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「権門体制論」「東国国家論」を学ぶ①・「王家」と「天皇」

2022-01-25 | 権門体制論
「武家と公家は対立せず相互補完」していた。現代の学者さんがよく使われる言葉ですが、これは昭和38年に黒田敏雄氏によって提唱された「権門体制論」を基にしています。支配階層=権門の「相互補完と対立」は権門体制論のキーワードです。私は「権門体制論」も「東国国家論」も学ぶべき偉大な概念だと思います。どっちを支持するという問題ではないと考えています。権門体制論はさまざまに解釈されていますが、ここでは黒田氏の「オリジナル権門体制論」のみを「権門体制論」と呼びます。

今回は「王家」と「天皇」の「オリジナル権門体制論」における位置づけを考えます。資料は黒田敏雄氏の「中世の国家と天皇」1963年、「中世天皇制の基本的性格」1977年です。

黒田氏によれば

1,権門とは権門体制期(院政から応仁の乱までの時期)における支配層であり、「私的領地である荘園に権力の源をもつ私的な組織」である。具体的には有力な公家、武家、寺家、王家である。この4つは対立と補完をしながら権門支配体制を構成する。王家は大きく捉えるなら公家権門に属する。従って権門とは公家、武家、寺家の3つである。

2,王家は治天の君、院宮、親王家、内親王家等の複合体である。王家は私的な組織である。したがって「権門」である。天皇のみが公的存在である。

(解説)
権門が荘園領主(私的領地の権利者)であり、従って権門の権力は「本質的に私的権力」だというのが黒田氏の考えと読み取れます。ここは極めて重要です。「王家」は正確には「権門体制論の考えに基づく王家」です。一般に使われる王家とは違います。史料に登場する「王家」とも違います。近代天皇制の「天皇家」「皇室」とも違います。

3,天皇は3つの側面を持つ。それは「権門」「国王」「帝王」である。権門としての天皇は私的存在と言っていい。公的権力の行使者として天皇を考える場合「国王」「帝王」となる。国王と帝王は同一人物の二つの側面。「公的権力者としての側面」「権威者としての側面」を指す。天皇は「制度上の代表者」であり、「国家権力と国政の実際上の掌握者」を意味しない。実際上の掌握者は権門である。

解説
「国王」「帝王」も権門体制論特有の意味で使われています。正確には「権門体制論の考えに基づく国王、帝王」です。ただし国王については、一般的意味に近い。つまり古今東西の国王のほとんどが「実際上の掌握者とはいえない」と黒田氏は考えています。

4,中世国家はその「国家的性格」が捉えにくい。権門体制論では権門体制が成立していた院政から応仁の乱までの、権門が支配した領域とそのシステムを「中世国家」と考える。

解説
中世に国家があったのかという認識は黒田氏も持っています。ただそれでは「中世国家」の解明ができない。そこで黒田氏は権門が支配する領域とシステムを中世国家としたのです。従って「中世国家」とは正確には「権門体制論の考えに基づく中世国家」です。

5,天皇は「中世の天皇」であって「古代の天皇」「近世の天皇」とは区別して考える必要がある。

6,天皇は私的権力である権門に、公的権威を与える。しかし権門はそれによって公的存在とはならない。権門は私的権力を公的に行使する。

7,権門体制は一様ではない。院政期に生まれ、室町期に衰弱していった。最終的には応仁の乱をもって権門体制は終わる。

8、私的権力である権門にとって、天皇は自らに公的な権威を与える存在である。従って、権門は天皇を支えた。公家は政治力で支えた。寺家は宗教的権威を与え帝王化した。武家は武力で支えた。それでも天皇自体に実質的な権力があったわけではない。公家権門の頂点である「治天の君」は意に添わぬ天皇を他の皇族に変えることができた。しかしこれは「治天の君」がただ一人の最高権力者であったことを意味しない。「治天の君」の権力は、寺家権力、そして武家権力によって掣肘されていたからである。


9,天皇は天皇である時は、国家権力と国政の実際上の掌握者ではない。制度に拘束される不自由で無力とも言える存在である。天皇を退位し、治天の君になれば公家権門の頂点に立つ。上皇となれば権門となる。

解説
武家は鎌倉期以降は政治力でも支えたと考えていいかも知れません。「6」の「私的権力を公的に行使」は私の用語です。「8」の治天の君に対する記述も私の解釈です。
黒田氏の言う「私的」「公的」の読み取りが難しいのは、黒田氏も言うように公私混交していたからです。しかしあえて黒田氏はそれを分けました。その意図を理解することが権門体制論を理解する「要」だと思われます。以上は「オリジナル権門体制論」の考え方であり、現代の学者が理解する権門体制論とは違う可能性があります。

蛇足
権門体制論につき以下のような説明があります。

「武家・公家・寺家の類似性に着目し、それら諸権門によって構成される秩序を天皇が総括するシステムを中世の支配体制と捉えた」

これは多少訂正が必要です。オリジナル権門体制論の考えによって訂正すると

「武家・公家・寺家の荘園領主(私的支配層)としての類似性に着目し、それら諸権門によって構成される支配(政治的・武力的・宗教的支配)を天皇が公的に代表するシステムを中世の支配体制と捉えた」

さらに蛇足

オリジナル権門体制論の考えで説明すれば、白河上皇は公家権門の頂点でした。多くの私的領地を寄進され(現代の研究によれば自ら荘園を構築し)広大な荘園をもち、それが白河院の私的権力の源でした。武家はまだ権門ではありません。寺家権門は存在します。権門の中では、白河院は最有力でしたが、寺家権門は公家権門とは「対立・相互補完」する存在でした。だから「山法師、比叡山はだけは手に負えぬ」と言ったのです。比叡山は寺家権門です。寺家権門は天皇を宗教的に権威づける存在です。白河院は元天皇です。自己の権威が寺家権門によって支えられていることを白河院は悟っていたのでしょう。

やがて武家権門が台頭し、平清盛がその頂点に立ちます。清盛登場後、「後白河院」にとっては寺家・武家の二つが「対立・相互補完」する対象となります。

中世を説明するとき「オリジナル権門体制論の用語」がいかに「便利」で「有能」か。驚くほどです。便利すぎるため、その思想的政治的性格を嫌う人間もツールとしては利用します。しかしどうしても「予定調和的権門体制論」になる傾向があります、オリジナルの権門体制論は、階級闘争は強調しませんが、権門間の闘争(支配層の権力闘争)は重視します。あの混乱と戦闘の時代である中世を「予定調和的権門体制論」では語れないと私は考えて、「オリジナルの権門体制論」を学んでいます。なお再び強調しますが、私は東国国家論も権門体制論も二つとも「学ぶべき偉大な論理」だと思います。

本日は以上です。