「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。史実に「少しぐらいは」基づいています。
1176年頃、源氏挙兵の4年前、伊豆に「スケ殿」と呼ばれる流人がいました。源頼朝(大泉洋)です。最後の官職が右兵衛権佐だったので「佐殿=スケ殿」と呼ばれていたのです。伊豆に流されてもう16年が経っていました。すでに29歳です。16年前の平治の乱で父の義朝が討たれ、死刑になるところを平清盛の義母に助けれられ、伊豆に流されたのです。監視役は伊東祐親(辻萬長)という地元の有力武士です。しかし16年も経っていますから、監視といっても緩いものでした。お経を読むことが課されていたのですが、比較的自由に弓の稽古などもしていました。「巻狩り」などにも参加して、地元の若い武士と交流も持っていました。憎めない愛されキャラで女好き、地元では人気者で通っていました。
ここに、都に憧れる二人の女子がいます。北条政子(小池栄子)と伊東八重(新垣結衣)です。二人は地元の「荒くれた武士」たちが嫌いで、都の貴族と結婚したいと夢見ていました。貴族といえばスケ殿ぐらいしかいませんが、八重は積極的、政子は「スケ殿はどうも女にだらしがない」と思っています。結局、頼朝は八重と結ばれます。これに涙したのが八重に憧れていた北条義時(小栗旬)です。義時の母も伊東家の生まれで、八重は「おばさん」なのですが、八重と伊東祐親に血のつながりはなく「養女」なので、八重と義時も血のつながりはなく、義時は美しい八重に恋していました。
八重と頼朝の間には子が生まれますが、これを知った伊東祐親は激怒します。生まれた子は死んだことにして養子に出されます。八重も「身を投げて死んだ」ことにされ、北条に匿われました。やがて義時と八重は結ばれ、生まれた子供が後の「北条泰時」です。なおこの時、北条義時は北条家の人間ではなく、江間に養子に出ていました。ですから名前はまだ江間小四郎義時です。小四郎と呼ばれていました。
伊豆に知恵者がいました。義時の兄の宗時(片岡愛之助)です。「平家の世はいつか終わる。その次は源氏の世だ。いや俺たちの世だ」と考えていました。そこで頼朝と血縁を結んでおこうと思います。そのころ、頼朝は八重と別れ落ち込んでいました。そこへ嫌がる政子を世話係として派遣します。やがて頼朝と政子は結ばれました。
さて、都では平清盛(松平健)がこの世を謳歌していました。「平家でなければ人ではない」と言われます。そもそもこれほど清盛が出世したのは、武力の実力もさることながら、後白河法皇(西田敏行)の「推し」だったからです。後白河法皇は自由人で、そもそも天皇になる予定もなかった人です。好きになったら止まらないタイプで、当時のJPOP=今様が大好き。歌い過ぎて喉を傷めたり、歌詞集(梁塵秘抄)を作って喜んだりしていました。清盛とは持ちつもたれつ「おぬしもワルよのう」という関係でした。清盛の異常な出世は藤原氏などの反感を買います。すると後白河法皇は自分のひいじいさんである「白河法皇が清盛の父だ」とすればいいと思います。「さすがにそれはない」と清盛は思いましたが「まあいいか」と乗ることにします。
ところが1180年になると、清盛と後白河の関係は色々あって悪化していました。清盛が後白河を幽閉し、これに怒った後白河の息子、以仁王が「平家を討て」と「令旨」を発します。源行家(杉本哲太)は食えない男で、実は「おれが源氏を仕切る」と思っているのですが、なにせ庶流です。そこで「へたれのスケ殿」を担いで「かいらい」とし、平家を倒そうと思います。そして以仁王の命令書を持って伊豆にやってきました。
驚いたのはスケ殿です。「なんで持ってくるかなー」と思います。伊豆にきてもう20年も経っています。政子と結婚し、子供も生まれ、やれやれと思っていたら源行家(叔父)の訪問です。「命令書を読んでしまった」ので、もう平家に討たれる運命が見えています。「やられる前にやりかえす」と叫んだものの、自信は全くなく、家来と言えば足立盛長(野添義弘)ら数人です。ここは北条に頼るしかないのですが、宗時を見ると「無理だ」という顔です。政子の父の北条時政(坂東彌十郎)はやや芝居がかった男で、「こうなれば仕方なし」「しかし声をかければ500騎は集まる」と言っています。しかし実際に北条が集めたのはわずか50騎でした。「えー話違うじゃん」と頼朝は思いますが、もう後へは引けません。なんとか集まった300騎で、平家の代官ヤマキを襲い、これは成功します。しかし思ったように兵は集まりません。
梶原景時(中村獅童)という武将がいました。鎌倉武士には珍しく歌の教養などがあります。北条宗時は彼を味方に引き入れようとしていました。しかし梶原は大庭景親とは親戚だったため、平家軍に加わります。ヤマキを襲った後、頼朝は「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親など平家軍にコテンパンにやられます。山中に潜んだ頼朝に追手が迫ります。ここで梶原景時は頼朝を発見しました。しかし北条宗時の言葉を思い出し、彼は頼朝を見逃します。梶原はやがて鎌倉幕府の重臣となっていきます。梶原は頼朝を知っていました。おかしな男だと思っていたものの「弓の技能」を見て「ひとかどの武士かも」と思ってもいたのです。
頼朝は千葉に逃げます。この間、北条では宗時が討たれてしまいます。しかし義時は江間小四郎のままでした。父の北条時政は、貴族の出の「牧の方」がいずれ男子を産めば、その子を北条の嫡男にしようとしていたのです。義時は優しいだけが取り柄のような男で、期待できないと思っていたのです。義時はその方が楽だとも考えます。
千葉では千葉常胤や上総広常(佐藤浩市)が加わります。特に上総広常らの軍団は公称2万騎(実際は千騎ぐらい)と言われる大軍団でした。自然、上総広常が事実上の大将のような位置につきます。頼朝は血筋などを強調して威を張り、上総広常に対向しようとしますが、全く通じません。自分を見直すかと思って「帰れ!」というと「では帰ります」となってしまいます。頼朝は足にすがるようにして上総広常を引き留めます。とにかくその「圧」の前に頭が上がりません。北条などは50騎程度の伊豆の小者で、もちろん軽く見られていました。時政は悔しがりますが、義時は何も感じません。権力欲とは無縁の男でした。
義時は上総広常に興味を持ちます。広常は義時に言います。「お前の親父は政子殿を大将に嫁がせ、その子を大将にしようとしているのだろう。だが間違ってはいけないぜ。坂東は坂東武者のものだ。武家の棟梁なんていらねえのよ。坂東を治めるのはおれたちだ。おれたちの中で一番強いやつが大将になればいいのさ」。義時は「ふーん」と思って聞いていました。その言葉の意味が分かるのは、はるか先の話でした。「ところでお前の家はなんだい?平氏だったな」「いや、よく分からないんですよ。一応桓武平氏になってるみたいですが、系図もないし」「なんだい、偽平氏かい」と言って上総広常は笑いました。
さて源頼朝ですが、この後鎌倉に拠点を定めます。富士川の戦いで平氏の追討軍を破った頼朝は、このまま「都に攻め込む」と宣言します。しかし上総広常に「ふざけたこと言ってんじゃねえ。坂東の地固めが優先だろ」と一喝されてしぼみます。広常の言い分は正しいものでしたが、御家人たちの間には、その不遜な態度に不満が高まります。北条時政と梶原景時はその不満を背景に、上総広常の排除を考えるようになっていました。(以上)
1176年頃、源氏挙兵の4年前、伊豆に「スケ殿」と呼ばれる流人がいました。源頼朝(大泉洋)です。最後の官職が右兵衛権佐だったので「佐殿=スケ殿」と呼ばれていたのです。伊豆に流されてもう16年が経っていました。すでに29歳です。16年前の平治の乱で父の義朝が討たれ、死刑になるところを平清盛の義母に助けれられ、伊豆に流されたのです。監視役は伊東祐親(辻萬長)という地元の有力武士です。しかし16年も経っていますから、監視といっても緩いものでした。お経を読むことが課されていたのですが、比較的自由に弓の稽古などもしていました。「巻狩り」などにも参加して、地元の若い武士と交流も持っていました。憎めない愛されキャラで女好き、地元では人気者で通っていました。
ここに、都に憧れる二人の女子がいます。北条政子(小池栄子)と伊東八重(新垣結衣)です。二人は地元の「荒くれた武士」たちが嫌いで、都の貴族と結婚したいと夢見ていました。貴族といえばスケ殿ぐらいしかいませんが、八重は積極的、政子は「スケ殿はどうも女にだらしがない」と思っています。結局、頼朝は八重と結ばれます。これに涙したのが八重に憧れていた北条義時(小栗旬)です。義時の母も伊東家の生まれで、八重は「おばさん」なのですが、八重と伊東祐親に血のつながりはなく「養女」なので、八重と義時も血のつながりはなく、義時は美しい八重に恋していました。
八重と頼朝の間には子が生まれますが、これを知った伊東祐親は激怒します。生まれた子は死んだことにして養子に出されます。八重も「身を投げて死んだ」ことにされ、北条に匿われました。やがて義時と八重は結ばれ、生まれた子供が後の「北条泰時」です。なおこの時、北条義時は北条家の人間ではなく、江間に養子に出ていました。ですから名前はまだ江間小四郎義時です。小四郎と呼ばれていました。
伊豆に知恵者がいました。義時の兄の宗時(片岡愛之助)です。「平家の世はいつか終わる。その次は源氏の世だ。いや俺たちの世だ」と考えていました。そこで頼朝と血縁を結んでおこうと思います。そのころ、頼朝は八重と別れ落ち込んでいました。そこへ嫌がる政子を世話係として派遣します。やがて頼朝と政子は結ばれました。
さて、都では平清盛(松平健)がこの世を謳歌していました。「平家でなければ人ではない」と言われます。そもそもこれほど清盛が出世したのは、武力の実力もさることながら、後白河法皇(西田敏行)の「推し」だったからです。後白河法皇は自由人で、そもそも天皇になる予定もなかった人です。好きになったら止まらないタイプで、当時のJPOP=今様が大好き。歌い過ぎて喉を傷めたり、歌詞集(梁塵秘抄)を作って喜んだりしていました。清盛とは持ちつもたれつ「おぬしもワルよのう」という関係でした。清盛の異常な出世は藤原氏などの反感を買います。すると後白河法皇は自分のひいじいさんである「白河法皇が清盛の父だ」とすればいいと思います。「さすがにそれはない」と清盛は思いましたが「まあいいか」と乗ることにします。
ところが1180年になると、清盛と後白河の関係は色々あって悪化していました。清盛が後白河を幽閉し、これに怒った後白河の息子、以仁王が「平家を討て」と「令旨」を発します。源行家(杉本哲太)は食えない男で、実は「おれが源氏を仕切る」と思っているのですが、なにせ庶流です。そこで「へたれのスケ殿」を担いで「かいらい」とし、平家を倒そうと思います。そして以仁王の命令書を持って伊豆にやってきました。
驚いたのはスケ殿です。「なんで持ってくるかなー」と思います。伊豆にきてもう20年も経っています。政子と結婚し、子供も生まれ、やれやれと思っていたら源行家(叔父)の訪問です。「命令書を読んでしまった」ので、もう平家に討たれる運命が見えています。「やられる前にやりかえす」と叫んだものの、自信は全くなく、家来と言えば足立盛長(野添義弘)ら数人です。ここは北条に頼るしかないのですが、宗時を見ると「無理だ」という顔です。政子の父の北条時政(坂東彌十郎)はやや芝居がかった男で、「こうなれば仕方なし」「しかし声をかければ500騎は集まる」と言っています。しかし実際に北条が集めたのはわずか50騎でした。「えー話違うじゃん」と頼朝は思いますが、もう後へは引けません。なんとか集まった300騎で、平家の代官ヤマキを襲い、これは成功します。しかし思ったように兵は集まりません。
梶原景時(中村獅童)という武将がいました。鎌倉武士には珍しく歌の教養などがあります。北条宗時は彼を味方に引き入れようとしていました。しかし梶原は大庭景親とは親戚だったため、平家軍に加わります。ヤマキを襲った後、頼朝は「石橋山の戦い」で、大庭景親、伊東祐親など平家軍にコテンパンにやられます。山中に潜んだ頼朝に追手が迫ります。ここで梶原景時は頼朝を発見しました。しかし北条宗時の言葉を思い出し、彼は頼朝を見逃します。梶原はやがて鎌倉幕府の重臣となっていきます。梶原は頼朝を知っていました。おかしな男だと思っていたものの「弓の技能」を見て「ひとかどの武士かも」と思ってもいたのです。
頼朝は千葉に逃げます。この間、北条では宗時が討たれてしまいます。しかし義時は江間小四郎のままでした。父の北条時政は、貴族の出の「牧の方」がいずれ男子を産めば、その子を北条の嫡男にしようとしていたのです。義時は優しいだけが取り柄のような男で、期待できないと思っていたのです。義時はその方が楽だとも考えます。
千葉では千葉常胤や上総広常(佐藤浩市)が加わります。特に上総広常らの軍団は公称2万騎(実際は千騎ぐらい)と言われる大軍団でした。自然、上総広常が事実上の大将のような位置につきます。頼朝は血筋などを強調して威を張り、上総広常に対向しようとしますが、全く通じません。自分を見直すかと思って「帰れ!」というと「では帰ります」となってしまいます。頼朝は足にすがるようにして上総広常を引き留めます。とにかくその「圧」の前に頭が上がりません。北条などは50騎程度の伊豆の小者で、もちろん軽く見られていました。時政は悔しがりますが、義時は何も感じません。権力欲とは無縁の男でした。
義時は上総広常に興味を持ちます。広常は義時に言います。「お前の親父は政子殿を大将に嫁がせ、その子を大将にしようとしているのだろう。だが間違ってはいけないぜ。坂東は坂東武者のものだ。武家の棟梁なんていらねえのよ。坂東を治めるのはおれたちだ。おれたちの中で一番強いやつが大将になればいいのさ」。義時は「ふーん」と思って聞いていました。その言葉の意味が分かるのは、はるか先の話でした。「ところでお前の家はなんだい?平氏だったな」「いや、よく分からないんですよ。一応桓武平氏になってるみたいですが、系図もないし」「なんだい、偽平氏かい」と言って上総広常は笑いました。
さて源頼朝ですが、この後鎌倉に拠点を定めます。富士川の戦いで平氏の追討軍を破った頼朝は、このまま「都に攻め込む」と宣言します。しかし上総広常に「ふざけたこと言ってんじゃねえ。坂東の地固めが優先だろ」と一喝されてしぼみます。広常の言い分は正しいものでしたが、御家人たちの間には、その不遜な態度に不満が高まります。北条時政と梶原景時はその不満を背景に、上総広常の排除を考えるようになっていました。(以上)
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