老医師は苦渋の思いで大助に対し家庭内の話しをした日の夜。
京都から帰る途中で夫の正雄を新潟に残して一人で帰宅したキャサリンに対し、昨日、家庭内の事情をある程度大助に説明したことを話したところ、キャサリンから予想もしないことを告白された。
キャサリンが、今迄に見せたこともない悲しい顔で語るには
『 昨年夏頃から、日々の暮らしの中で、なにかにつけ、夫の正雄の態度が冷たく感じる様になり、はしたない話で口にもしたくありませんが、この際、私達夫婦の関係について本当のことを知っていただくために、敢えてお話いたしますが・・。
夫とは日常の会話も少なく味気ないもので、夜の生活も一方的に自分の性欲を満たすだけの、しかも、屈序的な体位を要求し、こばむと力ずくで半ば暴力的に無理やりsexを求める様に変化してきたので、どうしたのかしら、若しかして私達の愛情が薄れ、率直な表現で済みませんが、わたしの身体に飽きて愛人でも出来たのかしら。と、思いこむ日々が続いております。
いけないことかも知れませんが、或る日、グンゼの下着に白い木綿の糸を気ずかれないようにチョコッと刺繍して着せておいたところ、度々、刺繍のない同じグンゼの下着を着てくることがあり、わたしは、これを見たとき以来、彼に対する信頼と尊敬の念、それに愛情も次第に薄れてきて、互いに日常の仕事や暮らし等の会話も事務的になり、温もりのない味気ない生活になり、ただ、彼の求めに身体を任せるだけの、心と体がバラバラな生活となって仕舞いました。
それ以後は、只管、美代子の卒業のみを楽しみに、仮面夫婦として忍従の日々を過ごしておりました。
幸い美代子が、ミッションスクールを卒業した今では、彼が私に愛想を尽かし、何時、離婚を申し渡されても、それを受け入れる覚悟が出来ております。
お爺様には大変申し訳ございませんが、もうこれ以上忍従の生活を続けることは精神的にとてもできません。
節子さんにも相談いたしましたが、答えが見いだせないのです。
できれば邦<英国>に帰させて戴き、老いた母親のお世話をしながら、美代子の実父である愛しき人の墓守をして、人生をやり直したいとも考えております』
と、涙ながらに聞かされた。
老医師は、正雄の度重なる外泊と二人の会話の少ない生活等から薄々と冷え切った様な関係を感じていたが、キャサリンの告白を聞いて、この夫婦が完全に修復し難い破滅の道を辿っていると悟った。
老医師は、その夜床に入ると、これを契機に、己のよる歳並みとあわせ、かねてより考えていた診療所の閉鎖と併せ、キャリンと美代子をイギリスに帰すべきか、今後の生活どうするかを真剣に考えた。
翌朝、お爺さんは、昨夜熟考の末覚悟した結末をキャサリンに話して、彼女の了解を得たあと、朝食後、大助と美代子に対し、改めて昨日の話の続きを、一層、精魂をこめて話を続けた。
キャサリンは、大助と美代子の普段の交際振りから、また、お爺さんの覚悟を知らされたことから、話しの結末をおおよそ察して、家庭内のことをさらけ出される恥ずかしさから、同席しない方が話がスムースに話が運ぶと考えて、大助に対し
「美代子をどうぞ宜しくお願いいたしますね。貴方なら私も何の心配もなく安心してお任せ出来ますわ」
「今後ことについては、全てを本人とお爺様にお任せしておりますので・・」
と丁寧に挨拶すると座をはずして、調剤室で看護師の朋子さんから、きのうの二人の様子を聞き安心し、キッチンに行き昼食の準備に勤しんだ。
お爺さんは、さして緊張した顔もせず、普段の口調で
『 ところで、大助君。昨日も話した通り、君もある程度察しがついたと思うが、所謂、世間で言うところの、家庭崩壊じゃ。 外見上は平穏に見えるこの家庭も、悲しいことに、一皮剥ければ、あっけなく崩れてしまった。
般若心経で言うところの”色即是空”で、因縁で形成されている万物は実態がないもので、形あるものは、いずれ消滅して無となり、全てのものは仮の姿で存在するだけであり、思えば誠に自然の理だな。
神社に祀る神様のことを、権現と言うとおり、宗教上、この場合の権は仮と同義語だよ。
また、歴史的にも、強大な軍事国家旧ソ連が、常食のジャガイモのスープを国民が満足に与えられないと言った経済破綻から消滅した様に、古今東西、栄枯盛衰は世の習いだ。
家庭内の諸問題についても、社会や個人の価値観の変遷に伴い、同じことが言えると思う。
人様がどの様に言おうとも、ワシは生涯をかけて信仰してきた仏教の教えから現実を見つめて、この様に観念した。諦めと違い諦観だなぁ』
『この診療所も、ワシが英国から帰国し東京の勤務医をえて、故郷に恩返しするつもりで開業したが、家庭が崩壊した以上、ワシは引退する予定だ。
いずれは、市や県の意見を聞いて、正雄が継続するか他人様が継承する様になるかは、これからの問題として、ワシは売却処分する腹で、ワシ名義の動産・不動産売却で得る資金は、全てキャサリンと美代子の生活や教育資金に当てる考えだ。
そうすることによって、ワシが先見の思慮もなく作り上げた、この家庭の崩壊に対する責任を果たす覚悟だ。
帰国後、仕事の忙しさにかまけ、家庭内のことに目配りせず、成り行きに任せ、正雄とキャサリンを一緒にさせたことが、ボタンのかけ違いで誤りとなり、今日、その因果が結果として現れたのじゃ』
『そこで、大助君! 君が勉学に勤しんでもらうために、美代子が周囲にいたのでは気が散り、君の為にもならんし、また、母子別々では可哀想なので、キャサリンと二人で英国に移住させることにした。
キャサリンの母親も年老いて、この際、介護を必要としており、また、美代子も英国で大学に入り直し、例え一人でも生きられる様に腕に職をつけられる、好きな学部で勉強させるつもりだ。
ワシのこの考えには、勿論キャサリンも同意し亡妻のダイアナも草葉の影からきっと喜んで賛成してくれると思う』
『まぁ~ 君と美代子の恋愛は何処まで進展しているのか詳しいことは判らんが、傍目には好ましく見え、恋仲を裂くと言うことは残酷に思うかも知れんが、今はイギリスなんて一昼夜で行き来でき、盆と正月の休みを利用して会える時代で、耐えることも大事な人生勉強だ。
ワシも若い時、俘虜として帰国など絶望的な環境の中で懸命に生きてきた。
今度こそ、正雄やキャサリンと違い、ワシも熟慮を重ねて決断したので、君達も今迄通り、ワシの真意を理解して、それぞれの道を悔やまぬ様に、輝いて歩んでくれ給え』
と話して同意を求めたあと、つい口を滑らせて
『大助君も立派な体格をしており、時には、若さに任せて、有り余る精を発散さえることが、例えあったとしても、”精力善用”で、のめり込まないことだな。
終戦時。わが国最後の陸軍大臣となり敗戦の責任をとり自決した阿南陸軍大将は、”一穴大臣”として妻以外に手を出すことなく有名であったが、いまでは、不倫は美徳とか言って有名になった俳優さんもおるが、医学的にも健康な男子なら、一度や二度は男の勲章だよ。
ましてや、今時は昔と違い、姦通罪もなくなり、男女平等をはき違えて貞操の価値観が薄れ、売春防止法のないベルリンでは、大学の女子学生の中で高額な学費念出のため売春しているとのニュウスを耳にする御時勢だわなぁ~』
と、苦渋の胸のうちを話した安堵感と緊張気味の大助の心を和らげる思いから、勢い余って話が脱線するや、美代子は顔面蒼白となり涙声で首を横に何度も振りながら、お爺さんの腕を思いっきり叩いて、抓りあげ
「お爺さんっ! 私達、真面目に聞いているのに、なんて、とんでもないことを大助君に話すの」
「わたし、その様な猥らなことは絶対にイヤだわ」
「大助君が、そんなことをするのをお認めになるなら、わたし、一人になっても東京で職を探して生活するわ」
と、声に怒りをこめてヒステリックに言って話を遮ってしまった。
大助は、それまで、神妙な面持ちで、腕組みして聞いていたが、突然、彼女が胡坐をしていた大助の足先を横崩しにしていた足先で突っき、不安そうな目で彼を見つめて、早く自分の考えを話してよ。と言わんばかりの硬直した表情をしたので、彼はハットして美代子の顔を見て動揺していることを察知するや、明確な考えも浮かばないまま正座に座り直して姿勢を正し、はっきりとした口調で
「お爺さん、お話の趣旨はよく判りました。僕の存在が原因になっていると思いますが大変な御迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「事情はよく理解できましたが、心の整理をするためにも少し時間を下さい」
と、畳みに両手をついて頭をさげた。
美代子は、彼の落ち着いた態度と返事に、この先どうなうかは判らないが、なんとなく彼の信念はゆるぎないないもと思い、それ以上話すこともなく必死に気持ちを静めていた。