MS「多発性硬化症」と共に生きる

難病の「多発性硬化症」患者です。家での映画鑑賞とガーデニングが趣味でです。薔薇が好きになり信仰に支えらながらの毎日です。

効かないパルス

2024-05-27 20:40:00 | 現在
(現在のこと)
一週間前の月、火、水曜日の3日間、ステロイド・パルス療法を行った。

何故かというと、その前の週の金曜日から歩行に違和感を感じていた。それがどんどん酷くなって、月曜日の朝、KK病院の神経内科に電話して、症状を話したら来なさいと言われた。

それからパルス3日間、ステロイドを合計3,000mg点滴で入れた。飲む量が多くても何10mgだから、いかに多いかが分かるだろう。

それでも3日目は家に帰ってから、歩幅がどんどん狭くなって、歩けなくなった。伝い歩きだと何とか動ける。

待ってる時間が長過ぎて、久し振りにゲームをした。何と一日中していた。お陰で時間を忘れることが出来た。

そうして金曜日にまた神経内科に電話したら、今日来るように言われ行ったらステロイド・パルスになった。

今の所、大分いいようだが、油断は禁物だ。
私の身体はステロイドだらけで、ムーンフェイスになっがそんなことは言ってられない。

早く元の様に戻ることが先決だ。





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当直に入らない訳を聞かれて

2024-05-19 15:24:00 | これまでのこと
(これまでのこと)
当直の話が出たついでに、あることを思い出した。

何かの打ち上げで、検査室の希望者で飲みに行った。
斜め向かいに最初の頃一緒に働いていた彼がいた。彼は酒癖が悪く、Drに向かって名前を呼び捨てにした事があった。それで出世は見込めなかった。おまけに自損事故で片眼を失明し、眼帯をしたままだった。

最初は取り止めのないことを喋っていたが、ビールの量が増えてきたところで、私に向かって「◯◯さん、なんで当直に入らんの」と聞いてきた。
私が「技師長に聞いてみて」と言うとそんなのダメ、だと言う。

「◯◯さん、家を建てたやろ」と言うから、「建てたよ」と答える。何やらそれが気にくわないらしい。
私が「じゃあ私、乳癌になったの知ってる?」と問うと「知らない。◯◯さんも大変やったんやねぇ。」と急に言葉が和らいだ。元々優しい人だった。

どうも家の話は噂になっていて、癌の話は伝わってなかったらしい。

彼は正直な人だったから言ってくれた。彼も酷い高血圧を持っていて、当直に入らなければならないことに合点が行かなかったのだろう。私は申し訳ない気持ちだった。

彼はそこで席を立ち、帰ろうとしたので、咄嗟に持っていたMSのパンフレットを渡し、「私、この病気も持っているの。よかったら読んで!」と言った。

彼は去って行った。

羨ましい話には羽がはえたように広がり、どうでも良い話は広がらない。世の常かも知れない。

彼が正直だったから、皆んなが何を思っているかが分かった。
でもそんな噂はどうでもいい。

家を建てることは自由だし、私は病気があるから建てることに踏み切れたのかも知れない。

無責任な人の噂、そんなのを気にしていたら生きていけない。

向かいの優しい人が、「◯◯さんの病気のことは、こっち(検査室が離れている)の人はよく知ってるんよ。だから気にしなくていいんよ。」と言われた途端、私の目から涙がとめどなく流れて、止まらなくなった。優しい言葉を掛けられると緊張が取れるのか感情を制御出来なくなる。
「もうやめて、お願い、ありがとう」と必死でそれを遮った。







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あちこちに回されて

2024-05-11 18:57:00 | これまでのこと
(これまでのこと)
化学検査室は数ヶ月で、次は血液検査室に回された。

慣れない凝固系の検査をさせられたが、ちっちゃなパチンコ玉のようなものに血液を触れさせて、ぐるぐる回し、玉が止まった時間を測るという検査だったと思う。玉が止まるということは、血液が凝固したことになる。

私は目が回るような気がして、この検査は無理だと思った。親切な人が助けてくれた。

この検査も、結局数週間で器械が自動測定するようになったと思う。

午後からは採血の練習、お互い検査技師同士で採血しあった。
採血は学生の時以来だ。すぐに出来る筈がない。ただでさえ病気で手が震えるのに、その手を如何に固定するかが私の密かな秘策になった。

本当に採血させられたのは、のちに受付業務に配属させられた時だった。

血液検査のあとは、輸血検査に回された。血液型を試薬で調べること、
クロスマッチといって、患者の血清や血球を使って輸血する血液と混合し、軽く遠心して凝固がないか確認する。凝固があれば輸血には使えない。

私はこの検査が試験管を使って行う検査だったので、昔免疫検査室でやっていたことを思い出し、好きだった。

しかし、輸血検査をマスターしたと看做された途端、当直業務に入らされた。眠れないと翌朝は、頭がふらふらして仕事にならなかった。早退したのだったろうか…?

とにかく、人使いの荒い検査室だった。皆んなが悪いのではなく、上に立つ人の一声だった。

そういえば、急に検診センターの心電図室にも行かされたこともあった。
そこは2つベッドがあって、片方の人が服を脱ぐと電極を付け測定し、測定中にもう1人が服を脱ぐと電極を付け測定するという、常に電極を付けている状態が続き、私にとっては拷問に近かった。

腰椎すべり症があったからだ。身体がガタガタになるようで、医者に診断書を書いてもらい、切り抜けた。
口でいくらしんどいと言っても通じない。だから診断書だと思った。

私は身体が疲れ易く、退職すれば再就職は無理だと思ったから、耐えるしかなかった。その力を神様が与えてくれたような気がした。

その後、受付業務と採血業務に就くこととなる。
そして受付業務の時、乳癌になり、北野病院に行って道が開かれ、「治験コーディネーター」にもなることが出来た。

話が前後して申し訳ない。







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化学検査室

2024-05-10 21:57:00 | これまでのこと
(これまでのこと)
一般検査室のあとは、確か化学検査室に行かされた。

今でこそ、オートメーション化されて、検査技師が1人か2人でどこにいるかわからない感じだが、その頃は人海戦術で10人以上はいただろうか?

大きな伝票に数字を振る人、番号や名前、測定項目をパソコンに入力する人、など分かれていた。パソコン入力はスピードが必要だから気性の激しい、女性主任がしていたような気がする。

それにチェックする人や、血糖値を測定する人など、あまり効率的ではなかったイメージがある。検体自体は器械が測定していた

私は何をしていたのだろうか?血沈の測定はしていた気がする。1時間後、2時間後に測定するが、本数が多い為、もたもたしていると、最後の検体は1時間半後になってしまう。もたもたしているつもりはないが、病気のせいで私はゆっくりしか出来にくく必死だった。

検体は1週間4℃で保管し、それを過ぎると1ヶ月間凍結して保存する。
データがおかしいと問い合わせがあって再検する必要があるからだ。

検体はチューブに入れて保管するが、私はチューブを持って細いチューブに番号を書くのが苦手だった。チューブを持つ手が不安定で支えられず、狭い所に細かい番号を書くのが出来にくいのだ。普通の人が簡単にやれることがどうしても出来ない自分が悔しかった。全く出来ない訳じゃないが、人より遅くなるのだ。

そんな私にも早出があって、朝皆んなより1時間くらい早く来て、機械の立ち上げ(スィッチを入れること)をして、測定する器械に検量線を描かせる為に試薬を入れなければならなかった。

これらは、小さなノートにすることを全部書いていたから失敗はなかった。でも、私がどんなにヒヤヒヤしながらしていたか知る由もないだろう。

そこにずっといる人は、何でもない事でも、私はいきなり行ってさせられるのは堪ったものじゃない。

そんな生活を数ヶ月は送った。
他の人には分からなかったかもしれないが、とにかく私は耐えた。












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またまた再発

2024-05-02 18:40:00 | 現在
(今のこと)
MS{多発性硬化症)が再発した。
月曜日から体調を崩して、歩行が少し変だなと思っていたら、いよいよ悪化して、火曜日にKK病院の神経内科に電話したら、水曜日の午前中に来る様に言われた。

先生とは直接話さない。看護師さんを通して、看護師さんから答えが来る。

水曜日からステロイド・パルス療法をすることになった。いつものことだ。

点滴(1,000mg)を始めて、いつもなら足先に血が漲って来るような感覚があるのだが、何故かあまり変化がない。あまり効いてないのじゃないかと思って、点滴後歩いてみたら、あまり良くなってなくて車椅子を持って来てもらった。

自分で必死で運転し、会計に行き、支払いをした。車椅子だと目線が下になるから、不便だなと思った。

今ステロイドは6mgだから、パルス後は7mgからいこうと、足りない1mgを処方してくださっていた。
こんなステロイドの使い方は初めてだ。

薬局までは少しあるから、持ってきてもらうように手配した。これも皆んなの助けがあってこそだ。

タクシーに乗るまで、皆んなが手を貸してくれたのに、私の心は何故か晴れなかった。

納得が行くまで治療してもらおう。
これでダメなら…というところまで。何度でも治療したい。






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