歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

本能寺の変の要因・織田家ブラック説の誘惑

2021-03-26 | 織田信長
最近「プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード」という映画を見ました。で「誘惑」という言葉を使いたくなったわけです。題名はふざけてますが、内容は「そこそこ真面目」です。

NHKの「光秀のスマホ」に「#織田家はブラックでした」という回があります。実は大河でも「織田家ブラック説」を採用した大河があります。大河「信長」です。当時の「研究成果を生かした」まるで信長の教科書のような作品なのですが、なぜか「画面が暗い」のです。よく見えない。戦闘シーンは壮大ですが、なぜか「もやばかり、煙ばかり」なんです。よく見えない。先端の研究成果を生かしたため、当時の多くの人には理解できなかった。画面がよく見えない。言葉遣いがみんな同じでしかも変。語りが宣教師であった。などマイナス面が多く、正当な評価は得ていません。私は「信長の教科書」として使っています。むろん史実じゃないこともありますが、描写が詳細です。なにしろ上洛時における六角氏との戦闘まで描かれているのです。

ほとんどの大河は本能寺の変の要因として「信長非道阻止説」を採用しています。しかし大河「信長」は「織田家ブラック説」です。光秀は「疲れて」います。動機は「ぐっすり眠りたい」というものでした。

本能寺の変の要因は、当時の光秀自身が語っています。有名な細川への手紙です。「自分の息子と細川忠興のために起こした」というものです。これ以外に一次史料はない。でも信用できないということになっています。となると、どうすれば動機が分かるのかという大問題が生じます。つまり「人間は自分の行動をすべて説明できるのか」という問題です。光秀が何を言っても「所詮は光秀の考え」です。人間は自分の行動を説明しつくすことはできません。私がこの文章を書いている動機は何か。実はよく分かりません。あえて言うことはできます。「気が向いたから」ですが、どうも自分でも嘘くさい説明だと思います。

やや哲学癖が出ました。しかし真面目に書いています。ということでいつもは本能寺の要因を考える前に「どうすれば動機が説明できるのか」という上記の課題を考えこんでしまうのですが、「気が向いたから」、ブラック説の説得力について書いてみたいと思います。ただし短く。

谷口克広さんに「織田信長合戦全録」という本があります。これを見ると信長がいかに「戦争ばかりしているか」が分かります。上洛以前から上洛戦は始まっています。上洛以降の15年間、戦争は連続し、拡大します。それ以前も、尾張統一戦、桶狭間の戦い、美濃攻略戦です。

信長自身もしばしば前線に立ちますが、「方面軍のような制度」になってからは、方面軍司令官は一時も休むひまがないほどです。しかも信長は「丸投げ的傾向」があります。土地の支配を任せるから、本願寺と戦え、毛利と戦え、丹波を攻略しろ。光秀などは攻略戦を行いながら、接待係にされたり、大和に行ったり、越前に行ったり。たまったものではありません。

大河「国盗り物語」のDVD未収録シーンが先日放映されました。「疲れ死にするやつはそれだけの器量よ。能力のある者は使われることで、力と夢を膨らませていく」と信長は言います。これはドラマですが、史実と照らしても説得力があります。過労死して当然の人づかいをしているのです。なお当時は「モーレツ社員」という言葉が流行った時代ですから、当時は誰も違和感を覚えなかったと思います。現代におけるSNSの反応は「ブラック過ぎるだろ」というものであったと記憶しています。

さて、当時光秀が55歳だったと仮定すると、すでに老人です。過労死を恐れて当然の年齢です。織田家がブラックだから本能寺の変を起こした。なんだか魅力的な説に思えてきます。ブラック説は何人もの方が指摘していますが、なかば冗談だと思っていました。でもあり得るなと「織田家ブラック説の誘惑」に負けそうな気がしています。

本郷和人氏「空白の日本史」の感想文

2021-03-26 | 本郷和人
本郷和人氏と言えば、大河「平将門」の時代考証を担当し「王家の犬とは何だ」とちょっとした騒ぎになったことがあります。私のような史学とは無縁の人間であっても、権門体制論でも二つの王権論でも、天皇家を王家と呼ぶことは知っています。最近の説では堀新さんの「公武結合王権論」があり、ここでも朝廷・天皇家は「王」です。(正確には公武が結合して初めて王権が形成できる。天皇単独でも武家単独でも王権は形成できない。)

日本史学の常識として王家と呼んだら「日本は中国の冊封下にない」と騒がれた。変な話です。でもそれはやはり私のような歴史好きの考えなのだと思います。「王権論」なんてもの知らないのが当然で、知らないからといって責められるべきでもない。生きるのに何の不都合もない。

昔の「新平家物語」では「公家の犬になりたくない」と仲代達也さん(平清盛)は言っています。「公家の犬」にしておけば良かったのかも知れませんが、あの騒ぎで王権論を知った人もいるでしょう。ならそれなりの意味はあったことになります。

本郷氏の本はたまに読みます。あっちこっちに話題が広がって、それなりに面白いし、学ぶべき点もあります。私は信長・秀吉・家康以外の日本史の知識は教科書程度しか知りませんから、学ぶべき点はあるのです。たまにトンデモないことも書きますが、根はかなり真面目な人だと思います。氏の本は「本当かー」と疑いながら読むと楽しい。というか私はあの篤実な歴史学者の鑑みたいな東大の金子拓氏の本ですら「本当かー」と疑いながら読むタイプの人間です。

この本で本郷氏は面白い説を「紹介」しています。氏の本は参考文献が最後にずらっと並んでいないと批判する人がいますが、本人も書いているように、大事な本は「本文で」きちんと紹介しています。

面白い説というのは「尾藤正英」さんの水戸学に対するものです。本の題名は載ってませんが、これまた本郷氏がググればわかると書いている通り、すぐ分かりました。『日本の国家主義 「国体」思想の形成』岩波書店、2014年です。幸い図書館にあったので、今予約を入れたところです。

詳しくはこの本を読まないと分かりません。本郷さんの「紹介」を信じて引用すると、水戸学には前期と後期がある。「尊皇」がことさらに強調されたのは「後期」である。

で尾藤正英さんです。水戸光圀は本当に「将軍よりも天皇である」なんて言ったのだろうか。それは「後期」の話で、水戸光圀がそんなことを言うとは思えない。むしろ北朝の天皇である現天皇家には正統性がないと水戸光圀は思っていたのじゃないか。それを「南朝が正統」という定義で言いたかったのでないか。

実は本郷さんは「水戸光圀は北朝の天皇を偽物であると考えていた説」と書いているのですが、「いささか刺激的」過ぎます。私は人を刺激して楽しむ趣味はないので、偽物という言葉を「正統じゃない」と読みました。同じことなんですが、天皇問題はデリケートなので、こんなブログでも一応気は遣います。こういう私の虚弱な精神に比べて、本郷さんは図太いというか大胆です。

本当に尾藤さんがそういう「感じ」で書いているかは、本が届いてから確かめます。

前回の「青天が衝く」で、水戸斉昭が「将軍よりも天皇家」と慶喜さんと徳川慶篤(よしあつ、水戸家の当主、慶喜の兄)に訓戒をしていました。「うん?」と思ったのです。そこまで言うかなという感想です。しかし後期水戸学の徒である水戸斉昭の言葉としては自然だと分かりました。ただし水戸光圀(水戸黄門)は「そんなこと言っていない」と言うのが尾藤さんの説のようで、それは本が届いてから確かめようと思っています。

ドラマの話ですが、上記の水戸斉昭の言葉に対して徳川慶喜の反応の描き方は微妙でした。一応おとなしく聞いていますが、その後すぐに阿部正弘とのシーンに転換し、「父も老いました」と言います。徳川慶喜のこの時の意識としては「将軍も天皇も」ということであったように思います。天皇に逆らう気はみじんもないが、といって将軍家を捨てることもできない。それこそ公武結合王権論が慶喜の立場ではないかなと思います。だから苦労するわけです。この後、慶喜は「天皇と将軍が対立しないように」行動しますが、不慮の予測不能の出来事でそれは挫折します。

本郷さんの「空白の日本史」では見直すべき書として他に高村逸枝さんの「招婿婚」研究などが挙げられています。大学時代、仲の良かったクラスメイトの女性がよく高村さんを読んでました。懐かしいなと思います。

織田信長の二つの顔・革新性と伝統の重視

2021-03-26 | 織田信長
織田信長の「人間像」を構築するための最も良質な資料は「信長公記」なのですが、これは一級史料であっても、一次史料ではありません。信長公記なしに信長を語ることはほぼ不可能なのですが、「都合よく」利用されている感が最近はあります。例えば「常識人的な信長像」を描こうとすれば、信長公記にある信長の「異常性」や「非常識さ」は「一次史料じゃないから」と否定すればいいのです。同じくフロイスの「日本史」も一級史料なんですが、これも同じような使われ方をしています。

信長には「信長公記」のほかに「手紙」や「事務的文書」と言った史料があります。「事務的文書」とは「領地の安堵等」を約束した文章です。「事務的文章」を見てみると「寺社」とか「公家」といった「伝統的勢力」に土地を保証したようなものも多い。手紙も、手紙という文章の性格上、常識的なものが多い。誰だって手紙となれば形式ばるわけで、極端に非常識な手紙は書きません。そこから信長の人物像を構築すれば、当然ながら「ある程度の常識人」となっていきます。私も年賀状を書きますが、必ず「お世話になりました」と書きます。実際は20年以上会ってないから、お世話になりようもないわけです。でも手紙には「形式」がありますから、極めて常識的な文面になります。私には非常識な面も多々ありますが、年賀状にそんな面をにじませることはありません。

もっとも信長には「非常識」な手紙も多々あります。「武威」と言われる「おれは凄いんだぞ」を遠国の大名に知らせる手紙などです。「毛利も頭を下げてきた」とか平気で嘘を書いています。これについては東大の黒嶋敏さんの著作を見てください。「秀吉の武威、信長の武威:天下人はいかに服属を迫るのか」です。そうした「武威を誇る手紙だけから」信長像を構築すれば、非常識というより、「頭がおかしい」人間、平気で嘘をつける異常な人間、信長像はこうなります。

人間には建前と本音があります。しかも当人もどこまでが建前なのか、どこからが本音なのかが分からないこともしばしばです。それを踏まえると、当然ながら信長には「二つの面」があるわけです。一つの面は形式を重んじる建前の信長で、比較的常識的です。しかしその逆、本音というか「生の信長」は「革新的な人物」なのか。そこは非常に難しいところです。「常識的側面」の反対は、必ずしも「革新的側面」ではないからです。「戦争ばっかりやっていて、検地とかはしない。統治とか特に考えないいい加減な男」という像を浮かび上がらせることも可能です。黒嶋敏さんは上記の本の中で「信長のいう天下静謐には秀吉のような具体性はない」と論じ、「スローガンに過ぎない」と指摘しています。静謐に値する善政など少しも考えていないということです。

「信長には保守的な面もあった」という書き方なら特に異論はありません。人間の生活など90パーセントは保守的です。「コメかパンを食べて、日本語を話して、家で眠る」わけです。言語と食べ物はどうしても伝統重視にならざるを得ないわけで、およそ革新的人物と言っても、朝から晩まで非常識な行動をとり続けるわけはありません。もっとも信長は家で寝てません。晩年は天主で寝てました。さらに東大の金子拓さんの「戦国おもてなし時代」によれば、「膳のあり方」も信長は簡略化する方向に変えてしまったとこのことで、信長は実は食事の形態も変えてしまったようです。

「保守的側面もあったが、それに収まらない側面もあった」とこう論じるべきだと考えます。保守的という言葉が「政治性を帯びすぎる」のなら、常識的側面もあったが、非常識な側面もあったということです。「戦争ばかりしている」などはそういう非常識な側面でしょう。最近は「信長は革新的ではない。検地をしない。全部武将に丸投げだった」なんて論じ方をする人もいます。だとしたら、相当「非常識でいい加減な異常な人間」ということになります。義昭に言われて「はいそうですか」と京に上るのも異常ですし(そんな大名他にいない)、官位を辞退し、二位は保つものの、がんとして朝廷の官につかないのも異常です。信長はどの人間とも同じように、多くは伝統(言語とか食事とか所作とか)に基づいて生活していたと思います。しかし異常な面もあった。そしてその異常性こそ信長を読み解くキーになると考えています。同時代人の中に埋没できない過剰な何かが信長にはあるように思えます。そうした異常な側面と常識人としての側面を併せて勘案し、信長像を構築していく必要を感じます。それはおそらく「革新性」にはいきつきません。「非常識」「異常」といった面にいきつく可能性が高いと思います。

そうすると磯田道史さんが「英雄たちの選択」で言った「あいつはとんでもないサイコパスだ」という言葉が魅力的に思えてきます。信長は一向宗を皆殺しにしたあと、手紙を書きます。内容は「皆殺しにしてやったぜ。長年のうっぷんが晴れた。いい気分だ。」というもので「いい加減にしろよ」とも思えてきます。一向宗には「家族」も多く殺されていて、負けてばかりだったので、こうなるのですが、それにしても「なんだかな」です。サイコパスとすると「常識人に自分を偽装する」のも得意だったことになり、色々説明がつくような気もします。(むろんこれは半ば冗談で言っています)