::::::
今日が2013年なら、2012年の今頃、母は死にました。突然、そのようなカタチに成り下がり、それは『当然』というような説得力をもっていました。その時、失われたものの膨大さと対峙し、怯み、結果、僕は諦め、1年という時間を過ごしたんだと思います。
::::::
※始めに、このページでは『死ぬ』という言葉を使います。本当は『亡くなる』などのという言葉を使うのが適当なのだとは思いますが、書き手の都合上、『死ぬ』で統一したいと思います。その理由は、結果が同じであることに対し、亡くなったなどの、言葉は僕にとって意味のない響きを持っているからです。結局は、どちらでもいいのですが『死ぬ』の方が分かりいいのです。
母が死んで、1年が経ちました。思い起こせば、あっという間に居なくなり、あっという間に生活は次のカタチに移ったようです。母の居ないカタチに移りました。それは、僕が冷徹なわけでも、父が逃避したわけでもないと思います。それぞれに受け止め、それぞれに時間の流れに、また戻っていかなければならなかったのです。思い出を思い返す、そういった時間を設ける制度はなく、常に『明日』が並んで待っています。
最近、寝る前に、少し思い出します。
母は死んでしまう半年ぐらい前から、酔っ払った僕に23時頃から、自分のルーツを話すようになりました。そのルーツは、適度に野蛮で、ものすごく昭和で、それは海の近くで、そこで血縁を持つ登場人物が、何らかのシナリオを無視しながらそれぞれに勝手に暴れ回っているような話でした。
主題はなく、主人公は薄く、話の途中で消え、前後関係が分からないような人がいつの間にか中心に居座っているような話で、とても面白い話でした。適当な質問を挟みながら、そんなに速いペースではなく話は進んでいきました。
明日に向かって僕が進まなければ行けない時刻をまたぐと、母は急に話のペースを上げ、僕の瞼が重くなる頃には、急ごしらえの歪なストーリーが出来がありました。当然、僕は直ぐに忘れ、そこに何かの教訓を見出すことはありませんでした。登場人物の名前を思い出すことは、一人として出来ませんし、今となっては永遠に失われた名前になってしまいました。
確かに、何かを僕に伝えようとしていました。そういった熱意がそこにはありました。それが半ばにも満たないところで、1年前に、不意に幕切れになってしまいました。どうせ、遠く昔の話です。母が話している空気の質感とか臭いとかだけが微かに残っているだけです。
多くの場合、血脈というのはこうして続いて行くのだと思います。そこにあった歴史が純粋に受け継がれることなどは殆ど無く、瞬間に、あっという間に歴史は薄まってしまいます。それでも少しは残って。でも無視されて。…しかし、それこそが強さであったり、生命力であるような気がするのです。多くが、過去の名の元に捨てられ、忘れられ、その次の世代もそれを繰り返す。そういうことが蠢いて、干からびて、落ち着いて、それらが積み重なって今の僕が居るような気がします。
「墓なんて糞喰らえ!」と、僕は思っていますが、過去に失われたものに対するわけのわからない畏敬の念というか、単純に自分が不甲斐ないことの申し訳なさというか、それでもルーツを置き去りにして勝手に何処かへ行ってしまうという、何というか罪悪感をごまかすにはちょうどいいものなのかもしれません。分かりやすい、手続きとして。
そんなことを、最近思いました。
自分の生き方はちょっとは楽しかったなぁ…っと思いたい。そんな風にいきたい。