芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

ジュリアン・バーンズの愛国心

2016年09月20日 | 言葉
      
                         

  最高の愛国心とは、
  あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、
  それを言ってやることだ。


   ジュリアン・バーンズは、現代イギリスの人気作家である。   

あの有名な…

2016年09月19日 | エッセイ
                                                              

 イベントを業としてきた者としては、「してやったり!」と思う時が最も嬉しい。自主企画もあるが、私の場合はクライアントや広告代理店からの依頼が大半であった。その依頼内容から、目的と、どうすればその目的を効果的に達成できるかを考えて企画をし、その企画意図通りにプランが決定して実施され、かつ予想以上の好評価を得たとき、「してやったり!」なのである。
 さらにそのイベントの中に、クライアントや代理店の方たちにも、また一般にもほとんど知られていない優れものや、かつ本邦初のものを紹介できれば、喜びはひとしおである。
 規模の大きいものから極々小さなイベントまで、年間約百件近いイベントを実施してきた。その中で「してやったり」と思うものは一件か二件に過ぎない。また決定に至らなかった企画だけの件数なら、実施イベントの三倍は超えただろう。
 実はその決定に至らなかったイベント企画に、「あれをやっていれば面白かっただろうな」と、未だに愛惜の念を抱くものもある。仲間内で、「ボツ企画展」をやったら大受けするだろうと笑いあったこともある。

 三十年も前のことである。A広告社から大規模な分譲地の販促イベントの企画を依頼された。もちろんA社の他に三社が参加するコンペである。イベントの提示予算も大きく、A社の担当部局と担当者も力が入っていた。クライアントは相模鉄道と相鉄不動産であった。企画に先立ち、すでにマーケティング調査が先行しており、その局から分厚い報告書が提示されていた。クライアントからのオリエンシートを元に、すぐに営業、マーケ、クリエイティブ(コピーライター等)、PR、SP等が集まり会議が始まった。当然私はSPの企画を担当することになった。
 私は営業とSPの方とともに、すぐ緑園都市をロケハンに行った。分譲地は実に広大で、緑を剥ぎ取られた砂漠のような大地は、道路で区割りされ、もともとの地主さんであろうか、大きな数軒の家が点在するばかりであった。
 マーケティング調査の資料や、オリエンシートにはこうあった。
 分譲地は「緑園都市」であり、緑園都市駅は相鉄「いずみ野線」に開業して間もない新駅である。いずみ野線は相鉄本線の「二俣川」駅から「いずみ野」駅を結ぶ支線である。緑園都市は広大な分譲地であり、神奈川県・横浜市ばかりでなく、東京、千葉県、埼玉県、茨城県、山梨県にもアプローチしたい。つまり千葉・埼玉県などの遠方から首都圏に通勤されている方にとって、緑園都市から首都圏に通勤する時間はほとんどかわらないのである…。しかしマーケ調査の結果では、神奈川県では相鉄、二俣川は知られているが、いずみ野線の認知度は意外に低い。東京でも相鉄の知名度は高くない。いずみ野線、緑園都市の認知度はかなり低い。埼玉県、千葉県ではそれらの認知度はさらに落ち、いずみ野線も緑園都市も、知る人はほとんどいない。…
 つまり有名にしなければならないのだ。
 オリエンシートにはこう記してあった。「土日に大きな特設ステージを組み、有名アーティスト(例としてピンクレディや大物アイドル歌手、有名ポッブス歌手等)のコンサートを開催し、県外からも多くの集客を図り、緑園都市、いずみ野線、相模鉄道の認知度アップを図りたい。また分譲地を購入する親子連れも楽しめるキャラクターショーやファミリーイベントで、現地下見や現地事務所での相談会などに誘致したい。…」
 つまり「緑園都市」は有名になりたいのである。いずみ野線も、相鉄線も県外にその名を知ってもらい、有名になりたいのである。私のコンセプトは決まった。「有名になりたい」である。
 またピンクレディやアイドル歌手、有名アーティストのコンサートを開催しても、やってくるファンが分譲地の購入層には思えなかった。土日土日のイベントを二、三度やっても、「緑園都市」の知名度が一気に上がるとも思えなかった。

 私の企画は決まった。
 企画書の表紙をめくると、一頁を使って「緑園都市は / 有名になりたい」とだけ書いた。二頁目は「有名にしましょう!」である。
 企画骨子は、土日土日のイベントではなく、二ヶ月間限定のキャンペーンであり、タイトルは「あの有名な緑園都市」キャンペーンである。
 まず二ヶ月間限定で駅名を変更する、駅舎の看板も、プラットホームの駅名表示も変更し、特別切符を発行する。駅の案内放送も社内のアナウンスも変更する。電車の行き先表示ロールも変更し、期間限定のヘッドマークを取り付ける。
 まず二俣川駅から出る「いずみ野線」の最初の駅名「南万騎が原」は、キャンペーン期間中は「ご存じ南万騎が原」とする。次が「あの有名な緑園都市」である。「あの有名な緑園都市」の次は「誰でも知ってる弥生台」とし、当時の終点「いずみ野」駅の名は「噂のいずみ野」である。
 駅員さんも車掌さんも恥ずかしがらずに、この駅名をアナウンスし、連呼していただく。
「ご乗車ありがとうございます。次は『ご存じ南万騎が原』『ご存じ南万騎が原』、降り口は左側でございます…」
「次は『あの有名な緑園都市』『あの有名な緑園都市』…」
「『誰でも知ってる弥生台』『誰でも知ってる弥生台』」
「次は終点『噂のいずみ野』『噂のいずみ野』です。…」
 電車に乗り合わせる女子中学生も高校生も、大人たちもクスッと笑うだろう、笑顔になるだろう。たちまち話題になるだろう、噂を呼ぶだろう。
 私には自信があった。ペイドパブに多額の予算を取らなくても、「あの有名な緑園都市」になれる。大手の写真週刊誌、週刊誌、新聞、スポーツ紙、在京テレビ各局、各局のお笑い芸人がリポーターを務める情報番組、情報バラエテイ番組、そして鉄道ファンの雑誌などにニュースレリースを発出する。放っておいても相鉄、相鉄不動産の広報には問い合わせや取材がやってくる。鉄道ファンが必ず、全国からカメラを担いでやって来る。特別切符も売れる。
 キャンペーン期間中の現地案内所を設置し、現地説明会や相談会も行う。キャンペーン最終週の土日は特設ステージを組んでコンサートをやる。ファミリー向けのキャラクターショーもやる。フワフワ大型遊具も置く。縁日もやる。
 キャンペーン終了の後、駅名は元に戻されるが、後日に鉄道ジャンク市も開催する。特別ヘッドマークも行き先表示ロールも、プラットホームの看板も全て販売する。いずみ野線ばかりではない全相鉄の鉄道ジャンク市でもある。
 これで、緑園都市は全国的に有名になる。いずみ野線も、相模鉄道も有名になる。
 企画書をつくり、A広告社の会議で説明した。会議室は騒然となった。みな興奮状態で「面白い! これはいける!」と口を揃えた。担当部局の部長だけが懸念を表明した。「ふざけ過ぎではないか」
 しかし、「あの有名な緑園都市」でブレゼンすることになった。
 相鉄へのブレゼンは実に好感触であった。担当者は顔を輝かし、ほころばせた。ブレゼン後、外に出たA広告社の面々は握手し合った。「決まったな」という人もいた。
 しかし結果、私たちは受注できなかった。相鉄の最終責任者である担当常務だか専務が言ったそうである。「ふざけ過ぎだ」
 やはり「あの有名な緑園都市」はふざけ過ぎだったのだろうか。
 実に残念であった。H堂が落札したらしい。その後のイベントを見ていたら、なあんだ、オリエン通りのものに過ぎなかった。駅と車内に近隣の子どもたちの絵画が掲出された。

 あるとき、A広告社で新たな企画の会議があった。A社のメンバーはSP局のプロデューサー以外は初めての方たちであった。名刺を交換し挨拶すると、その方たちが私の顔を見ながら言った。「もしかすると、あの有名な…の…」
 またある時、全く別の広告代理店から声がかかった。横浜でロケハンを兼ねて打ち合わせとなり、その担当者の方々と名刺交換をした。相手は私の渡した名刺と私の顔を見ながら言った。「もしかすると、『あの有名な緑園都市』という企画を書かれた方ですか?」
 実はずっと後に知ったのだが、H堂の企画を担当したのは、私が親しくさせていただき、お世話になっていたプロデューサーでプランナーの方であった。その方に「あの有名な…」の話をすると、「なあんだ、その企画の方がずっと面白かったね。もしそれが実現していたら、きっとあんたも有名になっていたよ」

                                                               

ああ稀勢の里

2016年09月18日 | 相撲エッセイ

 初日の敗戦で、稀勢の里の秋場所は終わった。ファンの興味も半減した。いやファンの秋場所もほぼ終わったに等しい。
 それにしても稀勢の里ほどファンを苛々させる力士も珍しい。なぜ苛々するかと言えば、それだけ応援している、稀勢の里ファンだからだ。
 稀勢の里は過度に緊張するタイプで、緊張すると立会いで立てない。それがここ二、三場所は影を潜め、落ち着きが出て、バタバタする相撲が減った。危ない相撲も運で勝った。そのため下位の力士に取りこぼしが減った。しかしあと一つ、大一番に勝てない。
 場所前のインタビューに「今場所が集大成」と稀勢の里は答えた。しかし稽古内容はあまり良くなかったと伝えられている。出稽古もせず、部屋の高安ばかりを相手にしていたという。「稀勢の里関には何が足りないと思いますか?」と聞かれた横綱の白鵬と日馬富士が言った。「苦手な相手を求めて、もっと出稽古に行かなければ」
 今場所は白鵬の休場が伝えられた。これは稀勢の里に初優勝の機会が増えたということではないか。まあ、他人の休場は関係なく、自分の相撲を一番一番、と答えるにちがいないが。

 初日の一番は「ぬうぼー」とした隠岐の海である。身体も大きく、懐が深く、また柔らかい。その彼も大器と言われながら、ほとんど勝ちたい、大関や横綱になりたいという強い欲に欠け、とうとう30歳になってしまった。隠岐の海と親しい好角家によれば、彼は自分の出世計画を持っていたという。25歳までに大関に、27、8歳には横綱に…。彼にも意欲はあったのか。
 北の富士にとって隠岐の海は孫弟子に当たる。彼に大きな期待を寄せていたが、しかし、意欲が足りない、稽古が足りない、とバッサリと切り捨てた。
 稀勢の里はその懐が深く身体が柔らかな隠岐の海に対し、マワシもとれず、腰高のまま彼を抱えるように土俵際まで寄り立てた。勢いよく寄り立てたように見えるが、稀勢の里の腰が伸び、すんなりと回り込まれ、あとは簡単に寄り出された。なんという不甲斐ない負け方か。稀勢の里の欠点が全て出た。立ち合いから腰が高い。脇が甘い。不利な状態にもかかわらず、慌てて寄り立てる、つまり相撲にどっしりしたものが全くない。
 テレビで解説していた北の富士は、常に稀勢の里の優勝と横綱昇進に期待を寄せていた人である。しかし彼は言った。「もう無理だ」と。「もう稀勢の里には期待しません」と。
 初日は横綱審議委員たちも観戦している。そのうちの一人が吐き捨てるように言ったという。「場所前の稽古総見のとき、稀勢の里は下位の力士を相手に2勝10敗だった。案の定負けた。総見で2勝10敗ですよ。今場所、まあ3勝くらいはするでしょうけど…」
 稀勢の里は前半に早くも二敗を喫した。もう彼に期待しても無理だろう。
 かつて魁皇は、小結で一度、大関で四度優勝している。優勝後の綱取りの場所は怪我で休場したり、腰痛に苦しみ、ついに横綱昇進を果たせなかった。彼には型があり、全盛時は最強の大関で、その型になれば安心して見れた。
 稀勢の里はまだ一度も優勝していない。彼の師匠・隆の里は糖尿病と闘いながら、30歳11ヶ月で横綱に昇進した。「おしん横綱」と呼ばれた。横綱としては短命だったが、「強い」という印象が残っている。
 稀勢の里に関しては、あの北の富士ももはや見捨てた。これからの若手の期待力士は正代だろう。あの土俵際の腰の重さ、攻める姿勢、巧さもある。相撲に速さもある。さほど欠点も見当たらない。あまり体重を増やさず、怪我に気をつけて活躍してほしい。
 

                                                      

ディルタイの歴史認識

2016年09月17日 | 言葉

 われわれは歴史の観察者たる以前に、まず歴史的存在である。


 ヴィリヘルム・ディルタイはドイツの哲学者である。学生時代に岩波文庫の「世界観の研究」は★ひとつ(50円)と安かったため、買って読んだのが最初であった。私はこの哲学者がなぜか気に入ったのである。理由を述べよと言われれば、うまく言えないのであるが…。


                                                              


ある夏の思い出

2016年09月16日 | エッセイ
                                                     

 私がT百貨店に「創作人形展」の企画を持ち込み、その展覧会を実施したとき、S君と親しくなった。彼は広告代理店に所属していたが、席はその百貨店の宣伝部にあったのである。何度か語らううちに、現代アートをやっているということだった。アートだけでは飯が食えないため、そうしているらしい。
 もう三十年近く前になる。S君が人を伴って訪ねてきた。ギャラリーQの上田雄三氏であった。
「犀川国際アートフェスティバル」というイベントをやろうとしているが、手伝ってくれないかというのである。上田氏は現代アートのアーティストであり、画廊経営者であり、アートキュレーター、コーディネーターであった。プロデューサーは上田氏、S君はその補佐、私がイベントのディレクションを担当することになった。
 犀川とは信濃川水系の一つで、信州新町(現長野市に編入)を流れる一級河川である。すでに日本、フランス、韓国などからの参加アーティストが固まりつつあって、その中には巨匠もいた。顔ぶれは現代アートのアーティスト、ダンサー、パフォーマーと多彩であった。なんとも実に壮大な企画なのである。
 八月の真夏、お盆まで一週間余りをかけて開催する予定だという。展示会場は信州新町美術館、信州新町の中学校の体育館、犀川の河川敷、神社の境内などである。
 上田氏やS君の売り込みで、ながの東急百貨店別館シェルシェ特設展示会場とホールも会場に付け加えられた。
 また事前のPRのために、当時お洒落なイベントスポットとされていた芝浦インクスティックでプレイベントを実施し、初日前日には、ながの東急百貨店前でもパフォーマンスイベントを実施するというように徐々に膨らんでいった。
 犀川国際アートフェスティバルの最終日は、信州新町で行われる恒例の花火大会に合わせて、河原でコンサートを行いたいという。
 私たちは何度も参加アーティストに集まっていただき、作品イメージや展示イメージ、希望を聴取し、また何度も信州新町に打ち合わせに出かけた。
 会期が近づくと、すでに何人かのアーティストが、信州新町の寺に泊まり込んで、大きな作品の制作に取りかかっていた。

 芝浦インクスティックのプレイベントは面白かった。当時、女性たちに人気の高かった勅使河原三郎のダンスやパフォーマーたちのステージ、深草アキの秦琴のコンサートなどを展開した。先ずプレイベントは大成功だった。
 信州新町美術館に入る手前の畑を借りて、まず彫刻家の関根伸夫氏の作品が設置されることになった。クレーン車で吊り上げたのは、赤く塗られた巨大な鉄骨で組まれた作品である。支え合う「人」を形づくったものであった。
 その後も信州新町美術館に作品が搬入され、あるいは美術館内で制作が始まった。信州新町美術館の副館長の滝沢氏はハラハラされたことであろう。何せわがままなアーティストたちである。
 この美術館のロケーションが素晴らしい。目の前が瘻鶴湖(ろうかくこ)という、犀川が流れ込む、静かな青碧色のダム湖(水内ダム)であった。向こう岸は深い森である。真夏でも湖を渡ってくる風が心地よい。美術館と並ぶ古い洋館は有島生馬の別荘で、そのまま有島生馬記念館になっている。瘻鶴湖の名付け親は有島生馬であるという。
 犀川の河川敷、中学校の体育館、シェルシェにも作品が搬入され、ホールにステージが組まれた。
 アーティストたちもスタッフも信州新町のお寺さんに泊めていただいた。雑魚寝の合宿である。

 初日、私はほとんどシェルシェのホールにいた。アメリカでいくつもの賞を受賞した黒沢美香のダンスパフォーマンスが行われた。シェルシェで行われたパフォーマンスの中で、出色だったのは武井よしみちであった。
 ステージセンターにマイクとマイクスタンドが立っている。実はこれは電動工具のグラインダー(砥石)なのである。彼のいでたちは、黒縁のロイド眼鏡、白いワイシャツにきっちりと衿元までボタンをはめ、地味なネクタイを締め、ワイシャツの両袖には昔の役場の事務員のように黒い袖カバーをしている。
 彼はマイク、じゃなかったグラインダーの前に直立不動で立つ。まるで東海林太郎のようである。グラインダーが回り始める。武井よしみちは鉛筆大の金属棒をそのグラインダーに当てる。それはキーンと工場と紛うような音と火花を上げる。彼は朗々とテノール歌手のようにアリアを歌い出す。歌詞は不明で何語でもない。おそらくアリアでもないが、見事なアリアのようなのである。
 彼はますます声を張り上げる。素晴らしい声だ。火花は武井の上半身を隠すほど、盛大に天井近くまで上がり、武井の顔に、頭上にふりそそぐ。
 次に武井は身体の数カ所にセンサーを取り付けて現れる。彼の腰のベルトには携帯ラジオが付けられている。そのラジオのチューニングはいい加減らしく、ザーっという音が聞こえる。武井が舞踏を始める。腕を上げ動かすことで、ラジオの音が変わる。プププ、ブーピー。足を回す。ピッピッピッザー、身体を不自然に回転させ、くねらせる。その度にラジオは不思議な音を奏で変化する…。それは無意味な音楽のような雑音だ。壊れたラジオの雑音のような面白い音楽だ。
 素晴らしい、面白い。踊りの最後の動きで、ラジオは本来の放送を流し始める。その時はニュース番組だった。アナウンサーは岸信介元首相の死を伝えた。まさにその時のライブなのである。観客は、そして私たちスタッフ全員が、岸の死を知ったのだ。
 こんな面白いパフォーマンスがあったのか! 音響さんも照明さんも、笑い声をこらえ、身を捩るように笑っている。これぞ「伝説の武井よしみち」のパフォーマンスなのだ。

 深草アキの秦琴コンサートは、夜間に神社の境内で行われた。薪能のように薪がゆらゆらと炎を上げ、爆ぜた。聴衆はゴザを敷いて酒を飲みながら聴いていた。実に心地よい音楽である。演奏は数時間に及んだ。聴衆を見るとみな気持ちよさそうに寝ていた。秦琴はα波を出すといわれる。これほど心地よい演奏、曲、音楽があるだろうか。

 犀川国際アートフェスティバルの掉尾は、信州新町の毎夏の恒例の花火大会と合わせる演出とした。
 私は社に出入りしていた、あるロックバンドの追っかけ女性から、竹林賢二を紹介された。彼は横須賀の臨済宗の寺僧で、ミュージシャンでもあった。
 私は迷わず竹林賢二に声をかけた。彼はスティックタッチボード(今はチャッブマン・スティックとか単にスティックと呼ばれているらしい)という、当時アメリカでエメット・チャップマンが作った新楽器の、ほとんど唯一の奏者だった。
 竹林はアメリカ旅行中に、チャップマンの元に行き、彼の家に二ヶ月泊まり込んで奏法を学んだという。
 不思議な弦楽器である。エレキで、長い平らで幅広のスティックを肩から胸に抱くように抱え、フレットを打つのである。弦打楽器だ。シンセサイザーのような音色で、ベースとコードとメロディラインを一度に奏でることができるのだ。実に幻想的で、深く玄妙な音色なのである。
 私の最初の演出案はこうであった。湖上に竹林賢二を乗せた和船が浮いている。上流の橋に仕掛けられたナイヤガラ花火の煙が湖上に霧のように流れてくる。岸辺から何本かのサーチ灯が湖上の煙の霧を照らす。そして和船の上で止まる。船上に立った竹林賢二の奏でる深遠な曲が流れ始める。…しかしこれは建設省の方やダム管理の東電の方たちから強く反対された。「あんたたちは水流の強さを知らないのだ。船を湖上の一点に停止させることは不可能だ」
 私はすぐ演出案を撤回した。地元の皆さんの協力を得て、ドラム缶をつないで浮かせ、その上に桟橋を掛け、その突端にやや広めのデッキを設けていただいたのである。ドラム缶筏の桟橋である。桟橋は湖上に突き出て浮いた状態である。
 犀川と瘻鶴湖(ろうかくこ)は食道と胃袋に形が似ている。湖へと広がりはじめる場所に、そういう浮橋のステージを作っていただいた。さらに花火師の親方と打ち合わせをさせていただいた。また信州新町の犀川はお盆の灯籠流しで有名なところであったので、建設省の方に上流の灯篭を流す地点から、湖に流れ着くまでの時間を、水流の速度から計算していただいた。上流から灯篭を流すタイミングも町の実行委員の方たちと打ち合わせをした。

 花火や灯篭流しを目当てに、近隣からやって来た何万人もの人たちが岸辺を埋めた。まず花火が始まる。尺玉が上がり、水中スターマインが歓声を呼ぶ。…やや上流の橋に仕掛けられたナイヤガラ花火で、いよいよコンサートが近づく。ナイヤガラ花火の煙が湖上に流れ、幻想的な霧をつくった。暗い湖面に不思議な音色が流れはじめる。…
 照明が、湖上に突き出た桟橋の突端の竹林賢二を照らし出した。彼のいでたちは無国籍である。頭からすっぽりと被った、やや長めの布はアラブの人のようにも見えなくはない。あるいは琵琶法師か。湖上に吹き渡る微風に幅広の袖やそれらが翻る。おそらく、観衆が初めて聴く幻想的な音色であったことだろう。観客は誰も動かず、それを見つめ、聴き入っていた。
 三十分近くが経ち、上流から流された幾百、千の橙色の灯篭が、瘻鶴湖に入り、竹林の立つ桟橋の周囲を漂い、湖面の一面に広がってゆっくりと流れていく。そして暗転、最後に尺玉が上がった。拍手や口笛がなり、それはなかなか止まなかった。…こうして祭りは終わった。

 これが1987年の夏であった。その後、プロデューサーの上田氏は大変だったであろう。
 翌年、私は雑誌の「アクロス」に「犀川国際アートフェスティバル」の記事を見つけた。
「1987年に行われたイベントの中では、犀川国際アートフェスティバルが最も突出していた。」