雪深い山里の春の訪れは、厳しい寒気に耐えて咲いていた雪椿に続いて、雪解けを待ちかねていたように可憐な顔を覗かせる黄色い水仙と梅の蕾が、ゆっくりと流れる時にあわせて知らされる。 また、そのころになると遠くの山並みの色合いが変化してゆく風景の中でも自然と知らせてくれる。
この時期、健太郎は家や庭木の雪囲いをかたずけたり、ときたま、朝早く起きて池の鯉に餌をまきながら話しかける生活の始まりは、年々歳々、変わることもないが、季節の巡り変わりに、ふと気ずくとき、時は確実に流れて我が身も年輪を重ねていることに思いをいたす。
山上健太郎と妻の節子夫婦は、夕食後の団欒の際、お互いに
「貴方の髪の毛も山の残雪のように、最近、大分白さが増してきましたね。でも、艶があるので、とても健康的で素敵だわ」
「そうかね。君も前髪に銀髪が少し見えるようになってきたが、髪が濃いので気品があっていいよ」
とたあいもない雑談をしながら、彼女は照隠しにクスッと笑い
「アラッ!貴方にしては珍しいお世辞ね。でも、その様に言われると嬉しい気持ちと、お互いに知らぬ間に歳をとったと、少しばかり寂しい気持ちにもなるわねえ」
と、言い合いながら仲睦まじく、日々変わることなく生涯学習の講師と町の診療所の看護師をして過ごしている。
健太郎の髪の白さは、抗癌剤の副作用もあるかもしれないが、ふさふさとしているので、歳相応に見える。
節子は、元来が細身で柔らかそうな餅肌の色白であり、かいま見せる目尻の皺を除けば肌の張りもよく、出産の経験がないためか、40代後半の実年齢に比べて遥かに若く見える。
そのため折りある度に、同僚の看護師や近隣の主婦達から
「流石に秋田の女性は、お相撲さんの大鵬親方の様に肌が白く綺麗だわ」
と、彼女の控えめで静かな性格もあって羨ましがられている。
その一方、長い間、大学病院等で看護師として外科で手術の仕事に携わってきたため、自然と職業的に培われた精神的な芯の強さも秘めている。
そのため、街の診療所の老医師と院長の正雄や妻で薬剤師をしているイギリス人のキャサリンからも信頼され、わけても都会から移転後日も浅く田舎街の習慣になれないキャサリンからは、日常生活や娘の美代子の教育について相談相手になり頼られていた。
健太郎との二人にとって唯一の楽しみは、養女の理恵子を都会に送り出して3度目の春を迎え、彼女が美容師となって帰る日を心待ちにして過ごしていることだ。
二人は静かな日々を過ごしながらも、節子は胃がんの手術を経験している健太郎の体調管理には人一倍神経を使い、日々、さりげなく気遣うことを怠らないでいた。
暖かい春の風がそよ吹き、小高い丘のコブシが白い花びらを開き、庭の桜が蕾をほころびはじめた頃、21歳になった理恵子が東京の美容学校を卒業して元気よく帰って来た。
二人きりでの生活では、もてあましていた広い旧家にも、彼女の若さ溢れる賑やかな声が絶えず聞こえる様になり、愛犬のポチも彼女にしきりに甘えて絡みついて騒ぎ、家の中に精気が漲ってきた。
理恵子は、亡母の秋子が残してくれた美容院で、これからは、実務を引き受けてくれていた美容師さん二人に従い、資格試験を受験するための研修を彼女等から受けることになっている。
研修場所は、幸い養女となるまで中学生として過ごした家でもあり、師匠になる美容師さん達とも顔馴染みで気心が通じており、それに、養父母とはいえ健太郎達と毎日一緒に過ごせることが何よりも嬉かった。
理恵子は、帰宅後何日か過ごした夕食時に、ポチが膝に首を乗せて離れようとしないので
「あなたも、お父さんの髪の様に白さがましたわね」
と言いながら焼き魚の切り身を与えていたところ、健太郎が少量の晩酌に酔いも手伝い、遂、彼等夫婦には禁句となっていることを忘れて、理恵子の話に攣られて軽口のつもりで
「今年は、ポチにも赤ちゃんを生ませてあげようと思うんだけど・・」
と口走った途端に、節子が箸を止めて、小声で
「貴方、何をいっているのよ」「その様な思いやりを、私が嫁いだときにかけて下されば、今頃、私にも中学校に通う子供がいたかもよ」
と、冗談とも愚痴ともつかぬことを、寂しそうにぽっんと漏らし、続けて何時もの口癖で
「貴方は、本当に女性の心理に疎いのですから・・」「今の理恵子なら、私の気持ち判ってくれるでしょう」
と呟いて軽く笑った。
節子は、めったに口にすることはないが、時折、自分が育った秋田の実家で高校3年生のとき、自宅に下宿して共に暮らし、自分の担任でもあった健太郎が、将来は自分達が一緒になることを両親も期待し、彼女もその様になるものと淡い夢を抱き、内心秘かに思慕していたが、彼女が高校卒業の春、教師とゆう職業の宿命で故郷である新潟に転勤となり、それを転機に傷心を忘れ去ろうと決心して上京し、専門学校を経て看護師となり、それ以後、自然と音沙汰が遠くなり、風の便りで彼が地元で結婚したと聞いて、すっかり彼との結婚を諦めていた。
その後、仕事に没頭し何時しか歳月が流れて40歳を少し過ぎたとき、同郷の先輩でもある秋子さんから、彼が妻と死別して一人で暮らしていると知らされ、お見舞いに訪ねた時を契機に秋子さんの積極的な勧めもあり、自然な流れで彼と結ばれたが、その直後、彼が胃がんを患い、病状と年齢が10歳離れていることや高齢出産となること等、彼の考えを尊重して子もなさず、今日に至っていることが、遂、愚痴とも未練ともつかなく、たまに口に出してしまうことがある。<前編「蒼い影」ヨリ>
理恵子は、実母を亡くしてから健太郎夫婦の養女となって5年が過ぎ、すっかり山上家の家風に慣れ親しんでおり
「母さん、また、そのお話なの。お食事中はやめてよ。わたしが傍に居るので何も心配いらないじゃない」
と口を挟み、両親の聞きなれた会話を遮った。
健太郎は、節子が時折口にする聞き慣れた愚痴混じりの何気ない会話が、最近多くなったとのは、理恵子が期待通りに美容学校を卒業してきて安堵した反面、理恵子の恋人である織田君との関係について一抹の心配もあり、加えて、入れ替わるように勤め先の診療所の美代子のことで、彼女の母親であるキャサリンと老医師から何かと相談を受けることが多くなり、他家のこととはいえ苦労性の彼女なりに精神的に疲れているのかなと日頃気遣っていたところから、彼なりに余計なことを言ってしまったと反射的に思い黙ってしまった。
節子が、そんなことを話すとき、彼女が意識しているわけでもないのに自然と寂しい表情を漂わせるのか、ポチは決まって彼女の心を読み取り、慰めるかのように、彼女のところに寄り添い、彼女の膝に顎を乗せて、彼女の顔を時々上目で見ては静かにしているので、彼女も、わが子の様にして可愛いがっている。
理恵子は、そんな和やかな様子を見ていて、その場の雰囲気を和らげる気持ちで
「この子、母さんの気持ちを本当に判っているんだわ」
と、遠慮気味に養父の健太郎をチラット見てポチの背中をなでていた。
山上家の夕暮れは、理恵子が上京する前と変わりなく、赤々と燃える囲炉裏の炭火同様に暖かく強い絆で結ばれて静かに更けていった。