会員のつぶやき

愛知県司法書士会半田支部会員のつぶやきです

空港に忍者が!!

2013-05-24 16:30:08 | 歴史・知多半島日記

今、セントレアに忍者がいます。
見ているだけで何だか楽しくなりますよ。
こういう遊び心ってイイですね。

それから知っているとちょっぴり役立つのは、空港3階のセントレアホール付近にあるスタバです。
観光客が利用する4階のスタバと違って静かで落ち着けます・・・。
空港のヘビーユーザーや、空港で働く人はこっちのスタバを利用していると思います。
出発ロビーに近いので、待ち合わせ場所としてもイイんじゃないかな。

やる気ない系は、無駄にセントレアに詳しいです。そのうちコストコ通にもなるんだろうなぁ(笑)。 

 


大野の賑わい(江戸の海水浴)

2011-07-28 10:18:09 | 歴史・知多半島日記

 かつて大野は知多半島の中心であった。

 大野谷の沃野の恵を受け高業地として発展した大野は、半島内の各所から道が通じ、人と物が集まってきた。

  大野橋の手前で前山川と合流する矢田川の河口が中世以降伊勢湾海運の拠点として栄えた大野港のあった処である。

(正面の山が大野城)

江戸期には尾張藩の廻船惣庄屋が置かれ、廻船(大型船)が出入し、荷の積み下ろしに多くの人々が動き回り、終日喧騒の中にあった。

 この湊に毎朝、名古屋城下からの定期船が入った。大野舟と呼ばれ、前夜堀川の乗船場から出帆し、熱田を経、船中一泊し翌朝大野に着く。

湊のすぐ北側に海音寺があり、

その裏手の浜が湯冶場になっており、

 夏場は湯冶にやってくる客が主な利用者であった。湯冶であるから病気療養の為ということになるが、大野の海水浴場は温泉とは何の係わりもない海水浴のことで、汐湯冶と呼びならされていた。

 万病に効くと信じられ、遊びも兼ね、遠くは美濃のあたりからも大勢の湯冶客が訪れ、付近の旅籠街に逗留し、季節となればどこも満員の盛況を呈した。

(海音寺の門前通り)

 

大野には大野舟の他にも参宮舟があり、知多の各地や三河から集まって来た人々がやはり旅籠に宿泊し、お伊勢参りに出かける出発地として利用され、知多半島髄一の賑わいを見せ、大いに栄えた。


常滑の大野宮山城

2011-07-22 10:05:47 | 歴史・知多半島日記

NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」が好調とのことです。 

史実からは「こんなんでいいの・・・」という場面の続出ですが、歴史に場面を借りた現代劇と思えば結構おもしろいと感じています。 

半田支部の管内にも、江の最初の嫁ぎ先、常滑市の大野があります。 

そこで、大野地区の歴史について紹介したいと思います。 

先ずは、支部だよりにかつて掲載しました大野宮山城について改めて紹介します。 

 

青海山頂(せいかいさんちょう)に大野宮山城はあった。現在は城郭風の展望台が築かれている。

 

眼下には大野の町並みが続き、青々と広がる伊勢湾のかなたに鈴鹿の山並みが美しく望まれる。

 

室町後期から戦国期にかけての約百年、大野宮山城は佐治氏四代の居城として栄えた。

 佐治氏は江州(滋賀県)佐治郷の出とされる以外、その出自は不明であるが、一色氏衰退の後頭角を現し、半島西海岸に勢力を伸ばした。

 佐治氏の繁栄は商港・大野の経済力を背景にして伊勢湾の海運を支配したことによる。配下の船舶は、戦時には兵を満載し軍船となり、大野水軍として勇名を馳せた。その実力は高く買われ、信長は妹・お犬を三代八郎信方に嫁がせ織田陣営に取り込み、天下統一への助けとした。

 更に、四代与九郎は、秀吉に養われていた浅井三姉妹の末娘・小督(おごう)を与えられる。小督は信長の妹・お市の子であるから二人はいとこ同士ということになるが、大野水軍の力を秀吉が認めていた証であった。

 ところが、小督は二年足らずで掟城に呼び戻され、離縁させられる。いかなる事情があったか不明であるが、大野水軍の存在価値が急速に失われたとしか考えられず、その後間もなくして

与九郎は大野を追われ、四代続いた佐治氏は知多から姿を消した。

 

大野城見取り図

 

 

入り口、上が城跡

 

大野城跡の石碑

 

大野城の遠景

 

 

 


読めません

2011-05-27 13:00:20 | 歴史・知多半島日記

やる気ない系、5月19日付記事の伊達政宗の手紙が読めません・・・
投稿したI会員は古い戸籍、古い登記簿謄本を読む自主練のために稲沢に行ったのでしょうか?
読めない戸籍や登記簿謄本と遭遇したら、今度からI会員に連絡しよっと!!

(司法書士豆知識講座)
ベテラン司法書士は一般の人では解読できない「くせ字」や「達筆な字」を難なく読みます。


戦国武将 伊達政宗の手紙を読む

2011-05-19 08:48:11 | 歴史・知多半島日記

 

5月18日稲沢市民会館でおこなわれた事務研究会に参加しました。

講師は「開運!なんでも鑑定団」準レギューラー鑑定士として古文書の解読・鑑定にあたっている愛知文教大学増田孝学長です。

これは、増田孝学長所蔵の伊達政宗直筆の手紙です

バブル崩壊とリーマンショックで今が底値。

興味のある方は今がお買い得ですよ。

ただし、本物と偽物の見極める目が必要です。

この手紙は、寛永9年(1632年)正宗66歳の時に備前池田三ノ介宛に出したもの。

古文書は一定の約束事があり、それを知らないとなにが書いてあるのかさっぱりわかりません。

手紙の読み方としてまず、3行目の大きな文字が文頭で1行おきに読んで行きます。

読み終わったら、最初の1行目に戻り、読み残した行を順に読んでいきます。

つまり最初の行は追伸って意味です。

手紙の内容はこんな感じだったかな?。

昨夕御状つぶさに披見申候 ご返事可申候ところに国師へ御茶申候 取紛遅々19日晩は必々可有御出候

面をもって萬々可申承候 恐惶謹言

尚々折るし国より参り候 塩鮭5本この内塩出し候にすなわちご賞味候によく御いり候

残り3つは3日ほどもまるながら水替え塩出し候よく候

10月17日正宗(花押)

松陸奥守(松平陸奥守=伊達政宗)

池三ノ介様(備前 池田三ノ介)

三ノ介は正宗のお茶友達で、塩引き鮭を知らないから、塩抜きの方法を教える手紙です。

お坊さんとお茶をして遅くなり、19日には必ず届ける。

仙台より送られた塩引鮭5本のうち2本は塩抜きしてあるのでそのまま食べられるが、3本は3日かけて塩抜きをして食べるように。

って感じかな?。

ところで花押(かおう)とは、日本古来の自署(サイン)です。

現代でも花押を使う人がいます。

それは内閣総理大臣。

大臣になったとき、署名に印鑑ではなく、花押なんです。

花押は一般の人でも作ることができますよ。

興味のある方は挑戦してみてください。

 

 


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