしが包囲網を作ったとかいうんだろ。私じゃないって。冤罪だよ。顕如だよ、本願寺、あと顕如に乗せられたあのユースケ義景」
光秀「安心しました」
義昭「しかし十兵衛、信長は本当に麒麟をよべるのか。わしは怪しいと思っておる。それから、藤吉郎、あの者には気をつけよと信長に伝えよ」

1572年の末、武田信玄が西上の軍をあげます。同盟を結んでいると思っていた信長は怒り狂います。さらに藤吉郎が「全部、将軍義昭の策謀」と報告を入れてきます。幕府を大切にしてきた信長の心が揺らぎます。信玄の目標は美濃であると読んだ信長は、家康に「戦わないくてもいい。美濃で決戦する」と書状を送り、防衛兵として「わずか三千」の兵を送ります。

一方奈良では信玄西上を受け、松永久秀が信長に反旗を翻します。光秀は驚き、久秀のもとに急行します。
久秀「おお、十兵衛、よく来た」
光秀「よく来たじゃないでしょ。何考えてるんですか。」
久秀「わしの主君は三好義継様じゃ、いくら言っても叛意を変えない。立つという。わしは三好家の家臣じゃ。仕方なかろう。将軍家の御内書もあるという」
光秀「その御教書は偽造ではありませんか」
久秀「偽造かも知れぬ。見たわけではない。しかし、そのような偽造がなされるなら、室町殿ももう終わりということであろう。」
光秀「そう思うなら何故」
久秀「三好家家臣だからじゃ。信玄は勝てないぞ。朝倉の腰は引けておる。信玄が長躯遠征しても、美濃で織田に勝てるわけもあるまい。せいぜい徳川を潰すのがやっとであろう」
光秀「だからそう思うなら何故」
久秀「わしは義輝公と幕府を改革しようとしたができなかった。もはや足利や三好の世は終わった。終わったものは滅んでいくしかない。わしも足利も、古いものは滅んだほうが良いのじゃ。しかしどうせ滅びるならわしは信長と一度戦ってみたいのだ」
光秀「滅べば美しいと思ったら、大間違いですぞ」
久秀「わかっておる。よく分かっておる。しかし言っておく。信長はいずれ滅びるぞ。10年のうちに。もう帰れ、十兵衛」
十兵衛は泣く泣く多聞山城を後にします。なお、この戦いの後、三好義継は戦死。松永久秀は信長によって許されます。

さて、信長から「戦わなくていい」と言われた、浜松城の家康。浜松城に籠っていると、武田軍は家康を無視して進軍していきます。やはり狙いは美濃でした。

家康「織田殿は戦わなくてよいという」
菊丸「それはようございました。家中には武田に寝返るべきという方もおられるようです」
忠勝「殿、ここは我慢のしどころですな」
家康「忠勝、よく申した。そう、我慢じゃ。やせ我慢じゃ。ここは打って出る。」

籠城と思っていた織田の援軍は驚きます。家康は三方ヶ原に打って出ますが、鎧袖一触、武田にやられ、城に逃げ込みます。

忠勝「鎧袖一触とはこのことですな。武田は強い」
家康「しかしわしが打って出なければ、わしから離れた国人は、もはや戻ってこないであろう」
忠勝「そのために出陣でしたか、しかしよう負けましたな」
家康「いや、戦では負けたが、わしは生きておる。徳川家康を臆病者とは、もはや世間は見ぬ。忠勝わかるか。いかに知略があろうとも、臆病と言われれば、人は軽蔑し、知略をほどこすこともできぬ。三方ヶ原で今日、わしがこの手に握ったのは、天下という場所で仕事をするには、命より大切な信頼よ。」
菊丸「殿!」

この話を菊丸から聞いた光秀は思います。「徳川家康か、不思議な男だ。裏切ったところで機敏さを誉められこそすれ、誰ひとり後ろ指さす者もあるまいに、、、いや、この戦国に稀有の律儀さ。存外生き延びれば、諸大名の信頼を買うかも知れぬ。」

やがて信玄は西上の途上で死没します。武田軍は甲斐に去っていきました。その前に、信玄が同盟していたユースケ義景は雪を理由に越前に引き上げてしまい、信玄は茫然としたということです。朝倉が引き上げた以上、信玄が死ななくても、武田にはこれ以上の西上は無理だったのです。

大河ドラマにおける徳川家康像・不思議な人気

2020-06-14 | 麒麟がくる
ツイッターをやってみて、徳川家康が大人気だということが分かりました。特に今川時代とか。

どうやら「おんな城主直虎」の影響もあるようです。さらに家康の持つ安定感とか、常識人っぽいところも人気の秘密のように思います。秀吉や信長に比べると、狂気度が相対的に薄いのかも知れません。山岡さんが描いた勤皇家の家康も影響しているのかな?

「おんな城主直虎」は、非常に評判のいい作品です。しかし私はところどころしか見ていません。最後の方は見た。信長が「ザ魔王」でびっくり。あそこまでデフォルメするとは。光秀にまたびっくり。結局、信長、光秀、家康の描き方しか見ていないから、作品に入り込めないのです。主役は直虎と二人の男です。

大河「徳川家康」が放映されたのは1983年で、むろん生きてはいたのですが、なぜか見ませんでした。その後DVDになって2000年ぐらいに見たのでしょうか。衝撃でしたね。「そんな馬鹿な」という所満載です。でもある意味「新鮮な家康」だったのです。山岡荘八さんの原作は読んでないので、ここまで「聖人君子にしてしまうか」と衝撃でした。あそこまでやると立派だと思います。「嘘に嘘を重ねて」と言われますが、嘘もあそこまでやれば立派です。そもそも「偉人伝」は嫌いじゃないのです。「偉人伝」としてはよくやった作品だと思います。

大坂の陣などでも「秀頼を助けよう」とするのです。でも秀忠が勝手に殺してしまう。それで怒って帰ってしまう。「おいおい、秀頼の遺児の国松を救わなくていいのか」とかつい思ってしまいますが、それでもあそこまでやれば見上げたもんです。嘘ばっかとは思いますけどね。でも嘘ばっかなのは他の大河も同じことですし。楽しい嘘なら構わないのです。

史実に近い感じがするのは「葵徳川三代」の家康です。家康研究家さんにとっては「小山評定なんてない」と嘘ばかりなのかも知れないが、私には「ちょうどいい感じの家康」に見えました。ただしあれは秀吉死後から始まるのですよね。前半生がない。

司馬さんは家康につき「覇王の家」「関ケ原」「城塞」という3つの作品を描いていますが、どれも大河になったことはありません。「関ケ原」はTBSでドラマになりました。近年の映画は、あまり触れたくありません。ドラマ、森繫久彌さんの家康は実に良い。最後に石田三成のために泣くのです。そこも実にいい。司馬さんは家康に対して厳しい。山岡さんへの意識だと思います。それでも「覇王の家」では珍しくほめています。全然無私の人じゃないこの男が、無私の人としての自分を徹底して仮装できた。そこが凄いと言うのです。あいまいな記憶ですが。

徳川家康という人がかわいそうなのは、下剋上がほぼ終わった時代に勢力を伸ばすので、豊臣家に対する「倫理が問われて」しまうところです。信長が義昭を追放しても、秀吉が織田信孝を殺しても、さほど倫理は問われません。乱世だからです。でも家康は乱世を終わらせてしまった。乱世が終わる時代に覇権を握った。だから倫理を問われてしまうのです。しかも江戸時代は倫理的な時代となって、その倫理観は今でも、なんとなく生きています。

家康を偉人として描いた大河「徳川家康」がある。なるべく等身大に描こうとした大河「葵徳川三代」がある。そしてコント仕立てで登場し、段々凄みを見せていった大河「真田丸」がある。狸親父として描いた作品もある。しかしその「狸度」は作品によってさまざまである。そんな風に感じます。

織田信長・北条氏はなぜ「征夷大将軍」にならなかったか。

2020-06-13 | 麒麟がくる
私にとってこういうことを考えるのは「趣味」であり、一種の思考実験であることを書いておきます。ただ「楽しいから」書いているだけです。これが真実だ的な誇大妄想はありません。

子供の頃、「鎌倉北条氏は身分が低かったので将軍になれなかった」とよく言われていました。子供だから「ああそうなんだろうな」と思っていました。実際そうなのかも知れません。

ただ北条得宗家という存在を知ってからは、ちょっと考えが変わりました。得宗家というのは北条義時嫡流です。鎌倉後期となると、執権よりこの得宗の方が権力を持っていたようです。得宗が執権を務めることもむろんあります。得宗というのは律令制の身分ではありません。京都の官位だと北条貞時で従四位上のようです。しかし「実質的には鎌倉殿」であり、鎌倉政権のトップであったようです。将軍は天皇の息子です。

上に征夷大将軍はいるけど、実質的トップは得宗ということになります。少なくとも時宗の時代は。そしてこの得宗という身分は「京都朝廷とはほぼ関係ない」のです。朝廷は得宗を任命できません。朝廷が任命する征夷大将軍が力を持っていたのは、もしかすると源頼朝の時ぐらいかも知れません。実朝は?

北条家は後になっても、名家だと自己粉飾をすることは少なく、その必要もなかったようです。意識的に京都的秩序との関係を「絶っていた」と私は思っています。普通に考えて、そうなるだろうと思うのです。

で、室町時代になります。征夷大将軍の「権力」はさらに後退というか、範囲が狭まります。関東には鎌倉府、九州には九州探題という半独立権力が生まれるからです。私は詳しくありません。

で、戦国時代になります。織田信長は「武家の棟梁」である室町将軍をどう捉えていたのかなと考えてみるのです。「武家の棟梁」ですから武家です。でも公家的要素も強くあります。さらに義輝さんの親父の義晴さんの時代も、京都から逃げてばかりで、調停力や裁判力は微弱でした。微弱ですよ。全くないとは言わない。微弱だから戦国時代となるのです。形式的にどうであったかは関係ありません。実際の力です。

織田信長も豊臣秀吉もそのことを知って育ちました。二人とも頭がいいので、古い権威であっても、権威である以上、それなりに尊重はしていたと思います。でもそこそこ尊重する以上の意識はなかったと思います。

織田信長が1572年の末頃か翌年に「17条の異見書」というものを出しています。義昭個人に対する弾劾状ですね。その1条に「足利義輝は天皇に参内しなかったからあんな最期を迎えたのだ」と書いています。義昭公方も参内しないようであるが、残念であると。

これを見ると「将軍の仕事」を信長がどう捉えていたか、その一端が分かります。一端と書いたのはこれがかなり「戦略的な文章」であり、信長の本音かどうかは不明だからです。

参内、公平な扱い、公平な裁定、欲深くないこと、、、そんなのが「将軍のお仕事」なんですね。こういうものに信長自身がなりたいかというと、金をつけられてもお断りだったのではないか、そう思えてきます。

それでも朝廷としては信長を「取り込む」必要があって、右大臣・右大将にします。が1578年に信長は辞任します。それからずっと無官です。(信忠に譲ろうしたこと、二位は辞退しなかったことは知ってます)

で、本能寺の年の1582年になって「関白・太政大臣・征夷大将軍」のどれでもいいから選べと言われます。信長は即答しません。「それなら信忠を征夷大将軍に」と言った形跡もありません。ほとんど執着がないわけです。

戦国権力であっても朝廷の官位・権威の後ろ盾とか「大義名分」が必要だった。こういう意見を「頭ごなしに否定」する気は毛頭ないのです。同時に「そのまま鵜呑みにする」気もさらさらありません。しかし少なくとも信長にとっては征夷大将軍という権威づけは「必要ない」ものだったのでしょう。利用価値が薄かった。彼が何になろうとしたのか。律令制の外に出ようとしたのか。それはさらに考えてみようと思っています。考えてもたぶん答えは出ませんが、単なる趣味です。考えることが楽しいのです。

北条得宗は朝廷と距離を置くこと、朝廷に任命されない地位にいることによってある程度の成功を得ました。信長も朝廷と距離を置いていました。どういう権力が可能であったのでしょうか。

その後、徳川家康という人が、征夷大将軍という古色蒼然たる権威の利用法を考えます。彼は頼朝を尊敬していたと言われています。それでも朝廷とは距離を置きました。これは物理的な意味でもあります。江戸と京都は距離があります。政治的には「禁中並びに公家諸法度」を作り、京都朝廷を「ある型の中に押し込めて」しまいます。

京都朝廷の日本史の中での隠然たる力を信じている方には、不快な文章と映るでしょう。しかし私はそういう前提は「なしで」私は考えています。「なしで」の方が自由に考えられ楽しいからです。朝廷権力は信長によって復興され、家康によってある型の中にはめられます。そして幕末に再発見され、、、、、まあこの話は面倒なのでやめておきます。

織田信長は中世の破壊者なのか

2020-06-11 | 麒麟がくる
田信長は中世の破壊者なのか。こう書くと「破壊者ではない」という結論を予想すると思いますが、「破壊者です」ということを書きます。

近年の研究について何も知らないのかと言われそうですが、そりゃ全部知ってはいません。でも15冊ぐらいは本を読みました。日本史学者、比較的まともな研究者の本です。

「織田信長は中世を少しも破壊していない」と言い切る学者等は一人もいないと思います。程度の問題なんです。

つまり「近世権力というには信長の政治体制は不徹底であった」。近世は秀吉をもって始まるということだと思います。あととにかく言いたがるのは「意識的じゃなかった」ということですね。天下統一戦争も「いつのまにかそうなちゃった」、天下統一なんて「意識はなかった」と言いたがります。変な論理です。

信長が保守的というのも、「保守的側面も強かった」「意外に強かった」と言われます。「意外に」ということは、革新的部分も多いということです。資質としては保守的というか、伝統、朝廷、宗教、室町幕府、宗教なんかを尊重していたよ、ということです。(私はそのまま信じたりしませんが)

言いたいことはたぶんこうです。
・政治的システム的には室町幕府のシステムを超えるものではなかった。
・室町幕府の存続を意外と熱心に望んでいた
・特に土地制度については先進的とは言い難い
・反抗しない限り、宗教も保護した。
・朝廷を尊重した。または利用した。天皇を超えようなんて考えはなかった。
・楽市楽座も不徹底であり、座を保護することも多かった。
・無神論者などではなかった。(そもそも誰が無神論者だなんて言っているのか)

一方で
・臨機応変な思考、合理的判断
・居城の敵地接近移転
・新兵器の活用
・軍事組織のスケールの大きさ
・強い配下武将支配・重臣の合議制ではない意志決定
・関所の廃止、ある程度成功
・伝統権威でも逆らえばつぶす方向で「意外と慎重に」行動する、比叡山
・室町幕府の存続を本心で望んでいたかは不明だが、結局は交渉決裂。義昭の子を将軍としてたてることはなかった。
・官位をもらうこともあるが、すぐ辞任してしまう。執着はない。官位を辞して後、死ぬまで官職はなかった。
・ある程度の検地
・兵農分離もそこそこ成功・専業武士団の創設
・反抗する宗教勢力・自治都市などには容赦なかった。ただし自治都市はさほど反抗しなかった。
・座の保護も含めた、商業政策の重視

結果としての日本半分程度の広大な領地の支配

こういうことを認めない学者はそう多くはないと思います。異見がでるとすれば「配下武将の統制」ぐらいでしょうか。あっ、兵農分離もなかったという人もいますね。なんでもかんでも「なかったこと」にしてしまう。

上記は、他の戦国大名もやったことですが、スケールの大きさが違います。

織田信長は結果として中世をある程度破壊していきます。そしてその幾つかは意図的なもので、たまたまそうなったわけではありません。その完成形が秀吉・家康ということになります。「織田信長は中世を全く破壊していない」と言い切る研究者はおそらくほとんどいないと思います。戦国大名はみな程度の差こそあれ中世システムを破壊しています。信長はそれを大きなスケールでやった。だから明らかに破壊しているのです。「いわれてきたほどじゃない」という論法を持って、結局は全否定をなすような詐欺的論述はなすべきではないと考えます。

麒麟がくる・第二十三回ぐらいか・「将軍義輝の戦い」・勝手なあらすじ

2020-06-09 | 麒麟がくる
勝手なあらすじです。つまり趣味で書いた文章に過ぎません。しかし情報は得ているので、一部は当たると思います。ネタバレに注意してください。ただし「もちろん、こうはなりません」。史実とも違っています。「将軍義輝の戦い」も私が勝手につけた題名です。あとちょっとふざけた内容ですよ。



さて時は桶狭間の1560年から飛んで1564年、つまり足利義輝の死の一年前、十兵衛は藤孝からの知らせで、三好長慶が死んだことを知ります。三好家が松永派と三好三人衆派で割れているとも書いてありました。十兵衛は相変わらず寺小屋経営です。ただし十兵衛の名誉を思って金を送ってこない帰蝶に代わり、信長が多少のお金、現代価値で15万円くらいを月々送ってきていました。桶狭間の「水の代金」だそうです。一族8人ぐらいでなんとか食べていけるほどの暮らしです。

次の年、1565年。十兵衛はユースケ義景に呼び出されます。京都へ行けと言います。細川藤孝が呼んでいると。

京都に行くと藤孝は暗い顔ながら喜びました。今から将軍御所で「将軍家再生会議」をやるから出席して欲しいと言います。なんで自分が?と思いますが、義輝のたっての希望だそうです。
「将軍家再生会議?はあ?」と光秀は思います。

部屋に入っていくと義輝がいます。三淵、細川がいます。そしてなんと松永久秀がいます。さらに伊呂波大夫が隅にいて、芸人姿の男が義輝の横でむしゃむしゃ魚を食べています。「なんだこいつ」と十兵衛は思います。

芸人男「だからな、義輝殿、お主は線が細いのだよ。剣豪なんだろ。将軍なんだろ。どーんとぶちかますぐらいの気合でいかないと」
義輝「関白様のようには生きられませんよ。いつもながらよく食べますね」
芸人男「ああ、ただ飯ぐらいうまいものはない」

十兵衛は「関白?はあ?」と思います。伊呂波大夫が言います。「明智様、関白近衛前久です。あたしの兄というか弟というか、将軍様にとっては義理の弟。ヒマなんで今日は芸をやると言って昼の公演に参加してたのです」
十兵衛はははーと土下座します。

近衛「そうそう関白左大臣、あれ、太政大臣かな。要するに貧乏人ということだ。そなたが十兵衛か、大夫に聞いていたぞ。いい加減顔をあげろ。話もできん」

こうしてなんとなく「将軍家再生会議」が始まります。
松永「長慶様が死んで義継様が家督に。それでわしが三好家を握っているのなら、義輝様を支えられるわけなんだが、三好三人衆という邪魔な勢力がいるのだ。いつもトリオで出てくる。一人一人の名前がわからないぐらいだ、一人は三好姓でもないし」
義輝「久秀も引退が早かったよな。家督は久通だっけ。どうもあいつは流されやすい性格だから心配だな」
近衛「だから将軍がどーんとかまえて、ばーんとやればいいんだよ」
大夫「なんです。どーんとかばーんとか、もっと具体的に言わないと」
近衛「オレとしてはあれだな。上杉輝虎(謙信)、輝虎ぐらいだろ、将軍家を心から信奉しているのは、なんなら越後に行くよ、行ってオレが説得してやる」
大夫「関白が越後に旅するって、またですか、5年ぐらい前にずっと行ってましたよね」
近衛「伊呂波ちゃんはバカにするけどね。結構オレ、活躍する可能性もあるよ。」
大夫「まあ誰かと組んで活躍するのかもね。でも誰かさんが死んで、藤吉郎が出てきてからはさっぱりでしょ」
近衛「誰だよ、藤吉郎って。まだ歴史に登場しないだろ。さっぱりとか言うな。とにかく上杉輝虎、決まりだね」
三淵「しかし、上杉はどうも関東管領扱いが気に入っているようで、結局は武田とか北条と争ってばかり。とても上洛などできないでしょう」
近衛「それを言われると弱いな」
細川「本当は六角、佐々木氏が強いといいのですが。浅井に負けてる感じだし。そもそも浅井ってなんなんだ。十兵衛殿、朝倉は」
十兵衛「そりゃ、蹴鞠は文化ビジネスだって分かってはいるんですよ。でも本気でアリっと楽しんじゃっているから。何かを狙っているような気もするんですが、どうにもつかめません」
義輝「ダメか、毛利はどうだ」
細川「毛利は、領土が大きくなり過ぎたとかで、これ以上東に行ってはいけないオキテがあるそうなんですよ、それにまだ尼子と争っているし」
近衛「なんだその変なオキテ。嘘くさいな、本当か。調べた方がいいぞ」
義輝「毛利輝元か。輝の字をやったのに薄情だな」
細川「そんなもんですよ。毛利って大江広元系とか言ってますが、小さな国人でしょ。急にあれだけ大きくなるとビビりますよ。」
近衛「毛利元就死んだ前提で話しているけど、生きてるよ。あと6年も生きるんだ。2年後、子供まで作る。どんだけ元気なんだ。それはそうと、三好三人衆といえば、足利義栄を将軍にしろと騒いでいるよ。オレ、いざとなったら断れないからね。断る力ないから」
松永「それは知ってます。三好三人衆は、なんなら義輝公を殺してしまえとも思っているようで、しかも主君の義継も流されやすいタイプで。くれぐれもご注意ください」
義輝「いっそ無能な将軍など死んだほうが良いのかも知れんな」
近衛「出た、マイナス思考。だからダメなんだよ。ぐいっと行かないと」
十兵衛「義輝様こそ武家の棟梁、世を平らかに治める方」
義輝「十兵衛、好きだよなそのセリフ、使いたいだけなんじゃないか」
十兵衛「さすが公方様、鋭い。まあそれはそれとして、京にそこそこ近くて、今最も勢いのある大名と言えば、織田信長様では」
近衛「織田信長な。桶狭間は凄かったよな。でも美濃攻めでは意外と苦戦してるだろ。もう5年もやって落とせない。桶狭間は、ありゃ偶然だろ」
十兵衛「一国取るのに5年は長くないですよ。とにかく信長様しかいないと思いますよ。なんというか、褒められ好きなんですよ。褒めて伸ばすタイプ。義輝様とか、近衛公がおだてれば、きっと張り切りますよ、サイコっぽいけど、基本善人です」
一同「織田ねー」
義輝「一度会ったけど、丸顔で善人っぽかった。でも目つきがなー、なんか怖いんだよ、急に目の光を消すだろ」
という感じで会議は終わりました。光秀は御所に三日ほど滞在することになります。

近衛は自宅へ、細川、三淵は領地へ、松永は奈良へ、それぞれ帰っていきました。

三日目の朝、外の様子が変です。光秀が見ると将軍御所が兵に取り巻かれています。兵は三好義継、三好三人衆、松永久秀の息子、久通のものたちです。
義輝「これは御所巻というものだ。しかしわしは屈する気はない。十兵衛、今日よりそちを幕府奉公衆とする。わしの命を受けよ」
光秀「なんなりと」
義輝「奈良へ行け、奈良へ行って一乗院門跡の覚慶を助けよ。弟じゃ」
光秀「わたしはここで上様とともに討ち死にを」
義輝「ならぬ。覚慶を次の将軍にせよ。わしは実は悪人だったが、覚慶は善人じゃ。善人の十兵衛と覚慶で次の幕府を作るのだ、それと善人かも知れない信長で」
光秀「いまなら落ち延びることも可能では。降伏すれば命までは取りますまい」
義輝「いや殺す気だな。それにもう逃げるのは飽きた。わしの一世一代の晴れ舞台だ。堀の上からでも見物し、後世に伝えよ。やっと剣が振れるぞー、アハハハ」
こうして光秀は御所を脱出します。御所の塀に上って見ていると、将軍義輝が戦っています。
庭の砂に何本もの名刀を突き立て、とっかえひっかえ相手を斬っていきます。
が最後は力尽き、討たれます。

奈良に急行した十兵衛は松永久秀を問い詰めます。なんでお前がついていながら、こうなったのだ。
久秀は黙って銃を十兵衛に渡します。これで自分を殺せと言います。十兵衛は言葉も出ませんでした。

麒麟がくる・第二十一回・「決戦!桶狭間」・感想

2020-06-07 | 麒麟がくる
「信長公記」によれば信長が人間五十年を舞ったのは「桶狭間の時」なのですね。で、私は染谷信長に「舞わせるか」に注目してたのです。舞って欲しいが、普通には舞わないだろうなと予想していました。

結果としては「まず口ずさむ」、しかも「有為の雲に隠れ」という「人間五十年のちょっと前」から口ずさむ。一たび生をうけ、で本格的に舞おうとするが、そこで止める。つまり滅せぬもののあるべきか、の部分はやらない。その代わり会話で「死のうは一定」を入れてきました。

でも満足です。さすがにやってもらわないと。父親の位牌に抹香投げつけなかったのだから、ここは少しはサービスしてほしい所です。

しかも「桶狭間」、ちゃんと「桶狭間山」と「山」としたのに、義元の位置はちょっと谷になった部分でした。だから「坂を下って攻撃」です。「逆落とし」というほど急な坂ではないし、騎馬で逆落としではないけど、坂を下ってくれました。「わ、逆落としだ」と喜んでいました。

片岡さんはよく戦いました。2分ぐらいの殺陣だったけど、2分も戦った義元はいなかったと思う。中村勘九郎さんの死に方は壮絶でしたが、殺陣はほぼやっていません。ちゃんと鎧兜はつけてましたが。できれば死に方もやって、勘九郎さんと競って欲しかった。

あとは今井翼君の最後のひと槍。思いっきりハイジャンプ。あれは初めて見ました。ハイジャンプはどのドラマでもなかったでしょう。首をとったあと、自分で驚き、興奮しているさまもよかった。


あとは思ったことのみ
・松平元康が急に「徳川家康」になった。怒ると怖いタイプだな。

・佐久間信盛、、、なんでクールでニヒルなんだろう。むしろワルに近い顔。伏線なのかな。でも黒幕論は採用しないと思うけど。知っているぞ、君の運命は。君の息子の運命も。

・数にやけにこだわっていた。そう、数しかないのだよね。正面攻撃説だとすると数を「拮抗」させるしかない。3000対6000程度。数式まで出してこだわっていた。「数が拮抗していた」としないと、いくら雨が降って運があっても勝てるわけない。

・時間だけなら大河「信長」の方が時間をかけている。桶狭間に90分かけている。スケールもはるかに大きい。金かけている。しかし、「人間ドラマ」がない。しかもスモークたきすぎで戦闘シーンがよく見えない。信長の事績を追いかける歴史の勉強なら圧倒的に大河「信長」の方が勉強にはなるが、人間ドラマがなく、何やってかよくわからない。煙しか見えない。実に惜しいドラマだ。でも信長の事績を追うには本当に良い作品。

・奇妙丸がでてきた。光秀とも会った。悲しい出会いだ。茶筅、三七と男の子だけで11人もいる。そのたびに帰蝶に謝るのかな。

麒麟がくる・比叡山焼き討ちはどーなるのか。

2020-06-03 | 麒麟がくる
「麒麟がくる」の台本はだいぶ修正されたようです。合戦シーンが特に問題で、コロナ問題とかかわります。だから合戦はほとんど「なくなる」のかなと思います。本圀寺・金ケ崎・長篠・本能寺ぐらいなのかなと思っています。長篠に光秀いたかどうかは説が分かれているようですが、光秀はどこにでもいるので大丈夫でしょう。
武家・公家・寺社・天皇、これらは「持ちつ持たれつだった」というのが多くの日本史学者の前提で、これは仮説なんですが、いつの間にか仮説じゃないような扱いになっています。信長と義昭も持ちつ持たれつ、信長と寺社も持ちつもたれつ。仮説が一人歩きしているようで、どうも科学的な方法とは思えないのですが。でも私は研究者でも学者でもない。
「比叡山焼き討ち」なんぞも持ちつ持たれつにしないといけないので、「そんなに焼いてない」とか「信長だけじゃなくやったやつもいる」とか。たいした問題でもないとする風潮もあるようです。

ドラマ上はどうなのか。今までだと「信長と光秀の大げんか」となるシーンです。今回はスルーかも知れない。

あの「光秀」なら、つまり長谷川さんなら「僧兵とは戦いましょう。でもなるべく焼かない。寺にいる一般人は殺さない、女子供は殺さない」となるでしょうね。そんなに信心深いようにも見えないし。

でもそうすると光秀の当時の手紙と矛盾してしまう。まあこっちの手紙の方をスルーかな。村を皆殺しにすることと、寺を皆殺しにすることは違いますから。

さてどうなるのでしょう。