ただの碁好きな麺や親父の雑記

麺や食堂爺のひねもすのたりのたりかな

家康の踏ん張り処

2018-08-23 23:53:14 | 歴史
1598年に秀吉が死去
その後を継いで秀頼が大坂城に入る。
それを補佐する組織の五大老、五奉行の設置
徳川家康と前田利家の有力大名が親類大名として大坂城と伏見城に留守居として入り政治運営に携わる。
そんな中、1599年に前田利家が死去、
豊臣政権のなかで、徳川家康が前田亡き後
天下人として認識がもたれる。
1600年2月に前田利長「利家の後継」と和睦
そして上杉景勝「越後から会津に移封」征伐に向かう途中、8月1日、反徳川軍の毛利、石田三成らが、鳥居元忠率いる伏見城を攻め落とす。
徳川家康と反徳川軍との戦いは、関ヶ原において、8月15日に激突、徳川家康軍が勝利して、
8月27日に大坂城の秀頼に、拝謁し勝利を報告する。
この1600年8月の、関ヶ原の戦いは、
豊臣政権下の主導権争いだったのだ。
勝利した家康がこの時点で、徳川幕府がて来たわけではない。
徳川家康が政権の足固めの争いだった。
そして天下人としての立場を固めていった。
1603年に家康は、征夷大将軍となる。


池波正太郎

2018-08-18 16:51:59 | 歴史
今日は土曜日なので都内はどこも、めちゃ混み。
大きな荷物を、持った人が多いなー
何時も感じるのですが
都内の様子は、田舎から見たら毎日がお祭りだなー
なんで毎日あんなに人がいるのだ^_^
人の多さが半端ない。ホームから人が溢れんばかりですよ。
危ないです。しかも外人が凄い、
ホームにいても、電車に乗っても、町を歩いていても
飛び交う言葉、中国語と韓国語と英語とあとは何語だろうね。
側で聞いていてもわかりませんね。
種々雑多な人種です。
入谷から出発して、合羽橋を散策、浅草寺、花屋敷あたりを通って、約一時間半くらい歩き回って、また入谷に戻り、池波正太郎文庫に行って、
池波正太郎の世界にどっぷり浸かってきました。
彼の素晴らしさを、知れば知る程、楽しいですね。
最初に読んだ時と、2度目、3度目、違うのです。
登場人物の受け止め方もそうだし、小説そのものがなんとも言えない輝きを増してくる。
今池波正太郎の本を読みなをして3回目に入りました。
難しい事をやさしく説明するという事、
ルビの使い方の微妙な部分
まだまだ彼を勉強したい

家康の凄さ

2018-08-09 23:10:47 | 歴史
今日は9日の木曜日です。
台風13号の通り過ぎたというのに、晴れてない。
曇り空で電車も空いています。
ロマンスカーが運行停止で、急行て新宿まで行きました。
流石に新宿まで来ると、人、人です。
高田馬場まで来るともっと、凄いです。
夏休みなのになんで学生が多いのかな?
出来が悪くて、補習でも受けてるのかな。
冗談
蒸し暑くなり、なんだか梅雨どきみたいです。
ぶら歩きは大変ですから、足はバスです。
都バスの中は冷房がよく効いて、快適です。
今日の勉強は、
家康の徳川幕府が長い間政権を維持できたのか?
室町幕府では、将軍がいて、その他に、将軍に匹敵する大名がいた。
細川、畠山などの管領「副将軍みたいな存在」が存在して、バランスが崩れるとすぐ争いになる。
将軍の求心力が低下すると、小競り合いが始まり、
最後は応仁の乱があり、
そのまま戦国時代へと突入
家康は政権を取るまでに、信長、秀吉のやり方を目の当たりで勉強出来た事も良かったし
三代家光の時代までの徳川幕府がしっかりとした、
組織を作り上げた事が挙げられる。
外様大名は、石高は有りますが、政治に口出しはできない。
譜代大名は、主に10万石以下にとどめ、老中、若年寄のような政治を行う要職につけた。
徳川幕府に権力が集中するシステムにした。
然も外様大名は参勤交代で、莫大なお金を使わせた。
まだまだほかにいろいろ有りますが.
外様大名の財力を削ぐ事が、謀叛を起こさせにくい状態を作っていった。



秀吉の親類大名

2018-08-07 11:10:00 | 歴史
今日は、台風が来る前の静けさですかね
曇っていますが雨は降ってません。
気温も22度です。
寒くはないけど、今までの猛暑は何処に行ったのみたいな感じで。凌ぎやすくていいですね。
ただ雨予報が怖いね。
今駅でロマンスカーを待っています。
今日は家康の江戸城の天下普請について学びます。
家康の成し遂げた天下は、信長や秀吉とは違う盤石なものでした。
家康が今川の人質生活が長かった為、
耐える事を学んだのもいい事だったのでしょうか?
取り敢えず強い大名に臣従して生き延びようとする、知恵でしょうか。
家来達も家康が戻ってくるまで、頑張ろうと一致団結して、まとまっていたのも良かったし、
又家来達も優秀な武将が多かった事も、家康に幸いした。謀叛をして家康の元を離れた部下もいたが、
大半は家康を盛り立てて、徳川の基礎を築いた。
早くに秀忠を2代将軍を決めて、世襲の形を決めたのもいいですね。
秀吉の北条攻めの後、関東に移封されたのも、家康にとっては、大変良かったのだと思います。
一時期240万石を領有する大大名だった北条の後任せられた。
しかも北条勢は根こそぎ滅亡。
そっくり空いた領地を家康の重臣を配置、
これは秀吉の意向が入った配置で、未だ動きがわからない東北地方の抑えの為、本多忠勝、大久保忠世、井伊直政、榊原康政 、鳥居元忠、らを、秀吉は自分の意向に沿わせた。
秀吉の力を誇示したみたいです。

家康は豊臣秀吉の親類大名としての立場で動いていくことになる。



天下普請の江戸城

2018-07-12 08:06:14 | 歴史
今日は、メトロモーニングというロマンスカーで、
八丁堀迄行きました。
朝の通勤ロマンスカーが小田急線に千代田線が乗り入れてまして、新宿より先に行く時は、大変便利になりました。
霞ヶ関迄行きますので、
そこから日比谷線で八丁掘に行けます。
早稲田大学オープンカレッジ八丁堀校舎で、
「江戸城の全て」というテーマで勉強します。
江戸幕府以前の江戸城と、家康が天下を取った後の江戸城を、時代の背景を含めて、その変化を調べます。
家康が造った江戸城は、特に天守閣の大きさと、二の丸、三の丸、を含めて建物の構造が複雑に造ってある。
相手に攻撃されにくい、そして相手を攻撃しやすい建物構造。すなわち5連続枡形といって攻撃する相手の軍勢が縦の軍列でしか攻められない様に造ってあるので、
攻撃側が槍も、鉄砲も、弓矢も、有効に攻撃出来る仕組みになっている。しかも
天下普請として、各大名の財力を使わせるために、スケールの大きい工事をした。
各大名が全体の構造をわからせないために、
部分、部分に細かく分けて工事をやらせた。
難攻不落の城と言わしめるスケール。
天守閣の高さは石垣の部分20メートル
棟高が48メートル、合計69メートル。
姫路城の高さが47メートルですので
その大きさが想像出来る。
一方
特に太田道灌が築いたといわれている 江戸城はどうだったのか。
家康の天下普請にくらべると、単なる山のゆはく砦程
度だったそうです。
館を建てて少し堀があり、今では城と言えるかどうか
だったそうです。