大助の挨拶を聞いて、老医師は彼の沈着冷静な態度と返事に少し驚き、顔の前で手を振りながら困惑した顔つきで
「大助君、誤解しないでくれ給え」
「ワシは、君と美代子の交際に水を差す気持ちは毛頭ないが、君に対し、我が家の内情を隠し通すのもワシの気性に反し、純真な君の将来にとって参考になればと思って、恥を忍んで話したまでで、君には一切責任は無いので気にしないでくれ」
と、慌ててシドロモドロに答えた。
美代子は、頑固なお爺さんが覚悟し、母親も承知のこととはいえ、思いもしなかった自分の出生と今後の行く末に目が眩むほど驚いてしまったが、彼の自信に満ちた返事で気を取り直して、それなら尚更のこと大助の考えを確かめたい思いにかられながらも、二人の話を注意深く聞きながらも、彼が肝心なことを話し出さないので、お絞りの布巾をたたんだり広げたりして落ちつかな気持ちでいた。
大助は、そんな彼女の気持ちにお構いなく、中学生の頃から遊びに来る度に、盆踊りや渓流釣り等で可愛いがってくれた、お爺さんの気持ちは心に染みており、自分の存在がこの家の混乱の原因になっていると察したので、美代子の言う通り、この際、自分の考えを正直に話をしようと決心した。
大助は、お絞りで顔を一度拭いて気分を改め
「お爺さん、お話はよく判りましたが、僕の考えも是非聞いてください」
「まだ、学生の身分で自活能力も無い者が言うのも生意気かも知れませんが、お話を聞いていて自分自身に問うたのですが、僕は、美代子さんが大好きですし、それは、単に彼女の容姿が綺麗で魅力的であると言うだけではなく、僕より強い独立心があり、将来、結婚を許していただけるなら、彼女を幸せにすることを誓いますので、大学卒業後、美代子さんを僕のお嫁さんになることを認めて下さい」
「その節は、母親と姉を同伴して、改めてお願いに上がりますので」
と、思いきって話した。
彼が話し終えて頭を下げると、お爺さんは満面に笑みを浮かべ
「まぁ~ まぁ~。大助君。孫娘の美代子を、そこまで思ってくれる君の気持ちは、ワシも本当に嬉しく、勿論、異存なんてなく、むしろワシの願っていることだよ」
「このお転婆で気の強い娘をなっ!」
と返事をしたところ、彼女はお爺さんを睨めつけて
「お爺さん!大助君が真面目にお願いしているのに、お転婆娘だなんて言って、彼の真面目な話を茶化さないでよ」
「私をお嫁に下さいと、直接はっきりと言われたことは勿論初めてですが、天にも昇るほど嬉しく、彼の言葉がマリア様のお告げの様に聞こえましたわ」
「わたし、この先、どんなに苦しいことや、気持ちがくじけそうな時があっても、大助君となら力を合わせて、きっと、これからの人生を上手に乗り越えてゆける自信が今迄以上に湧きましたわ」
と言ったあと、大助に両手をついて丁寧に頭を下げ、顔を赤らめ、目を潤ませて
「大助さん、お話をお聞きし、わたし、貴方の申し出を喜んでお受けするわ」
「その日の訪れるのが、永くなっても、遠く離れた地で、少しでも貴方の色に染まるように、わたしも頑張って勉強に励みますわ」
と言うと、突然、肩を震わせ嗚咽して泣き崩れてしまった。
お爺さんが大助と話しの途中、ベルリン大学の話しを持ち出したり、また、キャサリンと美代子をイギリスに帰すことにした理由は、キャサリンと前の晩に相談した結果、彼女の意見を汲みいれて、二人は若く今の恋愛が一過性の愛でなく、将来にわたり深い絆で結ばれるかどうかを確かめたいと考えたからである。
キャサリンは、美代子に自分が辿った様な悲しい人生を歩ませたくないと只管願っていたので、大助の快活な性格と健康に恵まれた体格は、美代子にとって願ってもない相手であることは、彼が訪れるたびに、二人の間柄を見ていて、その都度、是非そのようになればと秘かに願っていた。
しかも、日常の相談相手である節子さんからも折りにふれ、美代子さんにとっても好ましい青年であり二人がこの先仲良く交際を続けて欲しい。と、聞かされていた。
大助とお爺さんは、美代子の様子を見てビックリして、暫く無言でいたが、お爺さんが
「美代子。なにも泣くことは無いじゃないか」
「いまは、まだ、大助君が自分の考えを正直に話してくれただけで、万事、大助君が卒業したあとのことなんだし・・。しょうのない娘だ」
と泣き止める様に話すと、彼女はお絞りで顔を拭きながら、お爺さんに向かって
「お爺さんには、若い娘の気持ちがわからないのよ」
「涙が勝手に出るんですもの仕方ないゎ」
「わたしにとっては、形式的なことは、どうでもいいの」
「わたし、永い間、耐えに耐えてヤットこの瞬間、大助君の コンヤクシャニ なったのょ。嬉しくて胸が張り裂けそうだゎ」
と、彼女の何時もの癖で、お爺さんに甘えて無理に抗弁していた。
お爺さんは、途端に強気になった彼女に呆れて
「大事なところで大泣きしよって、ワシを驚かせ困った娘だ。その癖はなんとかならんか。この内弁慶が・・」
「婚約者なんて勝手に決めよって、それは両家で約束を交わした後のことで、一人前の女になったら言うことだ。まだ、話の段階だっ!」
と小言を言ったら、彼女は
「アラッ わたし只今から大助君のイイナズケとして恥ずかしくない生き方をしますわ」
「今後はお見合い等一切お断りいたしますので、パパにもよく話しておいてくださいね」
「私の人生を勝手に決めるなんて人間らしくなく、この前の様な大騒ぎはコりゴリしたわ」
と口答えしたので、お爺さんはそれから先は言わぬが花と黙ってしまい、間をおいて大助に向かいニコット笑みを浮かべて
「部屋の中が、春日和になったと思ったら、急に氷柱を建てたようにひんやりしたりして、この娘にはウッカリものが言えないわ。全く・・」
と愚痴を零していたが、彼女は大助の話を聞くまで深刻な表情していたのとは一変して、普段の彼女に戻り、お爺さんの愚痴を無視して素知らぬ顔をして、機を見計らってキッチンに行きキャサリンに話しの内容を報告し、用意してくれている料理を見て座敷に運ぶや、大助が
「ご馳走が沢山あるなぁ。僕、思っていることを全て話たら急にお腹が空いてしまったわ」
と催促すると、お爺さんも「そうだよなぁ~」と、あいずちを打ったので、彼女は素早く慣れぬ手付きでキャサリンの心のこもった料理を皿に盛り付けた。
彼女は、二人が御飯を勢よく美味しそうに食べている姿を見ていて、大助君も思いきって話して、お腹が空いたのかしらと思うと、彼の此処一番での男らしい神経の太さが一層頼もしく思えた。
お昼御飯を食べ終えると、お爺さんは座敷の梁に飾ってあった額縁入りの一枚の写真をはずして、大助に
「これは、昨年の初夏に、あの暴れん坊の寅太達が飯豊山に登山した時に撮ったものだが、この紫色の小さい花は”イイテ ゛リンドウ”といって、この飯豊山の頂上にしか咲かない高山植物で非常に珍しい花なんだよ」
「お土産代わりと言ってはなんだが、記念に差し上げるから、勉強や鍛錬で疲れた時に眺めて、この地を想い出してくれ給え」
と言って差出し、そのあと美代子が大事そうに柔らかいビニールの包装紙にくるんで風呂敷に包んでいた。
お爺さんはその仕草を見ていて、美代子も普段と違い扱いを丁寧に心がけていることに、少しは自分の気持ちを理解しているようだと思い心が安らいだ。
お爺さんは、考えていたことの全てを話した安堵感から
「外は風もなく暖かいので、河のほとりにある、公園のボタン畑を散歩して来るがいいよ」
「今が盛りで、この町の名物にもなっているんだよ」「節子さんにも挨拶してなぁ」
と言ってくれたので、彼も、もう、この街を訪れることもないと思い、この間まで、自宅に下宿していた美容師の理恵子さんにも会って行きたいな。と思い、服を着て出掛け様と玄関に出ると、美代子が、長い髪をターバンで止めて、白いワイシャツに水色のカーデガンを着て黒いスカートで身支度してサンダルを履いて、いかにも大学生らしい清楚な姿で玄関先でキャサリンと並んで立っており
「わたしも連れて行ってぇ~」
と甘えた声で言うので、彼が
「いいけれども、顔に涙の跡がついているんでないかい?」
と冗談を言うと、彼女は
「なに言っているのよ、ちゃんと洗って薄く化粧をしてきたわ」
と言って、彼の靴を揃えていた。
街の中央を流れる河までは、診療所から緩い下り勾配の坂道の先にあり、道脇の歩道を並んで歩いて行ったが、家並みの途切れたところに来ると、彼女は彼の腕に手を絡めてきたので、彼は
「裏山と違い、人通りがあるので、恥ずかしいから離してくれよ」
と言うと、彼女は
「わたし、平気よ。ダッテ コンヤクシャ ナノヨ」
と、チラット彼の横顔を見て耳元で囁き、行き交う人に恥らうこともなく、澄ました顔で軽く会釈を交わしていた。