かつて大野は知多半島の中心であった。
大野谷の沃野の恵を受け高業地として発展した大野は、半島内の各所から道が通じ、人と物が集まってきた。
大野橋の手前で前山川と合流する矢田川の河口が中世以降伊勢湾海運の拠点として栄えた大野港のあった処である。
(正面の山が大野城)
江戸期には尾張藩の廻船惣庄屋が置かれ、廻船(大型船)が出入し、荷の積み下ろしに多くの人々が動き回り、終日喧騒の中にあった。
この湊に毎朝、名古屋城下からの定期船が入った。大野舟と呼ばれ、前夜堀川の乗船場から出帆し、熱田を経、船中一泊し翌朝大野に着く。
湊のすぐ北側に海音寺があり、
その裏手の浜が湯冶場になっており、
夏場は湯冶にやってくる客が主な利用者であった。湯冶であるから病気療養の為ということになるが、大野の海水浴場は温泉とは何の係わりもない海水浴のことで、汐湯冶と呼びならされていた。
万病に効くと信じられ、遊びも兼ね、遠くは美濃のあたりからも大勢の湯冶客が訪れ、付近の旅籠街に逗留し、季節となればどこも満員の盛況を呈した。
大野には大野舟の他にも参宮舟があり、知多の各地や三河から集まって来た人々がやはり旅籠に宿泊し、お伊勢参りに出かける出発地として利用され、知多半島髄一の賑わいを見せ、大いに栄えた。