MS「多発性硬化症」と共に生きる

難病の「多発性硬化症」患者です。家での映画鑑賞とガーデニングが趣味でです。薔薇が好きになり信仰に支えらながらの毎日です。

『ロスト・ケア』

2024-03-31 22:09:00 | 趣味
最近観た映画だが、とても心に残っている。
介護士である松山ケンイチと検事である長澤まさみの2人が主な登場人物だが、演技力ではどちらも劣らないから見応えがある。

どこから見ても親身で思いやりのある介護士が1本の注射器が見つかったことから、殺人事件が発覚し、それも42人の殺人を犯し、犯行を認める。

そこに至るには自身の父親の介護で、生活も立ち行かなくなり、父親からお前の事が息子と分かるうちに頼むから死なせてくれ、と言われ、ニコチンを誤って口にした子供が死んだことからヒントを得、犯行に至る。それは苦渋の選択だった。

それで介護でをしているうちに、段々認知症が酷くなって家族が太刀打ち出来ないような状態になった被介護者を自分の休みの日にニコチン注射で殺していく。

検事が家族に、介護者が死んだ時どう思ったか、と問うと「救われました」という人もいた。

最初はなんて酷い事件だと被告人を上から目線で見つめていたが、被告人と話しているうちに、自分にも似たような経験があるのを思い出し、死刑の決まった死刑囚にわざわざ話に行くのだった。

死刑囚の、この国は弱った本当に苦しんでいる人に手を差し伸べてくれない、という言葉が現実と重なって、問いかけてくる気がした。




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大阪へ行く

2024-03-23 17:57:00 | これまでのこと
(続き)
自分の働いてる病院の外科の先生に勧められ、母と姉と私で大阪まで行くことにした。
その時の私はまだロボット歩きだったから…。
大阪に行くのは初めてだった。
先生はこう行って、ここで乗り換えるんだぞ、と親切に教えてくださった。
私は期待に胸膨らませて新幹線に乗った。
その日はホテルに泊まって、翌日北野病院に行くことにした。




ホテルに行く途中に見たかったエゴノキの花が鈴なりに沢山咲いていた。




ホテルはリニューアルで料金は半額だった。何もかもが祝福されているように思われた。
翌日、北野病院へ行った。
患者さんがものすごく多くて、長く待ったが診察はあっという間だった。ちょっと期待外れだった。
先生は私の状態を見て、薬を4種類処方してくださった。
その日はご馳走を食べて、翌日から薬を飲み始めた。その日は海遊館を見て帰る筈だったが、私はフラフラして荷物も持てなくなった。
病院に電話すると、ある薬の量を減らすように言われた。私は悲しくて、どうしてこんな目に遭わないといけないの、と言って泣いた。

家に帰って、先生にお土産を渡そうと病院に行った。
いつの間にかスタスタ歩いている自分に気付いた。
皆んなに明るくなったね、背が高くなったみたい、と言われた。
それまでの私は人から見てそんなに酷い状態だったのかしら、と思った。
外科の先生に会うと、どんな先生だったか?と問われ、私は宇宙人みたいでした、と答えると、そうやろ、と先生も同意したので笑いあった。
先生、薬で歩けるようになりました、と御礼を言った。本当に絶妙な薬の処方だった。

もし、外科に掛かるのに月曜日ではなく火曜日に掛かっていたら、別の先生に当たり、こんな風にはいかなかっただろう。
熱血漢でちょっと怖いけど心優しい先生に当たり、運命的なものを感じた。
私は検査技師長に「治験コーディネーター」になります、と宣言していたが、実際はロボット歩きでどうしたらいいの、と思う前に道は開けた。
東京に行ったら、いつもふらふらして友達を心配させていたのに、治験コーディネーターの講習会に2週間も新宿に行くことが出来た。
その後、今度は治験コーディネーターの実習に北里病院に3週間行くことが出来た。
私にとっては奇跡としか思えなかった。涙が出るほど嬉しかった。
綱渡りのような人生だと思った。
(この章終わり)
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乳癌になって

2024-03-20 15:37:00 | これまでのこと
乳癌と診断され、直ぐに入院、手術となった。

左胸部の乳癌で、先生は全摘にするか部分切除にするか私に問うた。
生存率はどちらも同じと言われ、私は部分切除を選んだ。

私が「多発性硬化症」だと言うと、あんたはそんな病気じゃないと否定した。どうも他の感染性の病気と勘違いしたらしい。

また、「重症筋無力症」とも言われたと言うと、手術室で筋電図をしてくださってあんたは「重症筋無力症」じゃないと言って全身麻酔で手術を行なった。
あとで全身麻酔ってなんで楽なんだろうと思った。卵巣嚢腫の手術のことがあったから…。

勿論術後は、麻酔が切れると痛んだ。でも日にちが経つうちに軽くなることが分かっていたから耐えられた。
術後直ぐに先生は、「はい、手を挙げて!」と言われたので、私は思い切り手を挙げた。そういうスパルタの先生だった。動かすことが大事だということだったのかもしれない。
リンパの廓清も行なったからな、と言われた。

術後から抗がん剤であるホルモン剤が始まった。

暫くしてコバルト照射が始まった。コバルトを当てると足の先から痺れが段々身体の上の方に上がってきた。
そして身体がこんにゃくのようになった気がした。
気持ち悪いので先生にやめて欲しいと言うと、コバルトしないなら全摘すればよかったじゃないかと叱られた。
先生は叱る時は叱るが、次の日はすごく優しかった。

コバルト照射中は時々放射線科の先生の診察があったが、ある時患部が赤くなっていると言って、主治医に言いなさいと言われた。

主治医はそれを見て、患部にメスを入れると膿が流れ出した。化膿していたのだ。細菌検査室に検査を依頼した。

傷が開いたままコバルトを当てると、肉汁が焦げる匂いがした。
傷が閉じると化膿がひどくなり、傷が開くと化膿が止まった。

10日後にやっと検査結果が出て、嫌気性菌がいることがわかった。それに合う抗生剤を飲むようになって
熱を持った胸はやっと治まってきた。
それまではコバルトの痺れと化膿のせいで随分気分が悪かったが、段々と落ち着いてきた。

コバルト照射がやっと終わって歩いてみたらロボット歩きになっていた。
どうしよう、こんなんじゃ働けないと先生に訴えると、「大阪に行ってみるか?大阪に北野病院という病院があって、僕の先輩が神経内科部長になってるんや。」と京都弁で言った。先生は京都大出身だった。

私は行ってみることにした。
すると、先生は私の神経内科のデータを徹夜で整理してくださって(病気の根拠になるものはないのに)、渡してくださった。








私が乳癌になった時、先生はちゃんと働けるようにしてやるからな、と言ってくれていた。
私はその言葉にすがって、甘えて、
期待を持って行ってくることにした。
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家を建てて

2024-03-16 14:38:00 | これまでのこと
  37歳で左眼が見えなくなり(今はかなり回復)、マンションで一人暮らしを始めて7年後、家を建てた。

数年後、腰が痛くて整形外科にかかったら、卵巣嚢腫があることがわかった。腰のレントゲンを撮ったら、卵巣が腫れていたのだ。

直ぐに婦人科に回され、手術することになった。
本来ならば全身麻酔で行うところを、「重症筋無力症」という病名が付いていたことから、腰椎麻酔と硬膜外麻酔ですることになった。
全身麻酔だと、筋力の低下を招き、呼吸筋への影響を免れないためだ。

しかし、実際は重症筋無力症でないのに部分麻酔でするのは酷だった。
意識はあるからお腹の辺りを触られているのがわかって気持ち悪くて吐いた。
局所麻酔はもう御免だと思った。

翌年、ある日曜日の夜、何故か乳癌でもあるかも知れない…と思って触ってみると、なんだかしこりがあるような気がした。心臓がドキドキした。
一番に思ったのは、癌かも知れないという思いよりも、このまま収入が閉ざされたら…という心配だった。
暫くして、リンパが腫れているのかも知れない、と思いグッスリ寝た。

翌日、職場の上司にこのことを話し、今日か明日、外科に掛からせてくださいとお願いした。
暫く経ってから、その上司から明日まで待つのは落ち着かないだろうから今日掛かったら?と言われそうすることにした。

その頃、主任部長は病気で、主任部長代理の先生に当たった。のちに一日違ったら、私の人生は大きく変わっていたかも知れない…と思う。

熱血漢のその先生は多分癌ではないと思うが、念の為生検しょうと言って、後日手術場で局部麻酔で局部を一部切り取って、病理部に出した。局麻は痛くなったら麻酔薬を追加しながらするものだから、終わった後痛くてたまらなかった。

後日、結果が出たと連絡があって、残念ながら癌でした、と言われ、私はそうですかとだけ言って静かに受け止めた。後であの時の態度は立派だったと言われたが、私としては、前に難病の「多発性硬化症」と言われたのだから、それ以上の病気は存在しないような気がして、自然とそういう態度になっただけだった。

その後、まだ色々あったが、あり過ぎて次回に回すことにする。
ただ言えるのは、この2つの病気のあと、それぞれ自宅療養があったが、安心してゆっくり休める家があってよかった…という思いだった。






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患者会

2024-03-11 15:45:00 | 生き方
もう随分前になる。
仕事を辞めてから、何かしたくて最初は「難病よろず相談所」というのを始めた。
ところが広報の仕方が分からなくて、人が集まらなかった。
そこでMS(多発性硬化症)患者だけを対象の患者会を始めることにした。
市に相談すると、一年に一回だけ「市政だより」に掲載してもよいということで掲載させてもらった。
それで患者が集まり出した。広報誌の力はすごい。
3年くらい「市政だより」に載せてもらっていたが、それ以降は掲載は出来ないと言われてショックだった。
それでも3年で20人くらい集まっただろうか。
最初は事務所をわざわざ作って患者会を行っていたが、月一なので賃貸料が勿体無いと思い、自分の家でやることにした。
患者会は7〜8人くらい集まっただろうか…こんな場所があってよかった、と言われる患者さんの声を聞くと励みになった。
そんな感じで何年か続けていたが、ある時他県と合同の作品展をやることになった。
皆んなに作品を作って…と言ってもそんなの作れない、となかなか至難の技だった。
また会場探しが大変で、いいところあるをやっと見つけたが、展示をするのに手伝ってくれる人もいなくて一人でぼちぼちやっていた。
作品展があり、会場にずっと居て、作品展翌日には展示品を片付けなければならい。
夫婦で来てくれた人以外はいないので私は甥に手伝ってもらって片付けた。
その頃から、何でも一人でやる感じになっていった。
それでも講師(医師やOTさん、薬剤師など)を呼んで講演会をやることにした。
その企画は市が講師料や交通費を負担してくれる、市の事業の一環だった。
結局、これも広報から入場者の確保、講師とのやりとりなど、殆ど一人でやることになったので、私は倒れてしまうと思い、今後患者会をやることを諦めてしまわざるを得なかった。
それでもイベントの案内などは、メールで連絡していた。
最初の頃は行けなくても返事が返って来ていたが、最近は殆ど無くなった。
メールや電話で返事があった方は、最近別の病気で亡くなったとご主人から連絡があり、寂しい限りである。
私は患者会は辞めてしまった筈だったが、最近、2人の患者さんから同じ病気の人に会ってみたいとの電話を受け、小さな集まりでもその場を設定しようとする自分がいる。
お節介なのか、やりたがりなのか…自分でもわからないが、いいことならばやるべきだと思っている。






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