名古屋市のS女学園を優秀な成績で卒業し、
鍛冶屋さんと結婚。
舅は 鍛冶屋としての腕は確かだったが
経営面は 儲け重視とはいかず いつの間にやら 取り立て業者が差し押さえに来るほど 経営は悪化。
その間3人の息子は、
長男は 名古屋市一の公立高校を五本の指に入るほどの成績で 医師を目指したいと、父に訴えたが
資金面に余裕が無かった為 諦め
N大を出て これまた当時では世界的企業に就職。
そして、結婚。
夫(次男)も、就職。
三男は、大学院生の頃、
姑の夫である私にとっては舅は、胃癌により60歳で、亡くなった。
当時姑は、48歳。
幸いな事に 三男も就職が決まった頃だった。
長男はアメリカ生活が続いた。
姑の長い一人暮らしが始まる。
舅亡き後 48年。
年金(国民年金のみ)と、三人息子からの支援を受け 一人で名古屋市で暮らしていた。
転機は
私達夫婦が、
手狭になった家から、この家を建てる際、
一緒に住むなら 自分の部屋分はお金は出せるか?
と、夫が尋ねた時にはじまる。
迷う私に 母からも、
「つねさん 一人で可哀想、一緒に住んであげたら?」
との声に 後押しされた。
そして、次女の大学受験が終わった時点で、
姑はこの家に 仏壇を背負ってやって来た。
長男である義兄(他県在宅)は、
その前から 弁◯士資格を得て、事務所を開いていた。
しかし、その受験勉強の頃から、
受験勉強に、支障があるので、葬式など以外は連絡してこないように!
と、釘を刺さされていた。
姑の住んでいた家は、 夫と私が奔走し、処分。
費用や売却金は3人息子で3等分した。
今は 義兄は良性の脳腫瘍や水頭症により、
不自由な生活を余儀なくされ、
姑と同様 或いはそれ以上の身体状況ではないかと推察されている。
義兄嫁とも 連絡も無い。
三年前のお盆に、
義兄家族が揃って 名古屋市の代々の墓に参る際 うちに寄った以来
こちらから連絡することも無く
また義兄からの連絡も
ましてや、お盆のお供えさえ一切ない(それは以前から無かった)
家族の数だけ、
家族の形がありますよね。
我が家の姑を巡る環境は
このような 形です。