漢字の部首の「月」は、夜に出る「月」だが、部首の「肉」には「月」も同時にあって、体の骨肉をイメージした「肉づき」と呼ばれている。
そして夜に出る「月」の方には、もう一つ、今は存在感を無くした「舟づき」が混じっている。「服」や「前(部首はりっとう)」などである。
そこまでは、いいが、旧活字ではそれぞれ、夜の「月」は3・4画目は右側をつけず。舟「月」は今の舟の最終画を取り除いた感じになるが、3・4画目はななめ点点とする。そして肉「月」は今の活字のように3・4画目をつける。となるようだ。
そうはいっても、筆文字だと、篆隷時代が終わると、そういうかき分ける区別は古典をみてもないようだ。漢字に限らないが、日常よく使うものは省略されたり、混同したりしても問題がなくなる。
江戸時代の候文の「候」は、なになに候なになに候って日常すぎて最後は「ゝ」になっちゃった。
さて、では、朋子ちゃんの「朋」はなんの「月」?
これはそれぞれ2つというか左右というか一対に、貝を重ねて連ねさげた形から来ているのだというのだから貝「月」にでもしたいもんだ。貝がらは財宝だったので金「月」か。いやいや財宝は人。だから仲間のことを「朋友」というんだ(ちょっとこじつけになっているか)。中国語では今でも友達を「朋友(ポンヨウ)」という。
さてさて、じゃ「青」はなんの「月」?
これも月の形をしているけど、今の漢字に直すと「丹」で、鉱物である。丹だけなら辰砂や朱砂の「あか」を意味するが、白丹や青丹があっての「青」は上に「生」があって、草色やセイという音を表した字。青も旧字の「」の方がまだわかりやすいのかもしれない。
だから「青」は「月」ではない。
楷書では「青」の「月」部の一画目は、抜かない。じゃなく、払わない、が正確か。学校でも。
そして夜に出る「月」の方には、もう一つ、今は存在感を無くした「舟づき」が混じっている。「服」や「前(部首はりっとう)」などである。
そこまでは、いいが、旧活字ではそれぞれ、夜の「月」は3・4画目は右側をつけず。舟「月」は今の舟の最終画を取り除いた感じになるが、3・4画目はななめ点点とする。そして肉「月」は今の活字のように3・4画目をつける。となるようだ。
そうはいっても、筆文字だと、篆隷時代が終わると、そういうかき分ける区別は古典をみてもないようだ。漢字に限らないが、日常よく使うものは省略されたり、混同したりしても問題がなくなる。
江戸時代の候文の「候」は、なになに候なになに候って日常すぎて最後は「ゝ」になっちゃった。
さて、では、朋子ちゃんの「朋」はなんの「月」?
これはそれぞれ2つというか左右というか一対に、貝を重ねて連ねさげた形から来ているのだというのだから貝「月」にでもしたいもんだ。貝がらは財宝だったので金「月」か。いやいや財宝は人。だから仲間のことを「朋友」というんだ(ちょっとこじつけになっているか)。中国語では今でも友達を「朋友(ポンヨウ)」という。
さてさて、じゃ「青」はなんの「月」?
これも月の形をしているけど、今の漢字に直すと「丹」で、鉱物である。丹だけなら辰砂や朱砂の「あか」を意味するが、白丹や青丹があっての「青」は上に「生」があって、草色やセイという音を表した字。青も旧字の「」の方がまだわかりやすいのかもしれない。
だから「青」は「月」ではない。
楷書では「青」の「月」部の一画目は、抜かない。じゃなく、払わない、が正確か。学校でも。
ただ、書とどう関わるか、これが難しい。
関わり方によってはすごい力を発揮するものだと感じています。