歌人松村由利子のうたのスケッチ帳(2021.5.3付毎日新聞)
人は誰でも自分を基準にしてものを考える。他者の立場にそのまま「自分」を置き換えても、想像が及ばないことは多々ある。自分のように振る舞わない人、振る舞えない人への理解は身近にお年寄りや体の不自由な人がいれば、自然に身に付くかもしれないがなかなか難しい。
「右利きのひとたちだけで設計をしたんだろうな自動改札」(本多真弓)
私も右利きのひとたちの一人なので、この歌に出合ったときにははっとした。右利きと左利きの割合はほぼ9対1という。だから駅の自動改札は多数派である右利きの人に合わせて設計されているのだろう。でも自分にとって利き手ではない左手で交通ICカードをかざす場面を想像すると、だいぶもたもたしそうだ。
「ATMに受け入れられる車椅子けれど画面が光って見えない」(小川佳世子)
車椅子に乗って金融機関のATMを利用しに来た作者。バリアフリーになっていて支障なく建物に入れたのはいいが、何ということか座った姿勢では操作画面が光ってうまく読み取れないではないか。事実を淡々と述べているが肝心なところで自分が拒まれたような状況に、言いようのない悲しみがこみ上げてきたに違いない。
「杖つきて歩く日が来むそして杖の要らぬ日が来む君も彼も我も」(高野公彦)
自分が杖をつくようになるなど若ければ若い程、健康であればあるほどなかなか想像できない。しかし作者はいつか杖をつく日がくるだろう、そしてその杖が要らなくなる日、つまり死んでしまう日も来るだろう。あなたにもあの人にもそして私にもと語りかけるように詠んだ。
体力が衰えること人に助けてもらうこと‥杖も車椅子もその延長線上ある。そうなって初めて他人の不自由さや、悲しみに気がつくのだろう。「杖の要らぬ日」まで学び続けるしかない。
80歳を超え体力の衰えをひしひしと感じ最後の歌が身に沁みます‥杖はまだ使っていませんが歩くのが遅くなり買い物などにも、杖代わりの横押しのキャリーバッグが手放せません。
人は誰でも自分を基準にしてものを考える。他者の立場にそのまま「自分」を置き換えても、想像が及ばないことは多々ある。自分のように振る舞わない人、振る舞えない人への理解は身近にお年寄りや体の不自由な人がいれば、自然に身に付くかもしれないがなかなか難しい。
「右利きのひとたちだけで設計をしたんだろうな自動改札」(本多真弓)
私も右利きのひとたちの一人なので、この歌に出合ったときにははっとした。右利きと左利きの割合はほぼ9対1という。だから駅の自動改札は多数派である右利きの人に合わせて設計されているのだろう。でも自分にとって利き手ではない左手で交通ICカードをかざす場面を想像すると、だいぶもたもたしそうだ。
「ATMに受け入れられる車椅子けれど画面が光って見えない」(小川佳世子)
車椅子に乗って金融機関のATMを利用しに来た作者。バリアフリーになっていて支障なく建物に入れたのはいいが、何ということか座った姿勢では操作画面が光ってうまく読み取れないではないか。事実を淡々と述べているが肝心なところで自分が拒まれたような状況に、言いようのない悲しみがこみ上げてきたに違いない。
「杖つきて歩く日が来むそして杖の要らぬ日が来む君も彼も我も」(高野公彦)
自分が杖をつくようになるなど若ければ若い程、健康であればあるほどなかなか想像できない。しかし作者はいつか杖をつく日がくるだろう、そしてその杖が要らなくなる日、つまり死んでしまう日も来るだろう。あなたにもあの人にもそして私にもと語りかけるように詠んだ。
体力が衰えること人に助けてもらうこと‥杖も車椅子もその延長線上ある。そうなって初めて他人の不自由さや、悲しみに気がつくのだろう。「杖の要らぬ日」まで学び続けるしかない。
80歳を超え体力の衰えをひしひしと感じ最後の歌が身に沁みます‥杖はまだ使っていませんが歩くのが遅くなり買い物などにも、杖代わりの横押しのキャリーバッグが手放せません。