パリからメールが届いた。しばらく去年の7月からあっていない友達のカリマからだ。彼女はチュニジアとフランスのハーフだ。いつ会ってもきれいで美しい顔立ち。わたしが男性だったら、あなたにきっと恋をするわ、と言うと、私もよ、と答えたカリマ。パリの自分の家でソワレをしたときの写真。イタリア、ローマからパリへ2ヶ月に1回帰り、みんなを集めてパーテイをするのが習慣だった。今はそれがなくちょっとホームシックだ。
今まで発展途上国の現場以外はわたしには仕事をする意味がないと思ってきた。視野が狭かった。でも国連のオフィスで 事務をするのも、会社で事務をするのも同じだ。いまいるところで幸福になる道をいまみつけている。過去を振り返り、意味をたしかめまた東京でいい人生をおくりたいので、 BLOGにまとめを書いている。
やっといま普通のくらしができるようになって、無理をしないでほかのことをしたい。でも自分の健康を無視して生きてきたので、健康な生き方がわからない。
今は転換期。バランスのとれた人生にしたい。仕事中心から健康、友達、家族に会う時間もとり、スポーツもし、バランスのある生活。
そんな中で、東京で出会った友達の海老沢さんは、健康的で元気な人だ。バランスが取れている。何かあってうれしいときも悲しいときも報告したくなる。浮き沈みの大きな時は尚更だ。
今日もプールで少し話をした。体調はよくなり、でもぜんそくは今でも発作があると苦しい。水泳をすると楽になる。
優しく暖かな存在、まるで陽だまりのような人だ。話すとあとでいつも元気になる。水泳、食事、睡眠、笑い、友達の大切さを学んでいる。
やっといま普通のくらしができるようになって、無理をしないでほかのことをしたい。でも自分の健康を無視して生きてきたので、健康な生き方がわからない。
今は転換期。バランスのとれた人生にしたい。仕事中心から健康、友達、家族に会う時間もとり、スポーツもし、バランスのある生活。
そんな中で、東京で出会った友達の海老沢さんは、健康的で元気な人だ。バランスが取れている。何かあってうれしいときも悲しいときも報告したくなる。浮き沈みの大きな時は尚更だ。
今日もプールで少し話をした。体調はよくなり、でもぜんそくは今でも発作があると苦しい。水泳をすると楽になる。
優しく暖かな存在、まるで陽だまりのような人だ。話すとあとでいつも元気になる。水泳、食事、睡眠、笑い、友達の大切さを学んでいる。
開発は教育から始まる、だがおなかがすいていては学校へも行けない。
開発途上国には、教育開発と経済発展の2つが必要だ。
貧しい国での教育、学校建設は母のNGOで実践してきたことだが、新しい友達が夢として語るのを聞いて新鮮な感動を覚えた。若いひとで共感できる人、夢を共有できる人がいることに驚いた。
貧しい地域へ行き、農村に滞在し、自分もそこで生まれたら学校へ行けなかったかもしれないと考え、将来学校を建設することが夢だと語る友達。私も、バングラデッシュで、学校、大学へいけた幸運をどう世界の向上、開発へ生かせるかと真剣に考えた時期を思い出した。
健康になってまたあの笑顔に会いにいけるだろうか。命のリスクも考えずに世界を駆け巡ったころの話を伝えること、世界は広く、大きな世界があることを見せて、誰かに伝えられたら、それで国際キャリアを選ぶひとがいれば今までのことが無駄ではなかったと思える。今日は、ゆったりしたそれでいて、前向きで努力家の友達と話してすがすがしい気持ちになった。まだ東京には友達は少ないが、世界中に友達がいると考えると大変嬉しい。
コロンボで緊急入院して2年たったが、ひ弱な実践家からたくましい理論家へーこれが私の大きな方向転換だ。最近出あった友達にこれからのことで励まされて今日は非常に幸福感に包まれた。ゆっくりとまだまだこれからではないか、と言われると希望がわいてくる。
開発途上国には、教育開発と経済発展の2つが必要だ。
貧しい国での教育、学校建設は母のNGOで実践してきたことだが、新しい友達が夢として語るのを聞いて新鮮な感動を覚えた。若いひとで共感できる人、夢を共有できる人がいることに驚いた。
貧しい地域へ行き、農村に滞在し、自分もそこで生まれたら学校へ行けなかったかもしれないと考え、将来学校を建設することが夢だと語る友達。私も、バングラデッシュで、学校、大学へいけた幸運をどう世界の向上、開発へ生かせるかと真剣に考えた時期を思い出した。
健康になってまたあの笑顔に会いにいけるだろうか。命のリスクも考えずに世界を駆け巡ったころの話を伝えること、世界は広く、大きな世界があることを見せて、誰かに伝えられたら、それで国際キャリアを選ぶひとがいれば今までのことが無駄ではなかったと思える。今日は、ゆったりしたそれでいて、前向きで努力家の友達と話してすがすがしい気持ちになった。まだ東京には友達は少ないが、世界中に友達がいると考えると大変嬉しい。
コロンボで緊急入院して2年たったが、ひ弱な実践家からたくましい理論家へーこれが私の大きな方向転換だ。最近出あった友達にこれからのことで励まされて今日は非常に幸福感に包まれた。ゆっくりとまだまだこれからではないか、と言われると希望がわいてくる。
国連のミッションで入院―スリランカにて
仕事をするなら、国際機関で開発途上国の再建にかかわることがしたいとおもってきた。自分の信念を貫いてきた、と信じていたこの11年。
しかし今はどん底だ。精神的には、夢を実現したかとおもったが、スリランカ、コロンボで、国連食糧農業機関、FAOでの津波災害後のミッションの途中で入院。2005年3月22日から26日まで、長い6日間だった。その後、現地で休養を余儀なくされた。1ヶ月間スリランカに滞在した。
国連の仕事は、華やかな仕事をおもってきたが、語学(英語)と体力と現地での適応力。これが大事な3つの条件だとローマの日本大使館の一等書記官から電話でいわれた。
専門性と語学力。私がもっていたと信じていた国連へのパスポートは、フランスのパリ大学でとった博士号だった。国際関係論をフランスで1994年から学び、研究し、博士課程では、政治学博士というタイトルになる。
フランス語力があれば、そして、専門知識があれば、とおもってきたが、そう簡単にフランスではみつからない。事故にあい手術して松葉杖をついて半年。
旅先で出会った多くの人たち。
ジュネーブのコンゴ女性。スイスでであった、モロッコの家族と友人。
旅でいやされ、旅でであった人たちにはげまされ、その後、またフランスにもどった。博士号から1年半たって、FAOから電話があり、イタリアローマへ出発したのが2003年11月上旬だった。
その後アフリカのコンゴへいった。内乱にまきこまれ、緊急避難をキンシャサ空港から国連軍の護衛が20人くらいついて、UNDPの国連の安全を管理する事務所までいくまでの30分ほどの時間が、半日にもおもえた。
その後第2回目のミッションでは、スリランカ、インドネシアへいった。震源地である、スマトラ沖の近くのバンダアチェまでいき、ジャカルタから飛行機で3時間。
スリランカでは緊急入院となった。気管支喘息の発作がつよくでて呼吸困難、せきがとまらず、病院へいったら、即刻入院だといわれた。検査、SARSかと疑われた。
SARSではなかったが、6日間集中治療室へはいり治療をうけた。インド系のアポロ病院というところだ。インド人医師のグプタ先生は、せきが1ヶ月もとまらないのは異常ですよ。といわれていそがしかったので、自分の健康はあまり考えている時間もなく準備、暑さでまいってしまった。
入院中は、24時間、インドからきた17-18歳から20代までの看護婦がベッドの備え付けのボタンをおすときてくれる。
したいことをすべてはできない。今はパリで、のどのポリープのスピーチセラピストの治療を継続し、気管支ぜんそくの発作をおさえ、管理する努力をしながら、今までしてきた国際開発の仕事、交際協力とはなにか、ということをかんがえながら、開発途上国にいかずにできる形でかかわっていけるか、その問いをさがすために、今かでしてきたことをまとめることにした。若いひとたち、あるいは、シルバーのひとたちにむけた11年情熱をかたむけて取り組んだ開発途上国の発展、特に紛争後の国の再建、教育、農業、漁業、マイクロクレジットの重要性を感じ、国連、UNESCO,FAO,あるいは、日本のNGOと仕事をしてきたまとめとして、現場からのメッセージとしてほそぼそと書き出した。
ただひとついえるのは、スリランカの緊急入院で、人生はかわった。退院後、1週間の休養のため、FAO本部の上司へ電話をし、モルデーブいきは中止し、インドネシア、ジャカルタへ直行することはできると交渉しOkがでて、健康問題のため、計画を変更、飛行機変更、ホテル変更で大変だったが、スリランカのFAOオフィスの助けで、インドネシアへ向けて出発することができた。
入院中にであった、インド人看護婦、医師をはじめとする多くのひとたちからまなんだのは、健康がなくては開発途上国での仕事は困難なこと、寛容な態度、おだやかな物腰、はなしぶり、ユーモアの大切さなど、どこからきているのかとおもったが、仏教のおしえから来ていることが理解できた。
自分の健康問題で、苦悩していたとき、瞑想したらどうかと、スリランカでであったひとたちにいわれ、パリへかえってから、仏教の寺院をさがしていたら、バンセンヌの森にある、チベット寺院がみつかり、たずねてみた。早速、瞑想、祈りに参加し、音楽をつかったもので、心はおちついた。今は国際開発との関わり方をかんがえつつできることからはじめた。今までは現地主義だったが、健康問題で現地には今しばらくはいけなくなった。今までのことを報告書、本として刊行し、自費出版になるが、ひとつの区切りとしたい。
この本出版にあたって、パリで最近新しくであった友人たちに、お世話になった。なかでもアパートの水漏れ問題で執筆に集中できない私の窮地をたすけてくれたのは、フィリップ、写真の編集で助けてくれたのは、フィリップと、グラフィックデザイナーのジャン、ピエールと、ピエール、イヴだ。今日、ピエールイヴと話をしたときに、昼間はどこで仕事をしているのかときいたら、石油会社で人事管理の仕事をサラリーマンとしてしながら、夜は、本業の仕事をしてから自宅へ帰るときいた。私は、理想主義者だったと、おもった。現地へいけないなら、開発途上国援助はもうできないというわたしに、新しい友人たちは、励ます。本をかいて、経験をかきながら、あふれてくる感情もかき、内部にあるおもいをつたえるには、ある程度の距離が必要だから、今病気の治療中で、現場へいけないからこそかけるのではないかと、はげまされながら、まだあってもいない読者に向けて、書いている。
パリの親友の美知子さんは、日仏の混血で、彼女は、定期的に電話してくれる。原稿ができたら、お祝いをしようかといってくれる。今は、本を書く時期だからがんばってと励ましの電話があった。現地へ行って病気でかえってきたのだから、治療して、よくなるまで、本を書く時期で、世界から取り残されたような気がしている私だが、一人ではないと気づく。
1994年、9月23日。世界にむかっていいたいことがあるなら、行って来い。才能がなくてつぶれるようなら、2年たってもだめなら福井へかえってくればいい。まだ若い。父にこういわれて、留学し、11年たとうとしている。一区切りだ。
最初の人生の転換点はバングラデッシュでの強烈な経験だった。UNESCOで8ヶ月間、行財政担当の事務次長のアシスタント、コンサルタントを務めた後、半年の予定でバングラへ教育の専門家として研究者としていったのが、1997年4月26日。それから、1年滞在することになった。バングラでの暑く、でも6州のうち4州をたずねて500人くらいのもっとも貧しいひとをたすけるためになにができるかを考え答えをみつけるために出発したのだ。
国際開発にどうかかわるか?これは大きな大事な問いである。国際開発には経済的貢献と人的貢献、そして知的貢献があると思う。今まで私が主にかかわって情熱をかけてきたのは,人的貢献がすくないといわれてきた日本の国際協力の分野で、現地にまずいって、そこで、視察し現地の人と話をしできれば長く住む、ということが一番大事だと信じてきた。現地主義ともいえるかもしれない。でも、人間には想像力がある。現地にいかなければ国際協力ができないとしたら多くのひとは、自分たちは税金をはらっている、経済的貢献をしている、NGOも、国際機関の拠出金も、自分たちの税金でまかなっているではないか、というだろう。
バングラデッシュで、病院の前で、マラリアの薬がかえなくしでゆくひと、絵の具をはじめてみる子供たちが絵の具をとりあいしているすがた、空港におりたったときに、わーと集まってくる物乞い。こちらが動物園のおりにはいっているのではとおもえるくらいに、多くのひとが、じーとこちらをみている。変な感じだった。
強烈なショックをうけたのは、ビロル村というインド国境の北部のむらへいったときに母親たちの会話で、あなたのところは、子供が何人いるの?うちは半分しんだけれど、という会話をきいて驚いた。最初の開発途上国での視察、わたしにとってはすべてがはじめての経験だった。
ビロル村でした健康診断もJICAもまだ踏み込んでいない場所だった。あそこでみたもの、ねずみかもぐらをたべていきるひとたち。その場所で現地調査をしたいとおもい、UNESCOに日本人ももっと現地へいくべきだ、という半年のプロジェクトを、NGOノバングラセッシュからかえる飛行機のなかで、一緒にいった福井のメンバーからはげまされて、日本語でかいたものを、シンガポールからパリへもどって、一気にフランス語で書き上げ提出し、11ヶ月後に、UNESCOでのレストラン民営化の経済アナリストとして仕事をしているときに、パリのオフィスに当時の野口フェローシップ部長から電話があり、日本のUNESCO国内委員会が承諾した、プロジェクトが日本で通りましたよ、という返事だった。
それは、野菜が不足しているためと卵も肉もないので、そのために、地下にもぐる動物をたべているときき、それを、スケッチでかいてもらった。
わたしはこのとき、将来の夢として国際公務員となって現地の栄養不足、教育不足、仕事がないこと、などの問題を解決するためにはたらきたいとおもった。
現地での実際のプロジェクトを推進するために博士号取得が大事かとおもい、それで8年半かかったが政治学の博士号をとり、その後国際公務員としていったのが、コンゴ民主共和国だった。
バングラデッシュでみた光景はショックが大きく、ヒューマニズムから開発途上国にかかわるようになった。でもヒューマニズムだけではかたれない。解決できない限界をかんじた。それで社会の仕組みを変える仕事に参画したいという願いから国際政治をさらに研究し、日本がもっと外国で尊敬される国になるような方向での仕事をしたいとおもい、国際機関への就職を希望して、UNESCO,FAOと仕事をしてきた。
バンダアチェでは、写真撮影が主な目的ではなかったことをお断りしておこう。あくまでも国連のミッションでいき、個人デジカメでとった写真を何人かのひとにみせたら、まだみたことがない、写真だというので、今回公にすることにした。わたしはプロのジャーナリストでもカメラマンでもないのだが、開発途上国援助とプロジェクト作成に現地で深く関わった経験から、途上国援助に関わる日本人として、しかも日本の政府から、スマトラ沖津波地震災害復興援助の資金調達の仕事での貴重な体験から生々しい現場をみて、3ヶ月たってパリからの報告としたい
今後は、経験をいかして本にまとめ、写真展で多くの人に現実を理解してもらいたいし、パリを中心に、日本とフランス、ヨーロッパからさまざまな視野で、文化、経済、政治、言葉、平和、NGO、移民などの分野に現場報告者として、取り組んで生きたいと思う。
生活は日本のほうが便利だと思うが、パリには日本にないものがある。それをこれから紹介していければ幸いである。
これを書いたのは、2005年8月だった。その後、FAOのタイの津波災害復興プロジェクトマネージャーとしての勤務を終えて、日本へ帰国することとなった。
東京へ戻り、北区に住みぜんそくの治療を続けている。無力感もあるがいつか健康になり途上国へまたいける日が来ることを祈り再び立ち上がることをやっと決心した。再起に2年近くもかかったが、そのきっかけは最近であったある友人の言葉だった。”同じ人間だから、(途上国の人々のために)何かできることをしたい”。
私は、やっと消えかかった希望の火をもう一度燃やしてみたい、現場へいかなくてもできること、それは現場へ行った者として現場報告をすること、伝えることをしたいと思った。
国際開発にどうかかわるか?これは大きな大事な問いである。国際開発には経済的貢献と人的貢献、そして知的貢献があると思う。今まで私が主にかかわって情熱をかけてきたのは,人的貢献がすくないといわれてきた日本の国際協力の分野で、現地にまずいって、そこで、視察し現地の人と話をしできれば長く住む、ということが一番大事だと信じてきた。現地主義ともいえるかもしれない。でも、人間には想像力がある。現地にいかなければ国際協力ができないとしたら多くのひとは、自分たちは税金をはらっている、経済的貢献をしている、NGOも、国際機関の拠出金も、自分たちの税金でまかなっているではないか、というだろう。
バングラデッシュで、病院の前で、マラリアの薬がかえなくしでゆくひと、絵の具をはじめてみる子供たちが絵の具をとりあいしているすがた、空港におりたったときに、わーと集まってくる物乞い。こちらが動物園のおりにはいっているのではとおもえるくらいに、多くのひとが、じーとこちらをみている。変な感じだった。
強烈なショックをうけたのは、ビロル村というインド国境の北部のむらへいったときに母親たちの会話で、あなたのところは、子供が何人いるの?うちは半分しんだけれど、という会話をきいて驚いた。最初の開発途上国での視察、わたしにとってはすべてがはじめての経験だった。
ビロル村でした健康診断もJICAもまだ踏み込んでいない場所だった。あそこでみたもの、ねずみかもぐらをたべていきるひとたち。その場所で現地調査をしたいとおもい、UNESCOに日本人ももっと現地へいくべきだ、という半年のプロジェクトを、NGOノバングラセッシュからかえる飛行機のなかで、一緒にいった福井のメンバーからはげまされて、日本語でかいたものを、シンガポールからパリへもどって、一気にフランス語で書き上げ提出し、11ヶ月後に、UNESCOでのレストラン民営化の経済アナリストとして仕事をしているときに、パリのオフィスに当時の野口フェローシップ部長から電話があり、日本のUNESCO国内委員会が承諾した、プロジェクトが日本で通りましたよ、という返事だった。
それは、野菜が不足しているためと卵も肉もないので、そのために、地下にもぐる動物をたべているときき、それを、スケッチでかいてもらった。
わたしはこのとき、将来の夢として国際公務員となって現地の栄養不足、教育不足、仕事がないこと、などの問題を解決するためにはたらきたいとおもった。
現地での実際のプロジェクトを推進するために博士号取得が大事かとおもい、それで8年半かかったが政治学の博士号をとり、その後国際公務員としていったのが、コンゴ民主共和国だった。
バングラデッシュでみた光景はショックが大きく、ヒューマニズムから開発途上国にかかわるようになった。でもヒューマニズムだけではかたれない。解決できない限界をかんじた。それで社会の仕組みを変える仕事に参画したいという願いから国際政治をさらに研究し、日本がもっと外国で尊敬される国になるような方向での仕事をしたいとおもい、国際機関への就職を希望して、UNESCO,FAOと仕事をしてきた。
バンダアチェでは、写真撮影が主な目的ではなかったことをお断りしておこう。あくまでも国連のミッションでいき、個人デジカメでとった写真を何人かのひとにみせたら、まだみたことがない、写真だというので、今回公にすることにした。わたしはプロのジャーナリストでもカメラマンでもないのだが、開発途上国援助とプロジェクト作成に現地で深く関わった経験から、途上国援助に関わる日本人として、しかも日本の政府から、スマトラ沖津波地震災害復興援助の資金調達の仕事での貴重な体験から生々しい現場をみて、3ヶ月たってパリからの報告としたい
今後は、経験をいかして本にまとめ、写真展で多くの人に現実を理解してもらいたいし、パリを中心に、日本とフランス、ヨーロッパからさまざまな視野で、文化、経済、政治、言葉、平和、NGO、移民などの分野に現場報告者として、取り組んで生きたいと思う。
生活は日本のほうが便利だと思うが、パリには日本にないものがある。それをこれから紹介していければ幸いである。
これを書いたのは、2005年8月だった。その後、FAOのタイの津波災害復興プロジェクトマネージャーとしての勤務を終えて、日本へ帰国することとなった。
東京へ戻り、北区に住みぜんそくの治療を続けている。無力感もあるがいつか健康になり途上国へまたいける日が来ることを祈り再び立ち上がることをやっと決心した。再起に2年近くもかかったが、そのきっかけは最近であったある友人の言葉だった。”同じ人間だから、(途上国の人々のために)何かできることをしたい”。
私は、やっと消えかかった希望の火をもう一度燃やしてみたい、現場へいかなくてもできること、それは現場へ行った者として現場報告をすること、伝えることをしたいと思った。