歴史とドラマをめぐる冒険

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日本で10番目にわかりやすい「権門体制論」の説明

2022-01-23 | 権門体制論
権門体制論の提唱者は黒田俊雄さんで京都大学出身、大阪大学教授です。提唱した年は1963年。昭和38年です。40歳ぐらいでした。終戦時に22歳だった方です。戦前に教育を受けました。黒田氏の思想を知るために重要なので以下だけは、ウィキペディアからコピーします。

黒田氏は、戦後の良心的歴史学者の天皇制解明の重点は、天皇の神性の否定や、社会構成史の観点からの天皇権力の断絶の説明であったとし、しかしそれだけでは彼等(天皇)の詐術を断ち切ることはできないと主張。そして「歴史上の天皇は、ときに生身の実権者であり、ときに権力編成の頂点であり、ときに精神的呪縛の装置であった。」とし、この三つの諸側面を適宜入れ替え組み合わせてきたことが、天皇制を操作してきた権力の真実であり、現代でも詐術師たちは、自分ではこれを使い分けながら、あえて混同させて人々を欺いていると日本共産党の機関紙『赤旗』にて主張した。(コピー終わり)

えっ、そういう思想を持った人が、一見すると「天皇が日本の中心だった」ともとれる「権門体制論」を主張したのかと驚く方もいると思います。私が黒田氏を知ろうと思ったきっかけも、「なぜ」という驚きでした。ただし上記の説明は一部間違っています。が、難しくなるのでそれは述べません。

なお私は歴史学のド素人で、これはあくまで黒田氏の1963年の「日本中世の国家と宗教」という「論文のまとめ+多少の私の意見」に過ぎないものです。実際はこの論文を読んでご確認ください。さらにこの論文が正しいか否かは「歴史学者」以外に判定することは不可能ですが、私たち素人が、自らの限界を知りつつ意見を持つこと。それは自由だし大切だと思います。

権門とは「中世の有力な、公家・寺社・武家」です。権門の力の源は「荘園」です。荘園を持っていないと権門ではありません。したがって荘園制の終わりと共に日本には権門はいなくなります。
徳川家康は権門より強大な力を持っていましたが、すでに荘園制がほぼオワコン(衰弱)なので、権門ではなく、権力者、支配者です。ここは厳密に区別しないとならないと私は思います。ここを混同して織田信長にまで「あてはめて」叙述する歴史学者が「一部」いるので「わけがわからなく」なるのです。権門体制は黒田氏の考えでは院政期、12世紀にはじまり、荘園制の「衰退」で終わります。黒田氏の考えでは、終わりは「応仁の乱終了時」です。荘園はまだ残っていましたが、衰退し、もはや権門の力の源になることはできなかったのです。権門は喧嘩したり協調したりしながら、政治、宗教、武力という自分たちの得意分野を駆使して「相互補完」(おぎないあい)しながら権力を行使しました。現在の歴史学者が極めてよく使う「相互補完」という言葉は「権門体制論」の用語です。「相互補完」したのは、黒田氏の考えでは、3つの権門は不得意分野があり、他の権門を完全に滅ぼすわけにはいかず、実際それほどの力も1つの権門だけでは持てなかったからです。こっから私見ですが、彼らは別に「権門体制を作ろう!」とか思って行動したわけではないので、滅ぼせるなら滅ぼしたい(黒田氏も専断することは不可能とした上で、専断したいという気持ちを持つ可能性自体は否定していないように読めます)わけですが、できないわけです。「相互補完していた」のではなく、「相互補完するしかなかった」のです。

天皇や院政を行った上皇は、荘園領主(権利者)ですから「権門」です。公家権門です。ただし天皇は、ここがすごーく難しいのですが、現実的な力を持っていないことによって、権門たちの「調整役」を担っていました。「表看板」「かつがれた神輿」「権威ある審判」、どう表現しても説明できません。もっとも黒田氏の考えに近いのは「無力で透明な公として私的集団である権門に公の御旗をさずける存在、しかし実際に彼らが公になるわけではない」「そして利害の調整役、ただし調整は権門が調整しろと申請することによってのみ可能となる」です。よく「権門の頂点」と説明されますが、違います。それでは天皇が現実的な力を持っていたと誤解されてしまう。たしかに「頂点」という言葉を使っているのですが、違うのです。天皇は形式的存在で無力。それを黒田氏はくどいほど強調しています。「頂点」という言葉だけを切り取ってしまうと、黒田氏の認識は到底理解不可能となります。

あえて単純化すると「現在の日本」を考えればわかるかも知れません。「現実的な力がないから権威が持てて、権力者を公認できる」のです。天皇の「みかけの力」の源泉は権門でした。実際に政治を動かしていたのは上皇、摂関家、幕府などの権門ですが、「自分たちの命令は天皇の意思である」という形で命令しました。幕府の場合は天皇の代理人である将軍の意思であると説明しました。いや、天皇が実際の力を持ったこともあるではないか、という質問には、今の私の力では回答できません。黒田氏は「中世にはない、それはみかけの力だ」と考えたと思います。ただし天皇も荘園を持っていましたから、私人としては権門です。一権門の力程度は持っていたと書いてあるように読めます。天皇は「王家」から輩出されて「公的存在」となります。しかし、王家は公的存在ではない。武家も寺社も公家も公的存在ではない。公家から摂政が出ても、摂政は摂政であろうと公的存在ではない。その本質は権門で、摂政をやめても権門です。私的権力は保ち続けます。権門は私的組織。摂政や将軍になろうと実質はあくまで私的な権門である。この多少込み入った論理を読み取れないと、この論文を理解することは不可能です。そして私自身も、半分ぐらいしか理解できていないのです。

ああ、あまりに「説明不足」です。この天皇の位置についてさえ「わかりやすく」説明することは今はできません。もっと勉強します。

権門は律令制の外の公的ではない、私的な集団です。(黒田氏は私的な組織と書いています)荘園という(公認されたと見せかけている)私有地の領主です。黒田氏の考えでは公家もそうです。上皇もそうです。しかし権力を行使して政治を行う場合には「公的な性格」を持っているかのように思わせなくてはなりません。そう思わせるが「天皇のお墨付き」なのです。ただし天皇は権門の意見に逆らうことはできません。できますが、そうすると天皇を別の皇族に変えられてしまいます。平清盛のこと?と言われそうですが、おもに上皇のことです。摂関家も天皇を変える力を有したことがあります。「愚管抄」でも慈円は「変えた」と書いています。寺社はちょっと特別なので、ここでは説明しません。寺社の力の説明こそ、黒田氏の真骨頂で、とても長く、解読できていません。

今日はここまです。やはりまだ十分に「わかりやすく正確に」説明することはできません。「権威」「荘園」の使い方もこれじゃあだめ。もっと勉強します。


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