芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

なかにし礼さんの言葉

2016年09月15日 | 言葉

 改憲論者とは戦争をしたい人たちなんですよ。日本には米軍基地がまだある。だから、真の独立のために戦争するというのであれば、まだわかる。しかし、彼らは集団的自衛権を行使して米国と一緒に戦争をするために憲法を変えたいわけでしょう? 論理破綻しているし、美しくもなんともない話です。安倍さんはただ祖父、岸信介が活躍した戦前の軍国主義の世の中に戻したいのでしょう。これは極めて個人的な心情で、岸信介を神とする信仰のように見えます。
  (日刊ゲンダイのインタビューより)

                                                             

器用貧乏?

2016年09月14日 | エッセイ
           

 平成五年(1991年)に、田端文士村記念館のオープニング時のイベントを依頼された。田端文士村記念館の名称だが、当時の館内の主たる展示を見渡せば、それは芥川龍之介記念館に等しかった。
 私はここで、手話ひとり語り(ボディランゲージ)で世界オンリーワンの活動をされていた丸山浩路さんのパフォーマンス公演を提案した。彼はよく舞台で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「藪の中」を演じていたからである。
 その際の音楽効果、伴奏は横笛奏者の横田年昭さんであった。横田さんはもともとジャズフルーティストとして知られていたが、伊豆の稲取に移り住み、作務衣を着て、飄々とした仙人のようであった。彼は裏の竹林の竹で笛を作り、窯で土笛を焼き、時にアボリジニのディジュリドウを演奏していた。
 この丸山浩路さんの「蜘蛛の糸」「藪の中」の手話一人芝居と、横田年昭さんを幕開けにやったのである。

 このイベントの実施にあたり、何回かオープン前の記念館に伺ったのである。実はそのとき、恥ずかしながら小杉放庵の名を初めて知り、田端文士村の形成を知ったのだ。
 明治三十三年、小杉国太郎(放庵)が最初に田端に住み始める。入会し指導を受けていた洋画会に通うのに都合が良い場所ということだったらしい。この小杉放庵は、強い磁力、引力を持った人物らしく、次々に文人や陶芸家、俳人、画家や詩人たちが、吸い寄せられるように田端に住み始めたのだ。
 田端文士村は、小杉放庵がここに住み始めたことで形成されていくのである。小杉放庵の友人たちは、彼と気のおけぬ話をしたい、あるいは芸術論をしたい、あるいは彼と酒を飲みたいなどの理由で、集まり始めたのかも知れない。

 私がこのイベントをやった頃、小杉放庵は一般にはほとんど知られていなかったのである。印象としては、放庵は「器用貧乏」なのではないかと思われた。作家が作風・画風を変えたり、新しいものに挑戦することはよくあるのだろうが、小杉放庵は作風・画風をよく変えたと思われる。そして画号(筆名)も三度変えた。
 彼は最初、小杉未醒を名乗り、洋画家であった。次に小杉放菴を名乗り、日本画家となっている。さらに小杉放庵と変え、後年は南画を描いている。

 小杉放庵は明治十四年、日光の二荒山神社の神官で国学者の小杉富三郎の子として生まれた。本名は国太郎である。父の富三郎は後年、日光町長も務めた。
 国太郎は地元の洋画家の弟子となるが、勝手に上京し白馬会洋画研究所に入るも、病を得て帰郷。また上京を繰り返した。
 明治三十三年、小杉国太郎は田端に移り住んだ。明治三十六年、放庵は国木田独歩と出会った。彼は独歩の主宰する「近時画報社」で挿絵や漫画を描いた。
 明治三十七年から未醒の号で太平洋画会に出品し、画家として評価を得た。
 日露戦争が始まると近時画報社の従軍記者として戦地に赴き、迫力に溢れた戦争画を描くとともに、漫画的な絵も描き人気が出た。
 彼はユーモア画(漫画)も描き、ロゴデザインも制作している。漫画は岡本一平に影響を与えたと言われている、また後年、田端に住居した田河水泡にも多少の影響を与えているのかも知れない。安田講堂の壁画を手がけ、洋画と日本画を融合させたものだと言われ、高い評価を得ている。また放庵は都市対抗野球の「黒獅子旗」のデザインを手がけた。
 小杉放庵はテニスや野球、空手など多彩なスポーツや趣味をたしなんでいる。野球については、田端に移り住んだ正岡子規とも語り合ったかも知れない。「ポプラ倶楽部」という芸術家の社交倶楽部を作り、テニス大会を開催した。
 また彼は押川春浪が主宰する「天狗倶楽部」という社交団体にも参加し、日本のテニスの振興に大きな功績を残した針重敬喜とダブルスを組んで、東日トーナメント(後の毎日テニス選手権)にベテランの部に出場して優勝を果たしている。本格的なテニスプレーヤーだったのである。
 しかし彼は何と強い磁力、引力を発していた人であったろうか。大正時代になってからだが、あの夭折したデカダンの天才画家にして放浪の詩人・村山槐多は、小杉放庵の田端の家に転がり込んでいる。放庵は村山槐多のような凶暴な魂さえも魅了したのであろう。
 
 田端文士村記念館のイベントから二、三年後であろうか、たまたま読んでいた本の中に、小杉放庵の名を見つけた。山口昌男氏が「『敗者』の精神史」の中に「小杉放庵のスポーツ・ネットワーク」を書いていたのである。その章のサブタイトルは「大正日本における身体的知」というものであった。その冒頭は「小杉放庵復活」である。少し長いが引用したい。

「時代は小杉放庵(未醒)の復活へと向かっている。小杉放庵と親密な関係を結び、放庵と仕事の上で緊密な協力関係にあり、芸術的にも近い様式の持ち主であった画家たちの回顧展が目につくようになっている。一九九三年夏、国立近代美術館で回顧展が展開されている小川芋銭が、その最もよい例である。
 正直言って小杉放庵は、近代日本絵画史の中では評価が低いというわけではないが、特に高い位置が与えられているとも言い難い。美術全集に収まることは少ないし、戦後も小杉放庵についての著書は二冊あるだけである。
 しかしながら、その生涯が明治、大正、昭和(戦後)にまで相わたっていること、日光の山奥と都市的感性、洋画と日本画、漫画と芸術絵画との橋渡し、国木田独歩、田岡嶺雲、大町桂月、内藤鳴雪(俳人)、沼波瓊音(俳諧研究者)、押川春浪ら、ポプラ倶楽部と称するスポーツ任意団体の結成、山本鼎の信州における農民美術研究所への協力等々、その同時代へのかかわり合い方は、今日我々を刺激してやまないものに満ちている。つまり小杉放庵は明治から大正にかけて一個の魅力ある多彩なメディアであった。」

 そうだ、小杉放庵という存在そのものが、芸術とスポーツの、気のおけぬ、かつ最新の、本格的なメディアだったのだ。

 それからからまた数年後のある日、友人の美術キュレーターから、「小杉放庵を知っているか?」と尋ねられた。私は田端文士村の話や、山口昌男の「『敗者』の精神史」の話をした。
 私は彼から日光にオープンする「小杉放菴記念日光美術館」の相談を受けた。また館内に流される映像制作物に関するアイデアを求められた。今は記憶も曖昧だが、流れ落ちる滝と滝壺の猛烈な飛沫が、いつしか小杉放庵がいた風景やその作品、彼が関わったスポーツ、あるいは彼の周辺の人物たちの映像とオーバーラップしていく、というようなプランを提示したと記憶する。二荒山神社の朱色、深い樹木、そして柔らかな風光、柔らかな南画…ユーモラスなコマ絵。

 だいぶ以前NHK教育の「新・日曜美術館」で、パリ在住の画家・小杉小二郎を紹介していた。小杉小二郎はフランスではとても評価の高い人気画家ということであった。その番組で彼が小杉放庵の孫であると知った。
 私は相良眞児郎という写真家とだいぶ以前から何度も一緒に仕事をしてきた。彼は子猫の写真を得意とし、「かわいい子猫のヨーロッパ旅行」などの写真集で知られていた。その写真展などをやってきたのである。
 ある日、彼と雑談するうち、私はたまたま小杉放庵について話をした。すると彼は驚いたような顔をした。そして「小杉放庵は僕の祖父です」と言ったのだ。私も驚いた。彼とはそれまで二十年以上の付き合いになるのに全く知らなかったのだ。私がNHK教育の「新・日曜美術館」で放庵の孫・小杉小二郎を紹介していたという話をすると、相良氏は「従兄弟です」と言った。それはそうだろう。
 ある時テレビの「なんでも鑑定団」を見ていたら、小杉放庵の絵が登場した。その絵は本物と鑑定され、驚くような値がついていた。しかし、小杉放庵の名と業績は、日光では知られているだろうが、一般には未だ知る人ぞ知る存在なのではなかろうか。

     

今来の人 アスリート篇

2016年09月13日 | ミニコラム

 インド人とのハーフがミス日本に選ばれ、「まともな日本人を選ぶべき」「純粋な日本人が選ばれるべきだった」という声が寄せられたという。
 古代(飛鳥時代)から奈良時代は渡来人の時代だった。吉備も大和も八割方は「今来の人」と記録されている。つい最近やって来た渡来人という意味なのである。早く渡来した人たちとの差は百年からせいぜい三百年なのである。間もなく日本も、「経済」と「労働力確保」の必要に迫られ、かつ人口減少に歯止めをかけるべく、移民と難民を受け入れなければなるまい。もともと八割方は「今来の人」の島なのだ。ハイブリッドで結構。近年活躍のアスリートたちを見よ。

 オコエ瑠偉(野球)、ディーン元気(やり投げ)、宮部藍梨(女子バレー)、高松望ムセンビ(駅伝)、ケンブリッジ飛鳥(陸上・短距離)、ヘンプヒル恵(七種)、サニブラウン・アブデル・ハキーム(陸上・短距離)、ベイカー茉秋(柔道)、大坂なおみ(テニス)、張本智和(卓球)、渡嘉敷来夢(女子バスケット)、比留木謙治(男子バスケット)、辻本賢人(野球)、日野龍樹(フィギュアスケート)、ウィリアムソン師円(スピードスケート)、篠塚一平(サッカー)、ハーフナー・マイク(サッカー)、長谷川アーリアジャスール(サッカー)、ヘンプヒル恵(陸上)、出口クリスタ(柔道)、堀川真理(女子バレー)、樋口賢(野球)、高橋祐治(サッカー)、ダルビッシュ有(野球)、室伏広治(ハンマー投げ)…


        

ちばてつや さんの言葉

2016年09月12日 | 言葉
                                                   

 非常に私は不安に感じてますね。そっちの方向に行っていいのかな? そっちの方向に行かない方がいいんじゃないのかな? 日本はもっと良い方向がある。戦争をしない国っていうふうにみんなが認め始めてるんでしょ。日本には憲法があるんだから、絶対戦争できないんだよあの国は。戦争をしない代わりに、色んなところでね、橋つくったり、井戸を掘ったり、そういうことで困った人に薬をつくってね、この間もノーベル賞でいい仕事しましたよね。そういうことで世界中の人に、みんなから尊敬される国になったらいいのに…

エッセイ散歩 漂泊の人

2016年09月11日 | エッセイ
                                                             

 私はヘビが嫌いである。特に毒蛇は大嫌いだ。しかし以前はよく百貨店で「世界のヘビ展」「世界の毒ヘビ展」「大爬虫類展」などという、とんでもないイベントが行われていた。後に私はハキイ(波木井)イベント研究所というイベント会社と知り合ったが、この会社が「ヘビ展」をやっていたのである。

「男はつらいよ」のフーテンの寅こと車寅次郎は、実は奄美大島でハブに咬まれて死んだのである。
 渥美清はTBSで青島幸男(後に中村嘉葎雄も加わる)と交互に「泣いてたまるか」に主演し当たりをとった。そのとき知り合った松竹の山田洋次監督と、フジテレビのドラマ「男はつらいよ」をやることになった。
 これは昭和43年、44年に放映され、非常に評判が良く、渥美清は絶好調であった。しかしその最終回、山田洋次は寅次郎をハブに咬まれて死ぬという形で終わらせたのである。寅次郎の舎弟分の裕次郎(佐藤蛾次郎)が、柴又の寅次郎の妹さくら(長山藍子)にその死を伝えに帰るのである。
 その最終回は非常に評判が悪く、フジテレビには抗議の電話や手紙が殺到したらしい。山田洋次は寅次郎を映画で再登場させることにした。それは大ヒットしシリーズ化された。しかし今度はどう終わらせるか迷ううちに48作まで続き、この記録的シリーズは渥美清の死で終わった。
 車寅次郎は放浪と漂泊の人であった。
 ここまでが落語で言う枕である。

 明治二十六年(1893年)五月、青森県弘前城下に暮らしていた笹森儀助は、南西諸島(沖縄や奄美)の探検の旅に出るにあたり、家族と別れの水盃を交わした。
 当時の南西諸島は疫病(マラリア)や毒蛇(ハブ)という危険な島なのであった。ハブに咬まれ無事に戻れないことも考えられた。彼は家人に自分の遺体を東京帝国大学病院に、医学研究のために献体するようにと言った。ハブに咬まれて運良く助かっても、体が不自由になることも考えられた。
 笹森儀助は、間もなく五十歳になろうとしていた。痩躯で、顎髭にも白いものが目立っていた。
 笹森儀助は弘化二年(1845年)に弘前藩士の子として生まれた。藩校の稽古館に学び青森県庁に勤め、中津軽郡長も務めた。その頃の笹森の言葉である。「私が役人となってつとめているとき、心をくだいていることは、ただ民権を守るという一点だけである。」
 しかし笹森の民権は、当時流行の自由民権ではなかった。彼はむしろ自由民権運動には反対の保守派であった。笹森の民権は人間の土地の生活に根ざした「民権」なのである。例えば「入会山」の権利という民権である。
 明治十四年に彼は突然辞職した。笹森は当時の青森県令が、自由民権運動の団体と対立する笹森らの保守派団体を合同させようとしたことに、大反発したのであった。彼はともに辞職した者たちと共に、牧場を運営する農牧社の経営にあたり、後に社長となった。
 しかし彼は「貧旅行」と称する旅に出た。旅費は十年間にわたり、十銭、二十銭と蓄えたものだという。
 各地の生産力やその生活をその目で調べ、地租軽減地価修正論を実地に確認しようというのである。また彼は近畿地方や九州まで歩き回り、各地の神社や古墳まで調べた。もともと彼は経営者というより、その本質は民俗学者的な冒険の人だったのだろう。笹森は「貧旅行記」を残した。

 笹森は農牧社の社長を辞し、陸羯南の助言を受けて軍艦磐城に乗り込み、千島列島の探検に出た。先行していた片岡利和探検隊と合流し、択捉島、占守島、幌筵島などの風土を探検した。相当危険に満ちた旅だったらしい。彼は土地の古老などに話を聞き、それらを「千島探検」にまとめた。彼の関心は「北辺の防備」だったのである。
 笹森は井上馨に面会した折、日本の製糖事業振興のために南島を調べて欲しいと頼まれた。彼は了承した。笹森の関心は「南の島々の国防上の価値」であった。彼より先に沖縄諸島を探検していた植物学者の田代安定の話を聞きに行った。そのとき田代はマラリアに罹患してからいまだ回復せず、危険な状態が続いていたのである。笹森は死を覚悟した。彼は再び陸羯南の助言を受けた。

 明治十二年、沖縄は琉球処分を受けて日本の版図に組み入れられていた。琉球は独立国だった頃から中国との交易を行ってきた。経済、文化と、心情的には日本より清国に親しみを持っていた。特に宮古群島、八重山群島の人々は、寛永十四年からずっと人頭税という島津藩の悪法に、二百数十年苦しめられてきたのである。
 笹森儀助は宮古島で、住民たちの役人たちへの憎悪を目の当たりにした。住民たちの暮らしぶりは悲惨であった。まるで、懲役人、奴隷であった。八重山諸島はマラリアが猖獗をきわめていた。彼が目にしたのは死滅した廃屋となった村々であった。西表島もマラリアの島であった。
 
 笹森は東京に帰還し「南嶋探検」を著し、ここで惨状の主たる要因を人頭税として、政府の沖縄行政の無策、無能を批判し、その廃止を訴えた。彼は数字を挙げて例証している。この書が人頭税廃止運動につながり、この非道の悪法は明治三十六年になって廃止された。
 笹森は南嶋から帰った翌年、奄美大島の役人の頭「大島島司(おおしまとうじ)」に任命され、三番目の娘を伴って赴任した。自分が死んだ際、娘に遺骨を持って帰ってもらおうという配慮からであった。何と言ってもハブの島である。
 奄美大島はもともと琉球国の一部であったが、慶長年間に島津藩に奪われ、明治後は鹿児島県に含まれた。島には鹿児島の商人が入り込み、島民に対してかなり横暴であった。笹森は常に島民の側に立ったため、この鹿児島人たちに憎悪され続けた。笹森はこの間、視察先で暴風雨に曝され、また病にも倒れている。大島島司を四年間務めた後、辞めてしまった。
 その後また軍艦に乗り込み、朝鮮の海岸沿いを踏査し、さらにシベリアを旅行しハバロスクに行った。さらにロシア、中国、朝鮮の国境を調べて歩いた。
 日露戦争の前である。あの軍事探偵・石光真清が、ニコリスク近くの汽車の中で笹森儀助に出会ったことを記録している。放浪と漂泊の人、石光真清は、笹森儀助の異風をこう活写した。
「私はその風体を見て、おもわず微笑した。ところどころ破れて色の冷めたフロックコートに、凹凸のくずれかかった山高帽をかぶり、腰にはズタ袋をぶらさげ、いま一つ大きな袋を肩からななめにさげていた。しましまのズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖に支えて入ってきたのである。」

 帰国後の彼は第二代の青森市長になり、銀行の監査役にもなった。また私立青森商業補修夜学校を設立し、校長にも就任した。しかしその晩年は不遇であったという。彼は寡黙な人で、ほとんど自分のことを語らなかったらしい。その後、彼の存在も業績も埋もれ、地元の青森でも長らく忘れられた人となった。
 笹森儀助は放浪と漂泊の人であった。