全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。
まず全体にどんなことを書くかというと、
・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。
・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。
・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。
・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。
1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていた
とまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。
全体としては後鳥羽の描き方は良かったと思うのですよ。バランスがとれていた。この世界には僕のように学者風に突き放して「後鳥羽」と書く人間もいれば、「後鳥羽上皇さま」と書く人間もいるわけでしょ。そういうどっちの人々にもさほど不満はでなかったと思います。「後鳥羽の顔を立ててやる」描写もちゃんと入ってました。最後だって自分は武を磨いてきたから先頭に立つと言ったわけでしょ。それを兼子さんに後白河の遺言を出されて止められる。藤原秀康は「兵は1万」と言ったけど、あとで「読み違え」と言ってますよね。実際は2000でしょう。これは上皇が流鏑馬の会と称して兵を募った時に集まった数です。その数が承久の乱でも実数となったでしょう。対して泰時の軍は「1万」とドラマで言っています。あと二部隊、朝時隊と武田隊がありますから総勢2万。それを吾妻鏡では約10倍にして19万。どっちにせよ朝廷軍の10倍です。後鳥羽が先頭に立っても逆転は望めません。上皇の「威」で寝返るぐらいならそもそも泰時軍に合流しないでしょう。天皇・上皇の「権威」は本地垂迹(地元の神と国家仏教が融合)の顕密仏教の「たまもの」なんですが、武士の心には「信じつつも逃れたい」という矛盾した心情があったと指摘されています。
圧倒的に不利だから、後鳥羽が先頭に立とうとした事実はないと思うけど、ドラマでは先頭に立とうとした。後鳥羽の顔も立ててやっているわけです。それに「立とうとしなかった」ということを証明することは難しいと思います。承久記では敗走した武士たちを門を閉ざして入れない後鳥羽の姿が描かれ「大臆病の君」と味方武士に罵倒されていますが、承久記はあくまで物語です。
2,「麒麟がくる」の正親町天皇の描き方は変だった
東大の金子拓さんは東大の「史料の専門家」なんですが、こう書いているのですね。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」
つまり天皇や朝廷は「縁故・コネ・自己都合」によって数少ない寺社関係の裁判を「不公平に」裁くのですね。それが常態だったんです。ところが信長は戦国大名だから一応「公平」という感覚を知っている。あと前に出した判決と整合性がないといけないとも思っている。それで天皇に注意するわけです。そうすると正親町は最初分からないのだけど、分かって驚いてパニックになる。で、息子を先頭に立てて隠れちゃって、信長に謝るわけです。(絹衣相論、興福寺別当職相論)
そういうこと知っていると、「ドラマは史実を描かなくてもいいけど」、あそこまで「天皇を美化」するのはいかにもおかしい。天皇は今もいる存在ですから、あんな嘘をついちゃいけない、そう思って違和感だけが残るのです。史実を描けとは言わないが、天皇に関してだけはあそこまでの嘘を描いていけない。そう思うということです。
それに比べて「鎌倉殿」の後鳥羽の描き方というのは、コメディタッチでデフォルメされてはいるものの「史実の本質」みたいのはちゃんと抑えていると思います。バランスがいいですね。
3,後鳥羽上皇はなぜ承久の乱を起こしたのだろう
それにしても分からないのは、上皇の動機です。作品でも学説でも「義時追討で鎌倉の不和を誘発し、北条を排除して、後鳥羽が主導権を握る」となっているのですね。でも別に朝廷は幕府から疎外されていなかったわけです。それどころか朝廷を構成する公家の荘園には地頭がいて、この地頭は税を公家に納めることになっていたのです。「納めないで着服する地頭」もいて、後白河なんかは頼朝に文句言うのですが、頼朝はあまり積極的には動かないけど「それはすみません。よくよく注意します」と返答するわけです。あまり動かないのですけどね。
武士の存在というのは税の徴収にとっては必要だったわけです。ある程度ちゃんと朝廷にも税を納めていた。なんでそこで満足しなかったのか。この辺りは荘園の問題になるので、素人には難しいのですが、考えてみたい問題です。
「義時追討」で引き起こされるのは鎌倉の混乱だけで「京に攻めてくる可能性」なんてちっとも考えていなかったのかも知れません。とにかくリスクの多い勝負に出過ぎであって、上皇の動機というのは一からちゃんと考え直してみるべきかなと思います。
天皇や上皇の描き方というのは、現代の歴史認識にも直接つながる問題だから慎重にならんといけないと思うわけです。もっともこういう感覚も僕ら世代の感覚で、今の若い人はまた全く違った感覚を持っているのかも知れません。とにかくその点において「鎌倉殿」は上皇や法皇を美化することなく、といって「おとしめる」こともなく、バランスのいい描き方をしたなと感心しています。
まず全体にどんなことを書くかというと、
・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。
・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。
・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。
・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。
1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていた
とまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。
全体としては後鳥羽の描き方は良かったと思うのですよ。バランスがとれていた。この世界には僕のように学者風に突き放して「後鳥羽」と書く人間もいれば、「後鳥羽上皇さま」と書く人間もいるわけでしょ。そういうどっちの人々にもさほど不満はでなかったと思います。「後鳥羽の顔を立ててやる」描写もちゃんと入ってました。最後だって自分は武を磨いてきたから先頭に立つと言ったわけでしょ。それを兼子さんに後白河の遺言を出されて止められる。藤原秀康は「兵は1万」と言ったけど、あとで「読み違え」と言ってますよね。実際は2000でしょう。これは上皇が流鏑馬の会と称して兵を募った時に集まった数です。その数が承久の乱でも実数となったでしょう。対して泰時の軍は「1万」とドラマで言っています。あと二部隊、朝時隊と武田隊がありますから総勢2万。それを吾妻鏡では約10倍にして19万。どっちにせよ朝廷軍の10倍です。後鳥羽が先頭に立っても逆転は望めません。上皇の「威」で寝返るぐらいならそもそも泰時軍に合流しないでしょう。天皇・上皇の「権威」は本地垂迹(地元の神と国家仏教が融合)の顕密仏教の「たまもの」なんですが、武士の心には「信じつつも逃れたい」という矛盾した心情があったと指摘されています。
圧倒的に不利だから、後鳥羽が先頭に立とうとした事実はないと思うけど、ドラマでは先頭に立とうとした。後鳥羽の顔も立ててやっているわけです。それに「立とうとしなかった」ということを証明することは難しいと思います。承久記では敗走した武士たちを門を閉ざして入れない後鳥羽の姿が描かれ「大臆病の君」と味方武士に罵倒されていますが、承久記はあくまで物語です。
2,「麒麟がくる」の正親町天皇の描き方は変だった
東大の金子拓さんは東大の「史料の専門家」なんですが、こう書いているのですね。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」
つまり天皇や朝廷は「縁故・コネ・自己都合」によって数少ない寺社関係の裁判を「不公平に」裁くのですね。それが常態だったんです。ところが信長は戦国大名だから一応「公平」という感覚を知っている。あと前に出した判決と整合性がないといけないとも思っている。それで天皇に注意するわけです。そうすると正親町は最初分からないのだけど、分かって驚いてパニックになる。で、息子を先頭に立てて隠れちゃって、信長に謝るわけです。(絹衣相論、興福寺別当職相論)
そういうこと知っていると、「ドラマは史実を描かなくてもいいけど」、あそこまで「天皇を美化」するのはいかにもおかしい。天皇は今もいる存在ですから、あんな嘘をついちゃいけない、そう思って違和感だけが残るのです。史実を描けとは言わないが、天皇に関してだけはあそこまでの嘘を描いていけない。そう思うということです。
それに比べて「鎌倉殿」の後鳥羽の描き方というのは、コメディタッチでデフォルメされてはいるものの「史実の本質」みたいのはちゃんと抑えていると思います。バランスがいいですね。
3,後鳥羽上皇はなぜ承久の乱を起こしたのだろう
それにしても分からないのは、上皇の動機です。作品でも学説でも「義時追討で鎌倉の不和を誘発し、北条を排除して、後鳥羽が主導権を握る」となっているのですね。でも別に朝廷は幕府から疎外されていなかったわけです。それどころか朝廷を構成する公家の荘園には地頭がいて、この地頭は税を公家に納めることになっていたのです。「納めないで着服する地頭」もいて、後白河なんかは頼朝に文句言うのですが、頼朝はあまり積極的には動かないけど「それはすみません。よくよく注意します」と返答するわけです。あまり動かないのですけどね。
武士の存在というのは税の徴収にとっては必要だったわけです。ある程度ちゃんと朝廷にも税を納めていた。なんでそこで満足しなかったのか。この辺りは荘園の問題になるので、素人には難しいのですが、考えてみたい問題です。
「義時追討」で引き起こされるのは鎌倉の混乱だけで「京に攻めてくる可能性」なんてちっとも考えていなかったのかも知れません。とにかくリスクの多い勝負に出過ぎであって、上皇の動機というのは一からちゃんと考え直してみるべきかなと思います。
天皇や上皇の描き方というのは、現代の歴史認識にも直接つながる問題だから慎重にならんといけないと思うわけです。もっともこういう感覚も僕ら世代の感覚で、今の若い人はまた全く違った感覚を持っているのかも知れません。とにかくその点において「鎌倉殿」は上皇や法皇を美化することなく、といって「おとしめる」こともなく、バランスのいい描き方をしたなと感心しています。