芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

赤川次郎さんの言葉

2016年09月10日 | 言葉
                                                                

 書き手として独立した精神をもっているということより、逆に、大きな権力にすり寄って、権力のなかに入りたいというような作家が目立つようになってきました。作家だからといって反体制であるべきとは思いません。しかし、権力から独立していることは、ものを表現する人間としては最低限のモラルです。

 ものを書くということは、ある意味で人に対する挑戦です。意見を表明することは、おおやけの場での反駁を覚悟していることでもあります。上からの目線で発言するのではなくて、下の目線に立って、上に向かってものをいう、ということが、かつては作家というものの当然のあり方でした。
    (「三毛猫ホームズの遠眼鏡」)

小沢昭一的「反戦のこころ」

2016年09月09日 | 言葉
                                                            

 小沢昭一がラジオで長く続けていた「小沢昭一的こころ」という番組があった。平成4年の末から平成5年の正月にかけて「20周年記念 小沢昭一的こころ『唄う小沢昭一的こころ』」がある。その中の「正月気分は反戦気分」という傑作は、おおよそこんな話である。
「あの愚かな戦争が敗色濃厚になった頃、帝国海軍は予科練というのをつくったんですな。〽赤い血潮の予科練の〜 …頑是ないといっていい年頃だ。送り出す方は年寄りだ。若者たちの純情を利用して…悲しみというより憎しみが湧いてくる…」
「戦意高揚歌というのが作られて…二大戦時歌謡は 〽みよ東海の空開けて〜という「愛国行進曲」と「露営の歌」…」
彼は「愛国行進曲」をがなり立てるように唄う。
「〽正しき平和打ち建てん、いいですか、正しき平和打ち建てん…断固と守れ その正義(彼はそのフレーズを敢えて繰り返す)断固と守れその正義〜」
「露営の歌」も唄うというよりがなり立てる。「〽東洋平和のためならば、なんの命が惜しかろう(彼はまた敢えて繰り返す)〽東洋平和のためならば〜」
 そして言う。「正義の戦争、平和のための戦争と言うんですな。正義の戦争より、不正義の平和がいい
 
 小沢昭一はある雑誌に投稿している。
「じっさい、何が「いのち」を粗末にするといって、戦争ほど、人間の「いのち」を軽く見るものはなく、もう無残にも「いのち」は踏みつぶされ蹴散らかされるのです。
 でも、そのことに、私たちは、あの戦争に負けた時に、はじめて気がついたのです。あの時、不思議と頭の中がスーッと澄んで、モノが実によく見えました。あれは、多くの「いのち」を失った代償だったのでしょう。私たちは、それまでの無知を恥じ、もうコンリンザイ戦争はごめんだと思ったものです。「戦争放棄」の憲法は、アメさんから押しつけられたにせよ何にせよ、あの時、日本人の皆が、ごく自然に、素直に、そうだ、それが一番いいと、心底、納得したことだったのです。
 だから、世の中の、大抵のことは、何がどうなってもいいから、戦争だけはごめんこうむりたい、「戦争放棄」だけは守り抜きたいという、これが、私の人生で、たった一つだけ出た明白な結論です。人間、長い人生の間には、考え方も少しずつ変化するものですが、この考えばかりは変わりませんでした。
 ところが、「喉元過ぎれば熱さを忘る」ですか、このごろ「憲法見直し論」がチラホラ顔を出してきて、私はとても心配です。いえ、見直しも結構ですが、第九条ばかりは、そのまま、そのまま、でありますよ。
 「戦争放棄」は、政治に哲学がないなんていわれる日本が、唯一、世界に先がけて打ち出した、まことに先見性のある政治思想と思われるのでありまして、この、百年か二百年先の時代にツバをつけた新思想を、なんとか保持したいものです。世界の先頭切ってやっていることですから、そりゃいろいろ障害も出てきましょう。そこを何とかやりくりするのが先駆者のつらいところで、それを、ほんの五十年ぐらいで取り下げちゃいけません。
 戦争は病気と同じです。病気はかかったらもうおそい。かかりそうになったら、でもおそい。それよりふだんの、かかる前の予防が大切だとお医者に教わりました。
 戦争も、私たちはよく知ってますが、はじまってしまったらもちろんのこと、はじまりそうになったら、もう止められません。戦争のケハイが出ても、もうおそいのです。ケハイの出そうなケハイ、その辺ですぐつぶしておかないと・・・つまり、戦争は早期予防でしか止められません。しかも、その戦争のケハイなるものが、判りにくく、つかみにくいのです。戦争の反対は平和ですが、平和のための戦争、と称えるものもありますしね。いえ、おかしなことに、いつもそうなんです。あの戦争の時も、
 ♪ ・・・東洋平和のためなら、なんの、いのちが惜しかろう(「露営の歌」)
 と、毎日歌って戦いました。ですから「国際貢献」「国際協力」「世界平和を守るため」というのも、こわいケハイです。 ♪ 国際貢献のためならば、なんの、いのちが惜しかろう・・・ということにならないように、なんとしても、予防しなくては!」

 いま一度「小沢昭一的 反戦のこころ」を。

青い目の人形 〜掌説うためいろ余話〜

2016年09月08日 | エッセイ

「青い目の人形」は1921年(大正十年)「金の船」十二月号に発表された。

   青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
   日本の港についたとき 一杯涙をうかべてた
   「私は言葉が分からない 迷子になったらなんとしょう」
   やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
   仲よく遊んでやっとくれ

 野口雨情のテーマは「国際愛」である。本居長世が優しい曲を付けた。
 その後レコード化され、日本中に知られる童謡となった。実はこの歌はアメリカの日系人社会でも歌われたのである。
 大正十二年九月に関東大震災が襲った。世界中から救援募金や救援物資が集められ、日本に送られた。アメリカでも日系人を中心に募金運動が起こったが、そのときに「青い目の人形」のレコードが掛けられた。アメリカから寄せられた募金額や救援物資が一番多かった。
 このときの返礼として音楽家などで答礼使節団が組まれ、本居長世を団長にハワイとアメリカの西海岸でコンサートを開き、支援の謝意を伝えた。長世は二人の娘みどりと貴美子を伴い、彼女たちに童謡を歌わせたのである。

 その後、アメリカ国内に排日運動が起こり始めた。アメリカの日本や中国からの移民に対する黄禍論は度々繰り返されてきた。日露戦後にも黄禍論と黄色い移民の排斥運動は起こった。彼らがアメリカ人から仕事を奪っているというのである。暴動も散発し日米関係は悪化していった。
 シドニー・ルイス・ギューリック博士は、この国内の排日・排斥運動、移民制限に心を痛めた。彼は宣教師として1888年(明治二十年)から通算二十数年を日本で暮らし、布教と教育活動に当たった親日家である。
 博士は童謡「青い目の人形」を思い出した。救援募金の時に流れていた歌であり、その後に本居長世の娘が歌っていた「青い目の人形」である。日本には雛祭りという、女の子の健やかな成長を祝うお祭りがある。関東大震災で人形を失った子どもたちも多かろう。日本の女の子、子どもたちにアメリカの人形を贈ろう。「国際親善や、人と人との理解は子どものうちから」「世界の平和は子どもから」だ。
 ギューリックはかねてから昵懇の渋沢栄一に仲介してくれるよう手紙を出した。渋沢栄一もアメリカの移民制限、排日、排斥運動と、日米関係の悪化を憂慮していた。彼はギューリックに共感し、自ら動くことにした。
 渋沢は明治十二年に来日した前大統領のグラントを飛鳥山の自邸に招いたり、明治三十五年の欧米視察の際にテオドア・ローズヴェルト大統領に面会している。彼は第一級の民間経済外交家であった。明治四十二年には渡米実業団の団長として渡米、大正十年にも二度渡米している。
 ギューリックらを中心に世界児童親善会が結成され、日本に人形を贈るプロジェクトが動き始めた。
 まず友情人形を募るポスターや手引きの冊子「お人形が親善のメッセンジャー」を配布した。日本の子どもたちに人形を集めて贈るためのマニュアルである。教師らは人形を介しての親善・友好の意義を、子どもたちに話し、また日本に着くまでの道のりや、日本の文化などを紹介した。
 バザーやパフォーマンス公演で資金集め、決まったサイズの人形の購入、日本へ送るための旅券の手配、女の子と母親たちは人形の衣装や付属品を手作りし、それを着せた。人形にはそれぞれ名前が付けられ、それに友情の手紙も添えられた。世界児童親善会は人形旅行局を特設し、人形を日本に贈るための手続きの代行を行った。
 このプロジェクトに携わったアメリカの児童、保護者、教師、関連団体等の人たちは、約260万人という。
 こうして1927年(昭和二年)に、アメリカからパスポートと渡航切符と手紙付きの人形が、その年の雛祭りに間に合うようにと贈られたのである。
 その数は一万三千体である。その多くはビスクドールで、横たえると目をつぶり、お腹のあたりを押すと「ママ」と言葉を話す仕掛け人形だったという。第一陣として一月に八百体が先に送られた。

 日本側では渋沢栄一の肝入りもあり、文部省や外務省も動き、日本国際児童親善協会が組織され、それらの省から役員が選ばれた。先に届いた人形は、都内の五ヶ所の百貨店で「青い目の人形展」として大評判となった。
 三月三日の雛祭りの日に、東京千駄ヶ谷の日本青年館と、大阪市中央公会堂で人形の歓迎式典が行われることになった。それに先立ち、日本放送協会は高野辰之に「人形を迎へる歌」の作詞を依頼し、東京音楽学校が作曲を担当した。
 青年館には都内の各小学校の代表児童や、日米関係者など二千人が集まった。
 アメリカの少女が日本側の児童代表の少女に人形を手渡すときに、マクベー駐日大使が傍で挨拶に立ち、「自分は痩せているからサンタクロースに似てないが、幸福と愛情を届ける友好の人形を日本のお嬢さんたちに贈ります」と言った。そのとき共に壇上に並んでいた渋沢栄一は「では八十八歳の私がサンタクロースになって貴い意義あるお人形さんを、日本の少女たちに配ります」と言葉を添えた。彼は丸々と太っていたため、会場は爆笑と拍手で沸いた。
 その後、高野辰之作詞、東京音楽学校作曲の「人形を迎へる歌」が演奏、合唱されたのである。

   海のあちらの友達の まことのこもってる 
   かはいいかはいい人形さん
   あなたをみんなで迎へます

   波をはるばる渡り来て ここまでお出での人形さん
   さびしいやうにはいたしません
   お園のつもりでゐらっしゃい

   顔も心もおんなじに やさしいあなたを誰がまあ
   本当の姉妹と 思はぬものがありませう

 こうして、親善使節の人形たちは全国各地の幼稚園や小学校に配布されたのである。
 それにしても「人形を迎へる歌」は、作詞までの時間がなかったとは言え、あの高野辰之でもやっつけ仕事をしてしまうのか。題名も良くない。
 曲はどんなものか全く知らない。日本放送協会はその歌を何度か全国放送で流したと思われ、また各学校に人形が配布された際の式典でも、各校の児童たちによって歌われたと思われるが、その後誰も歌わなくなったのである。
 今でも歌われ続けているのは、野口雨情作詞、本居長世作曲の「青い目の人形」ばかりである。

 さて、アメリカから贈られた人形の親善使節に対する答礼として、渋沢栄一や日本国際児童親善会などの呼びかけで、人形を受け取った幼稚園や小学校の親たちからも募金し、市松人形を送ることになった。五十八体が選ばれ、各県にちなんで、台座部分に例えば「ミス島根」「ミス静岡」とかを彫って入れた。それらは青年館で壮行会を開かれ、ホノルルに旅立ち、やがてサンフランシスコに送られて、二手に分かれて全米で巡回展示されたらしい。その後は各地の博物館や美術館に収蔵されていったという。

 昭和十六年、十二月に真珠湾攻撃があり、日米は開戦した。ギューリック博士は驚愕し、悲しんだ。同志の渋沢栄一は、すでに十年前、この悲劇を見ずに鬼籍に入っていた。
 昭和十八年の毎日新聞は「青い目をした人形憎い 敵だ許さんぞ仮面の親善使」と出した。文部省はアメリカの親善使節人形を贈られた幼稚園や小学校に対し、その廃棄、焼却を求めた。学校によっては、子どもたちに人形を竹槍で突かせて破壊した。戦争ほど人を狂わせるものはない。戦争ほど愚かなものはない。
 雨情、長世の「青い目の人形」「赤い靴」を歌うことは禁止された。
 山田耕筰は演奏家協会を設立し会長となり、ナチスをモデルに演奏家協会音楽挺身隊を結成しその隊長ともなった。彼は皇道翼賛と国家主義を鼓吹し、戦地への慰問活動や戦意高揚の音楽活動に積極的でない音楽家たちを「楽壇の恥辱」と激しく罵った。「平和的な音楽は葬られるのが当然」「戦争に役立たぬ音楽は要らぬ」「全日本の音楽関係者が欧米模倣の域を脱却し、皇道翼賛の至誠を尽くすべき」と吠えた。
 雨情は茨城県の田舎に疎開した。詩人は戦争には無用の存在とされた。気力も失せ病を得た。食うにも事欠く日々を送り、終戦前に亡くなった。長世は「楽壇の恥辱」に甘んじ、音楽活動から身を引いた。彼は終戦を迎えたが病を得て、気力も失い、その一月後に亡くなっている。

 ちなみに、大正十年「金の船」十二月号に発表された際は「青い目の人形」だったが、いつしか「青い眼の人形」になっている。これは意図的な改題ではあるまい。そこまで意識はされておらず、印刷上そうなってしまったのではなかろうか。また、雨情もこだわっていなかったのではなかろうか。現在は童謡が「青い眼の人形」、アメリカ人形の親善使節が「青い目の人形」と表記されるらしいが、その経緯や理由は知らない。また興味もない。

  

大岡昇平さん、戦争指導者を憎悪する

2016年09月07日 | 言葉
                                                            

 われわれの死に方は惨めだった。われわれをこんな下らない戦場へ駆り立てた軍人共は全く悪党だった。芸妓相手にうまい酒を飲みながら、比島決戦なんて大きなことをいい、国民に必勝の信念を持てといい、自分達はいい加減なところで手を打とうと考えていた。
  (「ミンドロ島再び」)

 彼は対談集の中で、こういうことも言った。


 戦後25年、おれたちを戦争に駆り出したやつと、同じひと握りの悪党どもは、まだおれらの上にいて、うそやペテンで、同じことをおれたちの子どもにやらせようとしている。


 彼らを「戦争に駆り出したやつと、同じひと握りの悪党ども」の孫たちが、祖父の時代を「美しい日本」と呼び、その美しい「日本を取り戻す」のだと獅子吼している。彼らが再び国民を戦争に駆り出しかねない異常な空気が、いま日本を覆い始めている。特定秘密保護法を成立させ、安保法制を強行採決し、閣議だけをもってして憲法解釈を捻じ曲げ、都合の悪い意見を持つ内閣法制局長を更迭し、NHK会長や経営委員は全て総理の友人で固め、メディアを恫喝、圧力をかけて政権に批判的キャスターたちを降板させる。両院ともに三分の二を確保したので、いよいよ憲法9条の削除をはじめとする壊憲が始まっている。


大正の話

2016年09月06日 | エッセイ
              

 演芸評論家、随筆家の矢野誠一の「大正百話」は、私の愛読書のひとつである。百話といいながら、それには少し足りないが、各話短く適度な文章で、どこから読み出しても楽しい。
 矢野は「舌代」に言う。舌代とは簡単な口上書きのことである。
「西洋暦で一九一二年から一九二六年にあたる、世に言う大正デモクラシーの時代は、正に日本版ベル・エポックであったように思う。」
 続けてお芝居の中の、実際のこの時代に青春を送った革命家の終幕の台詞を紹介する。
「考えていたんだが、この大正という時代、のちになったら、みんながそういうだろうね……のどかな……じれったいほどのどかな、美しい、いい時代だったとね。……つらい。何が、よき時代なものか」
 風俗、世態、人情、事件、思想、哲学、文学、演芸…「際立って特徴的な色彩を発揮してのけている」が、戦争をしていなかった事がもたらした、稀有な文化の時代だったのか。

 ちょうど十年前に「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」というCD絵本に関わって以来、私は童謡唱歌が気になり、明治の日清、日露の戦争前後から大正時代、そして昭和の戦前戦中、敗戦までの時代を調べるようになり、「掌説うためいろ」を書き出した。
 滝廉太郎、武島羽衣、土井晩翠、夏目漱石、岡野貞一、高野辰之、野口雨情、そして鈴木三重吉が童謡運動を起こし「赤い鳥」を創刊した。そこに北原白秋、西条八十らの詩人や、山田耕筰、成田為三、中山晋平、弘田龍太郎などが参集した。「金の船」も創刊され野口雨情らが優れた童謡詩を掲載した。ここに世界にも類稀な児童文学運動が起こったのである。
 それらのことだけを見れば「じれったいほどのどかな、美しい、いい時代」に思えるが、経済の浮沈激しく、旧家の没落や逃散、身売りの時代でもあった。
「赤い鳥」創刊の年、富山に発した米騒動が全国に燃え広がった。そもそも明治の末は忠君、愛国が声を大に謳われ、大逆事件が起こり、特高警察が発足し、言論への締め付けも強まり、うかうかとした発言はよほど気をつけねばならず、また自粛する傾向にあった。「つらい。何が、よき時代なものか」
「赤い鳥」運動は文部省唱歌の批判から起こった。硬い漢文調の美辞麗句と紋切り型の言葉ではなく、子どもたちの言葉で詩を書こうというのである。しかし、もうひとつの三重吉らの本心、本当のことなど、口に出して言えるものか。大逆事件はつい十年前のことなのである。文部省唱歌に押し込められた忠君、愛国思想と、戦争の歌、兵隊さん、軍人さんを讃える歌…子どもたちに、そんな歌ばかりを教えていいものか…ということではなかったか。

 まさに「大正百話」は学者の歴史家が取り上げぬような市井の稗史、世相の空気、世俗のスキャンダル、芸能界スキャンダルとこぼれ話なのである。
 そののっけの話は「廃朝中の歓楽街」である。つまり明治四十五年七月三十日、尿毒症のため天皇崩御の報。
 これによって全国藝妓屋同盟本部はお触書は発表されねど通達あるまで休業。芸妓の外出も禁止、遊郭も休業、三十日は遊女たちの検査日なれど結び髪や下髪に直して謹慎。芝居、寄席、活動写真その他一般遊楽場は悉く休業。各種の製造工場、大商店、大料理店も悉く弔旗を掲げ休業。仕事をなくしたその日暮らしの芸人たちの中には、部屋に籠ってできる内職をする者もたくさんいたという。歌舞音曲の停止は八月四日に解かれたものの、なおも遠慮しても五日、一週間の停止延長もあった。
 ちなみに先の今上天皇の生前退位の「お気持ち」には、天皇の崩御に際しての、これらの自粛による庶民生活停滞への気遣いも込められていた。

 次は「歌姫環の家出」で、柴田環(三浦環)のスキャンダルである。続く「原のぶ子の上海道行」は、三浦環の後釜を狙っていた東京音楽学校の美形・原のぶ子のスキャンダルである。
 名人圓喬の死、消えた歌舞伎座の芝居茶屋、圓蔵・むらくの喧嘩、真砂座のストライキ、花魁の表彰式、訴えられた雲右衛門、蝶花楼馬楽の死、芸術座の崩壊、金髪藝者リーナ、当世吉原事情、弁士の楽屋……と、芝居、寄席などの話が主であるが、このこぼれ話が面白い。また築地小劇場の設立や、関東大震災下の役者や噺家たちの様子をよく伝えている。
 島村抱月と松井須磨子の醜聞と死も興味を惹くが、彼らと同じ空気を吸っていた中山晋平についても想いが飛ぶ。まさに「赤い鳥」と童謡運動と同じ時代である。
 旧家が没落して新興成金が登場し、また新興財閥が形成されていく。景気の良い社会と絶望の社会が二極化していった。
 ロシア革命に際し、寺内内閣は欧州諸国や、特にアメリカからシベリア出兵を強く要請され、ついにそれに踏み切った。それを機に米騒動が起こったのだが、寺内内閣は軍隊を動かしてこれを取り締まり、いよいよ言論統制を厳しくしたのである。その頃、徳山湾に停泊中の弩級戦艦「河内」が大爆発し、六二一名の死者を出した。これらを大阪朝日新聞が政府批判を展開すると、編集者らは告発され、社長は右翼の黒龍会によって襲撃された。
 大逆事件に際しての永井荷風もそうだが、日本の作家、知識人、文化人は政府に対して、誰も声を上げないのである。ただ黙するのみ。…
 そして関東大震災である。朝鮮人、中国人、沖縄人の虐殺、無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝と親戚の子の虐殺、拘束されていた共産主義者や労働組合運動家の虐殺。
 芥川龍之介は「唯ぼんやりとした不安」を感じており、昭和二年に死を選んだ。じわじわと、締め付けられるような息苦しさも進行していたのである。
「…つらい。何が、よき時代なものか」……やがて昭和に入ると、司馬遼太郎が「異胎」「鬼胎」と憤怒を込めて言う「統帥権」が、いよいよそのおぞましい声を上げ始めるのである。

 この矢野誠一の著作も、先日紹介した白崎秀雄の著作も、読むと語彙がとても豊かになる。ああこういう言葉、こういう表現方法があったのか…と。