義経勢力に対して頼朝追討の宣旨が出されたのは1185年です。
しかしそれはすぐに撤回され今度は「義経追討の宣旨」が出る。頼朝は北条時政に千人の兵を率いて上洛させ「後白河の失策につけこんで、自らの要求を認めさせ」ます。
それが1185年勅許。文治勅許といいますが、それでは歴史の流れが掴みにくい。頼朝の挙兵は1180年です。1185年勅許までたった5年。この「たった5年」という感覚が「文治勅許」では理解しにくいのです。元号に反対とか賛成とかいうことでなく「日本史の用語はわかりやすく」するべきだと思います。だから1185年勅許。
1185年勅許によって守護地頭の設置が認められた、、、となりますが、
そもそも現物はありません。「玉葉」の記事をもとに復元すると
1,五畿内、山陰、山陽、南海、西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与
2,荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米の徴収
3,田地知行の権限
となるようです。正直意味がつかみにくい。
ただこれとは別の史料で「守護地頭の設置を申し入れて許可された」というのもあり(後年の史料)、総合的に考えると「守護地頭の設置なんだろう」という感じになっていったようです。
今の段階では、ここでいう荘園公領とは「旧平家の支配地」だろう。「守護地頭」は後年の守護地頭ではなく、「国地頭」と言われる「惣追捕使」のことなんだろう、とされます。各国に「警察の支部」を置いて「その支部長を置く」、その支部長が「国地頭」です。守護に近い。大河ドラマでもはっきり「国地頭」と言っていました。ただし確定した説ではありません。
もっとも2は分かる。荘園公領から税金をとる権利です。これは画期的です。税金をとる権利ですから鎌倉幕府は国家そのものになります。今もそうですが、特に前近代において、「税金をとる」ことは、国家の最重要機能です。強大な権限で、これを与えることは「第二日本国」を認めるに等しい。あのシーン。後白河が目を回して終わり、でしたが、「幕府の日本」が誕生した瞬間ともいえるのです。
さて、では「地頭」(荘園公領の管理人、税金の分け前をぶんどることができる)はどうなるの、ということですが、「別に許可されなくても挙兵段階から占領地には勝手に地頭を置いていた」わけです。「いまさら許可される必要はない」のか「それでも許可を得ておいたほうがよい」のか、このあたりから「人によって解釈が分かれてくる」ところです。
つまり
・朝廷に許可してもらったのか。
・朝廷に許可させたのか。
ということ。大河ドラマでは「許可させた」「脅しが効いた」とされました。私もその解釈のほうがしっくりきます。
ここからは「解説風」はやめて「とことん私説」でいきますので、ご容赦ください。「正しい」と主張する気持ちはありません。「私はこう考える」ということです。文体も「ですます体」はやめます。
源頼朝は「平将門」として京政権に意識された。それがこの1185年勅許のたった5年前である。頼朝は挙兵するや、占領地の利権を配下に与えはじめた。もちろん京都政権の許可など得ていない。頼朝は「反乱軍」であったし、この後も「反乱軍としての優位さ」を利用し続けた。「幕府」という呼称は一般ではなかったが、自分たちは「幕」にいる、つまり戦争時のテント(幕)=戦争状態の中にいるという意識はもち続けた。「戦争時においては将軍は天子の判断を仰がなくてよい」、中国の古典にあるこの考えを、頼朝は最大限利用した。例えば「奥州出兵」に後白河は反対したが、頼朝は無視した。
1185年勅許は画期的かつ革命的なものであった。衰えたとはいえ朝廷がもっていると「されて」いた、税金の徴収権を「一部もぎとった」のである。ただし全部ではない。公家(天皇上皇を含む)はその後も荘園のオーナーだったし、税金をとる権利を有していた。「武士は荘園利権の片隅に食い込んだに過ぎない」とも言われ、実際そうであった。荒っぽい手段で容赦なく税金を徴収する地頭も後を絶たなかった。ただし武士はどんどんこの利権を拡大していき、税金の取り立ても洗練?されていき、最終的には荘園そのものが消滅する。「複数の利権者」制ではなくなり、徐々に武士および大名に税の徴収権が一元化されていく。それが荘園の消滅である。それは室町後期から秀吉の時代のこととされる。
日本大学の関幸彦教授は「鎌倉殿誕生」(2022年新装版)のなかで、この1185年は「王権の危機」「王朝の危機」だったと書いている。つまり頼朝は、認められないなら王朝を倒す気であったということである。これは「京都中心史観」を奉じる人々にとっては「なんとしても無視したい」説であろう。頼朝は王朝の理解者であり、王権の一部を分与されたに過ぎない、「王朝の侍大将」である。実際、そのようなことを後年、後白河院に会った時、頼朝は言っているではないか。
つまり日本の政治権(大政)は武士に「委任」されたに過ぎない。潜在的には京都政権のものである。これは江戸時代後期の国学者たとえば、塙保己一らが唱えた説である。大政委任があるから「大政奉還」がある。そういいたい気持ちがわからないではない。
またあまりに坂東武者の力が顕彰されるような歴史認識に修正を図りたい、「京武者だって存在するぞ。京都を見ないのは片手落ち」という熱情が分からないわけでもない。(京武者なんて、用例は1つしかないし、それも単に「京都方面にいた武者」という意味に過ぎないらしいが)
しかしおそらく「あの井伊直弼の時代」(幕末)ですら、大政が委任されていると幕閣は考えていなかった。井伊は勅許を得ずに条約を結んだが、そもそもそれ以前に幕府が結んだ条約には勅許など出ていない。「大政委任」というのは一種の「すりこみ」である。皇国史観の残り火ではないだろうか。
頼朝に大政を委任してもらう必要はなかった。彼は反乱軍で自力で占領地を勝ち取ったのである。後白河は平家、木曽義仲、源義経と三度に渡って、頼朝討伐の命令を下している。たった5年間に三度である。どうしてそんな相手に「乞う」必要があるのか。「吾妻鏡」を読む限り、頼朝の後白河に対する態度は極めて丁重だが、そもそも後代の史料であるし、頼朝の社交辞令をそのまま鵜呑みにするわけにはいくまい。
後白河院は優れた政治家なのかも知れない。この「王朝の危機」を瞬時に見抜いたように思える。彼は簡単に勅許を与え、それ以前に義経追討の宣旨も出している。「朝令暮改」と馬鹿にされる所以であるが、この「定見のなさ」によって王朝は生き残った。以来「定見を明らかにしないこと」が王朝生き残りの秘訣になっていく。と言いたいところだが、この祖父の政治眼が孫の後鳥羽上皇にはなかった。それが「承久の乱」における王朝の敗北につながっていく。もう一人、定見を明らかにした天皇がいる。後醍醐である。それゆえに後醍醐は戦前の皇国史観に依拠する政府によって顕彰され、彼に逆らった足利尊氏は極悪人とされた。極悪人の始祖が「源頼朝」「北条義時」とされた。しかし、後醍醐が依拠した「南朝」は結局は滅んでしまった。これは形式上だけでなく実質もそうで、今の天皇家は「北朝」である。(正統論争は意味をなさないが)
ともかく王朝は生き残った。室町以降は官位の認定機関となり、それが最大の政治機能だった。ただし官位の認定は幕府の推挙のもとに行った。
後白河との戦いに勝利した頼朝(鎌倉幕府)は、「天下草創」を宣言する。それは「革命」以外のなにものでもなかった。
むろん黒田が権門体制論で主張したように、歴史は武家によってのみ作られるわけでない。公家は荘園のオーナーであり続けた。寺社勢力は何の傷も受けなかった。さらに網野のアジール論を加えるなら、「無縁の人々」も社会を底辺から動かしていた。
ただ私にはやはり「公家から武士へ」という「古い図式」が、基本的に間違っているとは思えないのである。つまり新しい説に魅力や説得力を感じられないのである。
補遺
それにしても、挙兵から「たった5年」で、なぜこのような政治が頼朝にできたのか。伊豆の流人に過ぎない男に。
それにはやはり大江広元以下の「文官」の存在が大きいだろう。鎌倉幕府は文官を積極的に起用した政権であった。武士の中には文字さえ書けないものが多かったからだ。
これら「京下りの下級貴族」たちは、京育ちゆえに「京都政権のていたらく」がよくわかっていた。なにしろ国司さえ地方に派遣せず、目代(代理人)を派遣して、それが統治だと思っているのである。すでに「ただ地方から税金を吸い上げる機関」に堕落して久しかった(と私は認識している)。
鎌倉の文官の主な目的は「一旗揚げよう」という野心であったろうが、「理想に燃える」側面が全くなかったとは言えないだろう。彼らは日本国を立て直そうとした。北条義時の次の執権である北条泰時の段階で、すでに「善政」「民政」への志向がみられるのは、泰時の優れた資質ばかりでなく、この文官たちの「理想」が影響しているのかも知れない。もっとも鎌倉地頭の多くには「民政」などという志向はなく、理解も不可能らしく、「勝手をしている様」が「吾妻鏡」からは読み取れる。民政がある程度達成されるのは「室町後期」「戦国大名」の時代であり、さらに明確に意識されるのは江戸の中期以降であったと思われる。
しかしそれはすぐに撤回され今度は「義経追討の宣旨」が出る。頼朝は北条時政に千人の兵を率いて上洛させ「後白河の失策につけこんで、自らの要求を認めさせ」ます。
それが1185年勅許。文治勅許といいますが、それでは歴史の流れが掴みにくい。頼朝の挙兵は1180年です。1185年勅許までたった5年。この「たった5年」という感覚が「文治勅許」では理解しにくいのです。元号に反対とか賛成とかいうことでなく「日本史の用語はわかりやすく」するべきだと思います。だから1185年勅許。
1185年勅許によって守護地頭の設置が認められた、、、となりますが、
そもそも現物はありません。「玉葉」の記事をもとに復元すると
1,五畿内、山陰、山陽、南海、西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与
2,荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米の徴収
3,田地知行の権限
となるようです。正直意味がつかみにくい。
ただこれとは別の史料で「守護地頭の設置を申し入れて許可された」というのもあり(後年の史料)、総合的に考えると「守護地頭の設置なんだろう」という感じになっていったようです。
今の段階では、ここでいう荘園公領とは「旧平家の支配地」だろう。「守護地頭」は後年の守護地頭ではなく、「国地頭」と言われる「惣追捕使」のことなんだろう、とされます。各国に「警察の支部」を置いて「その支部長を置く」、その支部長が「国地頭」です。守護に近い。大河ドラマでもはっきり「国地頭」と言っていました。ただし確定した説ではありません。
もっとも2は分かる。荘園公領から税金をとる権利です。これは画期的です。税金をとる権利ですから鎌倉幕府は国家そのものになります。今もそうですが、特に前近代において、「税金をとる」ことは、国家の最重要機能です。強大な権限で、これを与えることは「第二日本国」を認めるに等しい。あのシーン。後白河が目を回して終わり、でしたが、「幕府の日本」が誕生した瞬間ともいえるのです。
さて、では「地頭」(荘園公領の管理人、税金の分け前をぶんどることができる)はどうなるの、ということですが、「別に許可されなくても挙兵段階から占領地には勝手に地頭を置いていた」わけです。「いまさら許可される必要はない」のか「それでも許可を得ておいたほうがよい」のか、このあたりから「人によって解釈が分かれてくる」ところです。
つまり
・朝廷に許可してもらったのか。
・朝廷に許可させたのか。
ということ。大河ドラマでは「許可させた」「脅しが効いた」とされました。私もその解釈のほうがしっくりきます。
ここからは「解説風」はやめて「とことん私説」でいきますので、ご容赦ください。「正しい」と主張する気持ちはありません。「私はこう考える」ということです。文体も「ですます体」はやめます。
源頼朝は「平将門」として京政権に意識された。それがこの1185年勅許のたった5年前である。頼朝は挙兵するや、占領地の利権を配下に与えはじめた。もちろん京都政権の許可など得ていない。頼朝は「反乱軍」であったし、この後も「反乱軍としての優位さ」を利用し続けた。「幕府」という呼称は一般ではなかったが、自分たちは「幕」にいる、つまり戦争時のテント(幕)=戦争状態の中にいるという意識はもち続けた。「戦争時においては将軍は天子の判断を仰がなくてよい」、中国の古典にあるこの考えを、頼朝は最大限利用した。例えば「奥州出兵」に後白河は反対したが、頼朝は無視した。
1185年勅許は画期的かつ革命的なものであった。衰えたとはいえ朝廷がもっていると「されて」いた、税金の徴収権を「一部もぎとった」のである。ただし全部ではない。公家(天皇上皇を含む)はその後も荘園のオーナーだったし、税金をとる権利を有していた。「武士は荘園利権の片隅に食い込んだに過ぎない」とも言われ、実際そうであった。荒っぽい手段で容赦なく税金を徴収する地頭も後を絶たなかった。ただし武士はどんどんこの利権を拡大していき、税金の取り立ても洗練?されていき、最終的には荘園そのものが消滅する。「複数の利権者」制ではなくなり、徐々に武士および大名に税の徴収権が一元化されていく。それが荘園の消滅である。それは室町後期から秀吉の時代のこととされる。
日本大学の関幸彦教授は「鎌倉殿誕生」(2022年新装版)のなかで、この1185年は「王権の危機」「王朝の危機」だったと書いている。つまり頼朝は、認められないなら王朝を倒す気であったということである。これは「京都中心史観」を奉じる人々にとっては「なんとしても無視したい」説であろう。頼朝は王朝の理解者であり、王権の一部を分与されたに過ぎない、「王朝の侍大将」である。実際、そのようなことを後年、後白河院に会った時、頼朝は言っているではないか。
つまり日本の政治権(大政)は武士に「委任」されたに過ぎない。潜在的には京都政権のものである。これは江戸時代後期の国学者たとえば、塙保己一らが唱えた説である。大政委任があるから「大政奉還」がある。そういいたい気持ちがわからないではない。
またあまりに坂東武者の力が顕彰されるような歴史認識に修正を図りたい、「京武者だって存在するぞ。京都を見ないのは片手落ち」という熱情が分からないわけでもない。(京武者なんて、用例は1つしかないし、それも単に「京都方面にいた武者」という意味に過ぎないらしいが)
しかしおそらく「あの井伊直弼の時代」(幕末)ですら、大政が委任されていると幕閣は考えていなかった。井伊は勅許を得ずに条約を結んだが、そもそもそれ以前に幕府が結んだ条約には勅許など出ていない。「大政委任」というのは一種の「すりこみ」である。皇国史観の残り火ではないだろうか。
頼朝に大政を委任してもらう必要はなかった。彼は反乱軍で自力で占領地を勝ち取ったのである。後白河は平家、木曽義仲、源義経と三度に渡って、頼朝討伐の命令を下している。たった5年間に三度である。どうしてそんな相手に「乞う」必要があるのか。「吾妻鏡」を読む限り、頼朝の後白河に対する態度は極めて丁重だが、そもそも後代の史料であるし、頼朝の社交辞令をそのまま鵜呑みにするわけにはいくまい。
後白河院は優れた政治家なのかも知れない。この「王朝の危機」を瞬時に見抜いたように思える。彼は簡単に勅許を与え、それ以前に義経追討の宣旨も出している。「朝令暮改」と馬鹿にされる所以であるが、この「定見のなさ」によって王朝は生き残った。以来「定見を明らかにしないこと」が王朝生き残りの秘訣になっていく。と言いたいところだが、この祖父の政治眼が孫の後鳥羽上皇にはなかった。それが「承久の乱」における王朝の敗北につながっていく。もう一人、定見を明らかにした天皇がいる。後醍醐である。それゆえに後醍醐は戦前の皇国史観に依拠する政府によって顕彰され、彼に逆らった足利尊氏は極悪人とされた。極悪人の始祖が「源頼朝」「北条義時」とされた。しかし、後醍醐が依拠した「南朝」は結局は滅んでしまった。これは形式上だけでなく実質もそうで、今の天皇家は「北朝」である。(正統論争は意味をなさないが)
ともかく王朝は生き残った。室町以降は官位の認定機関となり、それが最大の政治機能だった。ただし官位の認定は幕府の推挙のもとに行った。
後白河との戦いに勝利した頼朝(鎌倉幕府)は、「天下草創」を宣言する。それは「革命」以外のなにものでもなかった。
むろん黒田が権門体制論で主張したように、歴史は武家によってのみ作られるわけでない。公家は荘園のオーナーであり続けた。寺社勢力は何の傷も受けなかった。さらに網野のアジール論を加えるなら、「無縁の人々」も社会を底辺から動かしていた。
ただ私にはやはり「公家から武士へ」という「古い図式」が、基本的に間違っているとは思えないのである。つまり新しい説に魅力や説得力を感じられないのである。
補遺
それにしても、挙兵から「たった5年」で、なぜこのような政治が頼朝にできたのか。伊豆の流人に過ぎない男に。
それにはやはり大江広元以下の「文官」の存在が大きいだろう。鎌倉幕府は文官を積極的に起用した政権であった。武士の中には文字さえ書けないものが多かったからだ。
これら「京下りの下級貴族」たちは、京育ちゆえに「京都政権のていたらく」がよくわかっていた。なにしろ国司さえ地方に派遣せず、目代(代理人)を派遣して、それが統治だと思っているのである。すでに「ただ地方から税金を吸い上げる機関」に堕落して久しかった(と私は認識している)。
鎌倉の文官の主な目的は「一旗揚げよう」という野心であったろうが、「理想に燃える」側面が全くなかったとは言えないだろう。彼らは日本国を立て直そうとした。北条義時の次の執権である北条泰時の段階で、すでに「善政」「民政」への志向がみられるのは、泰時の優れた資質ばかりでなく、この文官たちの「理想」が影響しているのかも知れない。もっとも鎌倉地頭の多くには「民政」などという志向はなく、理解も不可能らしく、「勝手をしている様」が「吾妻鏡」からは読み取れる。民政がある程度達成されるのは「室町後期」「戦国大名」の時代であり、さらに明確に意識されるのは江戸の中期以降であったと思われる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます