浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。
軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。
「勝てぬ戦でもありますまい」
信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。
「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。
なんだ、織田家という家は、、、。
家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退けた。
信長は、すでに立ち去ろうとしている。自分など眼中にもないようだ。
この態度だ、、、この態度が長政を怒らせたのだ。われらは国人領主から成りあがった小大名に過ぎぬ。信長はこの傲慢な態度で長政にも接していた。
人の心が読めぬ大将。これが信長の限界だ、、、そう家康は思った。
「織田殿、待ってもらおう」家康がそう発すると、信長は体を半分ほど家康に向けた。
「織田殿、謝ってもらいたい。こんな遠地までわれらを呼び寄せて、その態度はなんだ。その傲慢な態度が長政を怒らせたのだ。」
信長は不思議な表情で家康の言葉を聞いていた。それからふっと笑った。
「竹千代、長政はそちほど心が細くはないわ。やつはやつなりに損得を考えたのだ。あいつは俺に似ている。俺を倒して、俺にとって代わろうとしているのよ。あいつはそういう大きな男だ」
「信長、貴様」、小さな男と言われた家康は激高した。信長は赤子をあやすような声で、「竹千代、今は謝っている暇もない。さあ、逃げよう。死ぬなよ、竹千代」と言った。
家康一人が激高している。さすがに恥ずかしくなった。信長はそのまま速足で去った。
織田家の諸将も去り、秀吉、光秀、家康だけが残った。家康には確かめたいことがあった。なぜ秀吉と光秀は平然としているのだ。それが知りたい。
そんな家康とは関わりなく、二人はもういかに退くかを早口で話しあっている。秀吉が家康に気が付き「何をしておられる。家康殿もはよう逃げられよ」と言った。
家康は早口で、死命を受けても平然としている秀吉と光秀が理解できないからだと言った。
「まあもともとですから」と秀吉は答える。光秀はそれにうなづいている。信長に拾われなければ、とっくにどこかでのたれ死にしていた。死んでも「もともと」なのだ。そういうことを秀吉は特に気負い込むでもなく、平然と言った。
忠義とは違った心持ちだろう。無常観とも少し違う。自分はいつ死んでも当然な人間。家康は見たこともない人間に出会った気がした。
「私も十兵衛もそういう地獄のような若き時を生きてきたのだ。さっ、分かったならもう逃げろ」
家康は思わず震えた。この二人の静かに湧き出てくる凄みはどうであろう。その「地獄」とやらを家康は知らない。今は聞く時でもない。しかし家康が想像する以上に悲惨な日々だったに違いない。
自分は人質だった。しかし今川では大事に育てられた。食べるものに困ったこともない。
この時家康は、この小男と切れ者顔の男には一生勝てないような気がした。そしてこの男たちを家来にしている信長とは何者かと考えた。途方もない怪物ではあるまいか。おれは、この男たちを越えていかねばならないのか。おれに、それができようか。この凄みが自分の身につく時がくるだろうか。
いや違う、人には持って生まれた性質がある。おれは彼らとは違う。おれにも生きるための武器があるはずだ。
おれは人を裏切らない、いや氏真を裏切ったのか。いやあれは氏真が松平に助力をしなかったせいだ。助力しない大大名など国人領主に必要ない。
おれは律義者だ。そうだそれしかない。この律儀な性格で諸将の信頼を買うしかないのだ。信長には信長の、光秀には光秀の、秀吉には秀吉の道がある。
おれはおれの道を行くほかない。
それからふいに「藤吉郎殿、光秀殿、わしもしんがりに加えてくれ」と言った。言ったあとですぐ後悔した。でもこれでいい。命をかけても、人々の信頼をかうのだ。家康はそう思った。
了。
軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。
「勝てぬ戦でもありますまい」
信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。
「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。
なんだ、織田家という家は、、、。
家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退けた。
信長は、すでに立ち去ろうとしている。自分など眼中にもないようだ。
この態度だ、、、この態度が長政を怒らせたのだ。われらは国人領主から成りあがった小大名に過ぎぬ。信長はこの傲慢な態度で長政にも接していた。
人の心が読めぬ大将。これが信長の限界だ、、、そう家康は思った。
「織田殿、待ってもらおう」家康がそう発すると、信長は体を半分ほど家康に向けた。
「織田殿、謝ってもらいたい。こんな遠地までわれらを呼び寄せて、その態度はなんだ。その傲慢な態度が長政を怒らせたのだ。」
信長は不思議な表情で家康の言葉を聞いていた。それからふっと笑った。
「竹千代、長政はそちほど心が細くはないわ。やつはやつなりに損得を考えたのだ。あいつは俺に似ている。俺を倒して、俺にとって代わろうとしているのよ。あいつはそういう大きな男だ」
「信長、貴様」、小さな男と言われた家康は激高した。信長は赤子をあやすような声で、「竹千代、今は謝っている暇もない。さあ、逃げよう。死ぬなよ、竹千代」と言った。
家康一人が激高している。さすがに恥ずかしくなった。信長はそのまま速足で去った。
織田家の諸将も去り、秀吉、光秀、家康だけが残った。家康には確かめたいことがあった。なぜ秀吉と光秀は平然としているのだ。それが知りたい。
そんな家康とは関わりなく、二人はもういかに退くかを早口で話しあっている。秀吉が家康に気が付き「何をしておられる。家康殿もはよう逃げられよ」と言った。
家康は早口で、死命を受けても平然としている秀吉と光秀が理解できないからだと言った。
「まあもともとですから」と秀吉は答える。光秀はそれにうなづいている。信長に拾われなければ、とっくにどこかでのたれ死にしていた。死んでも「もともと」なのだ。そういうことを秀吉は特に気負い込むでもなく、平然と言った。
忠義とは違った心持ちだろう。無常観とも少し違う。自分はいつ死んでも当然な人間。家康は見たこともない人間に出会った気がした。
「私も十兵衛もそういう地獄のような若き時を生きてきたのだ。さっ、分かったならもう逃げろ」
家康は思わず震えた。この二人の静かに湧き出てくる凄みはどうであろう。その「地獄」とやらを家康は知らない。今は聞く時でもない。しかし家康が想像する以上に悲惨な日々だったに違いない。
自分は人質だった。しかし今川では大事に育てられた。食べるものに困ったこともない。
この時家康は、この小男と切れ者顔の男には一生勝てないような気がした。そしてこの男たちを家来にしている信長とは何者かと考えた。途方もない怪物ではあるまいか。おれは、この男たちを越えていかねばならないのか。おれに、それができようか。この凄みが自分の身につく時がくるだろうか。
いや違う、人には持って生まれた性質がある。おれは彼らとは違う。おれにも生きるための武器があるはずだ。
おれは人を裏切らない、いや氏真を裏切ったのか。いやあれは氏真が松平に助力をしなかったせいだ。助力しない大大名など国人領主に必要ない。
おれは律義者だ。そうだそれしかない。この律儀な性格で諸将の信頼を買うしかないのだ。信長には信長の、光秀には光秀の、秀吉には秀吉の道がある。
おれはおれの道を行くほかない。
それからふいに「藤吉郎殿、光秀殿、わしもしんがりに加えてくれ」と言った。言ったあとですぐ後悔した。でもこれでいい。命をかけても、人々の信頼をかうのだ。家康はそう思った。
了。