美代子は、鏡の中の母の顔を見ていて、特別な意識もなく相似性を直感的に話したことが、キャサリンの心の奥深に存在する襞に触れてしまったのかしら。と、瞬間的に思い、今迄に見たこともない険しい表情の変化にビックリして、その場から何も言わず静かに自室に戻った。
キャサリンは化粧を終えると、彼女の部屋に来て、鏡の中の顔つきとはうって変わって、優しい声で
「これから、お父様の大学病院の研究会に一緒に出掛けてきますが、先程、口した様なことは、貴女のためにもならないので、軽はずみとは言え、人様の前では絶対に話してはいけませんョ」
と話すと、彼女の両肩を軽く叩き、判ったわね。と、言う様に目を光らせて諭す様に言ったあと
「慰労会の準備を貴女もお手伝いして、山上先生御夫妻やお爺様のご機嫌を損ねない様にして下さいネ」
と告げると部屋を出て行った。
美代子は、階段を降りて行くキャサリンの後姿を見ていて、父や祖父に対し自分の存在を気遣い、こんなにまで自己の意志を殺してまで従順にしているのかしら・・・。と、母の後ろ姿が寂しく見え、やるせない気持ちになった。
夕方、街で唯一の居酒屋兼割烹のマスターが料理を運んできたので、皆で、大急ぎで居間を片付けて急ごしらえの会場を作り、ご馳走を並べて各自が適当な席についたが、美代子は日頃から話し易い看護師の朋子さんに頼んでおいて、山上健太郎と妻の節子さんの隣に席を用意してもらった。
彼女にしてみれば節子さんが、やはり何でも気軽に話せて、ご馳走よりも東京の大助君の話を聞ける方が楽しみで、彼の近況を聞くことで先程来の心のモヤモヤを晴したかった。
会食が始まる前に老医師の祖父が普段より穏やかな声で
「毎年のことだが、初雪が降るころになると、オナゴ達は何かと忙しくなるので、若手夫婦は大学の研究会で顔を出せないが、今晩は皆さんの日頃のご苦労に報いるために慰労会とでも名付けて、これから気楽にやりましょうや」
「幸い、山上先生御夫妻にも御都合していただき、また、久し振りにマスターのカラオケでも聞きましょう」
「わしも、歳をとり、来年からは診察を止めることにしますが、患者さんの話相手や相談には乗りますので・・」
「今まで通り、なんなりと遠慮なく話してください」
と前置きしたあと老医師の音頭で乾杯で会食に移ったが、老医師はお酒を飲みながら、おもむろに看護師さん達の顔を見廻して
「ところで、当診療所の独身看護師さん四人のうち一人位は今年結婚して、わしも目出度い席に呼ばれると期待しておったが、当世流行の晩婚化のためか、それも叶わず誠に残念じゃった」
「来年こそは、美酒に恵まれると期待しております」
「どうか、わしの目が黒いうちに、どなたか一人くらい、綺麗な花嫁姿を見せて下さいよ」
「山上先生の様に、若い奥さんと永い恋路を経て結ばれるとゆうことは、奇跡的と言うか、例外中の例外で、誠に羨ましく思うが・・」
「あぁ~っと、余計なことを話して、山上先生御夫婦には誠に失礼しましたが、これは皆さんには参考にならないが・・」
「人の運命は判らんもんじゃノゥ~」
「まぁ~、わしの人生経験から思うに、線香花火の様な恋愛結婚よりも、やはり、家柄や性格を知り尽くした身近なお歳よりのお世話した見合い結婚の方が、先人の知恵が働き、将来は幸せになれると思うがどうじゃろうかノゥ~」
と、歳相応の話をしたあと、各自が会話をしながら会食が賑やかにはじまり、途中から皆の希望でマスターの得意なカラオケが会の雰囲気を一層賑やかに盛り上げた。
美代子は、隣の朋子さんと幼そうな恋愛論を話あっていたが、そのうちに節子さんに顔を近付けて
「大助君、近頃、お手紙をくれないが、どうしているんでしょうね」
「男の子って、皆、そうなのかしら?」
と周囲をはばかるように小さい声で聞いたら、節子さんは笑いながら夫の健太郎の目を盗むように
「あなた達位の歳ごろの男の子は、案外、内心は恥ずかしがりで、心配しなくても大丈夫ョ」
「理恵子が、毎日、大助君と顔を合わせているんだし・・」
と答えると、彼女は甘える様に
「小母さん、理恵ちゃんに電話したとき聞いてみてェ~」
「わたし、近頃、何だか寂しくて、時々、夢の中で彼の寂しそうな顔を見るの」
と頼んでいた。
老医師は、そんな美代子を横目で見ながら、健太郎と酒を酌み交わしながら、カラオケの声に紛れて健太郎に
「キャサリンは、わしの亡妻の妹の子であるだけに、美代子も祖母に似て気性が勝っていて、近頃は急に成長しよって、扱いが難しくてかなわんわ」
「今時の女学生は皆そうなのかね?。時代も変わったもんですね」
「男の子ならともかく、思春期のオナゴだし、正雄も忙しくて足元に気が回らず、キャサリンは、時折、彼女の意表を突いた質問にオタオタして返事に迷い、誠に困ったものだわ」
と苦笑混じりに話していたが、急に声を落として寂しそうな顔つきになり、愚痴を零すように
「キャサリンも、複雑な運命を辿って、わしが周囲の事情を考えて日本に連れて来たが、若い時に悲しい運命を背負い込み、薬剤師になると正雄と一緒になったが、自分の過去を自覚してか、素直で真面目に仕事と家事に励み、正雄に精一杯尽くしているが、果たして本当に幸せかどうか、わしにも、よく判らんわ」
「君。いずれゆっくりと説明するが、わしの見るところ、最近、美代子もその母親の悲しい運命を引きずっている様に感じられて、可愛そうなでならないんだ」
「わしは、あの子には責任の一端を感じているだけに・・」
と、今迄にない、しんみりとした口調で話しかけた。
健太郎としては、薄々耳にはしていたが、改まって言はれると、まともな返事も出来ず、ただ、妻の節子の顔を見ながら、一語一語にうなずき、黙って聞いていた。それでも、話を聞きながらも内心では
これが海軍軍医上がりで、戦後、俘虜となり、収容所長に見込まれてロンドンに渡り、苦難の末、外科医として亡妻のイギリス人と結婚して故郷に帰り、診療所を開設し、地域の人々から親しまれ、持ち前の強い気性と統率力で、街の人達を引張ってきた人かと思うと、それだけに、複雑な悩みを抱えた弱々しい一介の老人に思えて、寂しい気持ちにかられた。
二人の様子を垣間見ていた節子も、夫の冴えない表情から察して、詳しいことは判らぬまでも、言いようのない寂寞感が胸をよぎった。
そんなころ。
大助は姉の珠子が母親と渋谷に買い物に出かけて来ると言うので
「僕、試験も終わり退屈だから、これから奈緒ちゃんの家に遊びにいってくるよ」
「苦手な家庭科の栄養素のことや、体操部を退部した後のクラスの噂話を教えてもらいたいし・・」
「そうだ、夕飯も店の小母さんに作ってもらい食べてくるから、お金を後から払っておいてくれよ」
と告げたところ、珠子は機嫌よく
「普段、パクパク食べてないで、少しは習ったことを考えながら食べれば、自然と頭に入るものょ」
「でも、奈緒ちゃんに教えて貰うなんて、お前にしては珍しく、本心は別のところにあるんでしょう?」
「是非そうしなさい。奈緒ちゃんの母さんに電話しておくヮ」
「奈緒ちゃんと二人での夕食も楽しく美味しいかもよ。 (フフッ)」
と意味ありげに笑って返事をしてくれた。
大助は、夕闇が迫り薄暗くなって人影もまばらになったころを見計らい、革ジャンとジーパンにサンダル履きの気軽な姿で、寒風を避ける様に背中を丸めて、以前、彼女に言われていた店の裏口の階段をソット忍び足で上がり、辺りに人影がないことを確認して、彼女の部屋を訪れた。