一昨日は大磯漁港まで往復52キロ、昨日はそれより12キロ長い64キロを走ってきた。
都心では気温が30度に達したようだが、海岸べりを走る国道134号の、わけても相模川にかかる新湘南大橋のたもとの温度計の電光表示は23度で、何と7度も低い!
遮るものもなく、南南西の風が吹きわたる橋の上なのでなおさらなのだが、快適そのものである。
平塚市街を抜けて大磯町との境を流れる金目川の右岸にサイクリングロードが続いているので、河口の花水川橋から土手の上に伸びるコースを遡って行く。
安藤広重が描いた東海道五十三次の平塚宿に描かれた高麗山のすそを大きく回りこんで流れる川筋に沿ってしばらく進むと、“昼なお暗き”と感じさせるほどに生い茂ったサクラ並木が続き、そこを抜けて東海道新幹線の下をくぐると視界が開けて水田が広がり、丹沢山塊の大山が目の前に迫ってくる。
高麗山の北側は金目川の水を利用した神奈川県内有数の穀倉地帯が広がる。相模川流域のそれに匹敵するコメどころなのだ。
東海道新幹線が新横浜を発車してしばらくすると右手に、二等辺三角形のきれいな山容の大山が見えてくるが、新幹線が突っ切って走る両脇の水田を私も走っているのである。
昔なら一望千里と言うところだろうが、今は高速道路の盛り土や所々に点在する工場や倉庫の類に視界は遮られはするものの、ここにも涼しい風が吹き抜けている。
まだ早苗なので、青青とした稲の香りが鼻をくすぐるほどでないのが些か残念である。
こういう風景の中をのんびり漕いでさらに遡ると、河原に釣り人を数人見つけた。鮎釣りらしい。
橋のたもとでしばらく見ていたが、一匹もかからなかった。
ふと視線を上げると、橋の対岸に緑青を葺いた大きな屋根が見える。傍らにはやけに背の高い銀杏の木がすっくと天に向かってそびえている。
何やら由緒ありげな佇まいに橋を渡って行ってみると、金目山光明寺という天台宗のお寺で、702年に創建されたと伝えられ、源頼朝が帰依し、江戸時代には徳川幕府の帰依も得ていた由緒正しき古刹だった。
本尊は聖観音で金目観音と呼ばれている。渡った橋の名前もずばり観音橋であった。
坂東33ヵ所観音霊場第7番札所だそうな。
文化財の宝庫らしく、聖観音像を安置する木造の厨子が国指定の重要文化財に指定されていて、緑青色の美しい屋根を持つ観音堂や、金剛力士像、銅鐘は県指定の重文である。このほか、平塚市指定の重要文化財もいくつか指定されていて、境内のあちこちにそれぞれの説明板が林立するほどである。
光明寺の門前わきには「自由民権の里 案内図」「明治の文化村 金目のさんぽ道」という絵看板が掲げられていて、「私立中郡盲人学校」とか「三郡共立学校」などの文字が見えるので、何事かと思って家に帰って調べると、県立平塚盲学校の前身が私立中郡盲人学校であり、県立平塚農業高校、県立秦野高校の前身が三郡共立学校だったのである。
いずれも明治20年前後に建てられている。
そもそも、この地域は江戸時代から寺子屋教育が盛んだったそうで、明治に入って13年に国会開設請願運動がおこったとき、ここの住民たちも立ち上がり、かの植木枝盛らとともに活発に活動したらしい。
民権運動そのものはやがて20年代に解体して行くが、高い民権意識はそのまま残り、教育や福祉に向けられていったのだという。
リーダーの何人かはキリスト教に入信し、横浜でもまだあまり数多くなかったであろう教会まで建立している。
そうした風土と気風が盲学校や共立の学校建設などへと結びついていったのである。
う~む、知らなかった!
こうして、ある日突然、新しい知識に出会えるのはありがたいことである。嬉しいことである。
それも、自分の住んでいるところと余り離れていない、隣の隣の隣村くらいの存在だが、或はそれ故に、へぇ~!と痛く感嘆するのである。
金目川の観音橋際から大山と丹沢山塊を望む
観音橋下の釣り人
金目観音で親しまれる金目山光明寺
県の重要文化財に指定された観音堂
「自由民権の里」の案内図
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