OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

感じる書

2014年04月07日 | 文化・芸術
文字の解読ということも長年、書に関わっていると頼まれることしばしば。
学者先生のような系統的な勉強はしていないので、出たとこ勝負である。

今回、読めないまま、教えている高校生にみせると、必死で字書をみながら、くらいついてきた。
読めた! のがあった。

毎回のことだが、その字が読める読めないということではなく、その字から言葉へ、そして紙面そのものにあらわれる筆致や一緒に描かれている画など、背景はどこまでも広がる。
ここに書に関わることの特性を感じるのである。

今回は美濃あたりを中心にした画家や実業家、宗教家などの書画帖の解読であるが、依頼された時、昭和30年代の世紀の贋作陶器事件に話が及び、鑑定した大御所は確かに一流人であったが、唯一、書はそれほどでもなかった。
もし、あの時、書をみる眼があったら、贋作と見破れたかもしれない、と依頼された方はおっしゃった。
鑑定した大御所と縁のある方のお話だったので、興味深い話だった。

偽物ばやりの昨今は、みんなあやしい人になってしまうが、その時の方々は、その後も両者、踏ん張った。輝いた。それでも、人間の信頼だけは揺らいだようである。

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