現在の仕事の中でおつきあいのある利用者さん(患者さんではない)の多くが認知症を持っている。その中の何人かは重度の認知症だ。言語を介してのコミュニケーションとれない人もいれば、人の認識はもちろん、自分の見ているモノが何なのかの判別のつかない人もいる。
認知症を持つ方とおつきあいのある方はなんとなく想像がつくと思うが、自宅にいるのに「帰る!」といって聞かないとか、「盗まれた!」などと言って大暴れするようなケースには、ご家族はほとほと困り果てている事が多い。説明したところで理解も納得もできないのだから家族としては「打つ手なし・・・とほほ~」といったところだろう。
色んなケースがあるのだが、最近、強く感じることがある。一部のいわゆる「大変な」認知症の方は、若い頃からの強いストレス(原因が継続して同じ)やトラウマ、コンプレックスがここに来て一気に噴出しているような印象があるのだ。
ある男性との会話ではいつも母親への恨みつらみが根底にあった。とある女性は嫁に来てからのつらい生活、抑圧された環境が「家に帰らなくては・・・」という一種の強迫観念にも似た訴えと行動に繋がっているようだ。
いずれのケースも、機嫌の悪い時には「今日は殴られるかも(汗)・・・。」と思うほど怒りまくるのだが、じっくり顔を突き合わせて「どないしました?」と掘り下げていくと、つらい体験や思いを堰を切ったように口にする。長い時間「そうですか、大変やったねぇ。」とやっているうちに、徐々に落ち着きを取り戻すのだ。
人間は恐らく、多かれ少なかれ、心の奥底に誰にも見せない自分を持っている。その自分は自分でも認めたくない、見たくないような自分である事が多いのだ、きっと。だから元気なうちは、その自分の上に色んなかぶせ物をして隠していて、表には出さない。しかし認知症という状態になる事で上に置いていたかぶせ物が一枚一枚外れていって、ついに隠していた自分が表に晒された時、抑圧されていた自分が大暴れするのだ。何十年も封じ込められていた想いを吐き出すために・・・。
傷ついた自分は自分が認められる事を切望している。誰かに「アナタは頑張ってきたんだね。つらかったね。えらかったね。」と認められ、受け入れられたいと叫んでいる。それは認知症であっても同じことだ。
認知症は治るような病ではない。進行をゆっくりにする事は出来ても、一度死んだ脳細胞は生き返る事はない。失った記憶も能力も取り戻すのは困難だ。それはまぎれもない現実だ。だけど、心は最後まで外を向いている。例え言葉を失っても、誰かに自分を知ってほしいと何かしらの合図を送ってくる。
その声を見逃すまい。その人がどんな人生を、どんな想いで歩いてきたのか、どんな荷物を背負っているのか、じっくりと聞いてみたい。手をとりながら、微笑を交わしたい。そして「頑張ったね、お疲れ様やね。」と言いながら送りたい・・・。
おまけ:
何十年か経って、私自身が認知症を患ったとしたら、私はどんな自分を表に出してくるのだろう・・・。想像するとちょっと怖い・・・。
認知症を持つ方とおつきあいのある方はなんとなく想像がつくと思うが、自宅にいるのに「帰る!」といって聞かないとか、「盗まれた!」などと言って大暴れするようなケースには、ご家族はほとほと困り果てている事が多い。説明したところで理解も納得もできないのだから家族としては「打つ手なし・・・とほほ~」といったところだろう。
色んなケースがあるのだが、最近、強く感じることがある。一部のいわゆる「大変な」認知症の方は、若い頃からの強いストレス(原因が継続して同じ)やトラウマ、コンプレックスがここに来て一気に噴出しているような印象があるのだ。
ある男性との会話ではいつも母親への恨みつらみが根底にあった。とある女性は嫁に来てからのつらい生活、抑圧された環境が「家に帰らなくては・・・」という一種の強迫観念にも似た訴えと行動に繋がっているようだ。
いずれのケースも、機嫌の悪い時には「今日は殴られるかも(汗)・・・。」と思うほど怒りまくるのだが、じっくり顔を突き合わせて「どないしました?」と掘り下げていくと、つらい体験や思いを堰を切ったように口にする。長い時間「そうですか、大変やったねぇ。」とやっているうちに、徐々に落ち着きを取り戻すのだ。
人間は恐らく、多かれ少なかれ、心の奥底に誰にも見せない自分を持っている。その自分は自分でも認めたくない、見たくないような自分である事が多いのだ、きっと。だから元気なうちは、その自分の上に色んなかぶせ物をして隠していて、表には出さない。しかし認知症という状態になる事で上に置いていたかぶせ物が一枚一枚外れていって、ついに隠していた自分が表に晒された時、抑圧されていた自分が大暴れするのだ。何十年も封じ込められていた想いを吐き出すために・・・。
傷ついた自分は自分が認められる事を切望している。誰かに「アナタは頑張ってきたんだね。つらかったね。えらかったね。」と認められ、受け入れられたいと叫んでいる。それは認知症であっても同じことだ。
認知症は治るような病ではない。進行をゆっくりにする事は出来ても、一度死んだ脳細胞は生き返る事はない。失った記憶も能力も取り戻すのは困難だ。それはまぎれもない現実だ。だけど、心は最後まで外を向いている。例え言葉を失っても、誰かに自分を知ってほしいと何かしらの合図を送ってくる。
その声を見逃すまい。その人がどんな人生を、どんな想いで歩いてきたのか、どんな荷物を背負っているのか、じっくりと聞いてみたい。手をとりながら、微笑を交わしたい。そして「頑張ったね、お疲れ様やね。」と言いながら送りたい・・・。
おまけ:
何十年か経って、私自身が認知症を患ったとしたら、私はどんな自分を表に出してくるのだろう・・・。想像するとちょっと怖い・・・。
お昼間OTさんのレクを見ていて正直,美味しいどこどりとは思えませんわ・・。
常にやや高めのテンションを求められるし(爆)
まぁどんな仕事もキツイですが,仕事の上の役になりきれた日は良いんですが,なかなか難しいですよね。
ニコニコ笑いながら「はよ、あの世に逝きなはれ。」
なんて毒づいたりする私です(あ~怖)
先日BFB検査で,患者様に何か一文書いてみてくださいと紙を渡した所「バカ」と殴り書きしてくれたばあ様と向き合った時,私はこのタイプだなぁと確信いたしました・・。
いつもありがとうございます。世間が思うほど、認知症って簡単なモンじゃあ、ありませんよね。笑ってすむようなタイプばかりなら楽しいんですけど、深刻なケースも少なくないですもんね。おうちの中で接するのって、また外で接するのとは違うと思いますよ。頑張って下さいね。興味深い話があれば、教えてくださいね!
アクアさま
確かに、受け取る側の器を試されているように思います。人間修行が大切だ~。
夜はホンマに寝まへんな、オジジ様・オババ様方は(爆)。私は「夜のお付き合い」はないので、昼の顔しかしりませんが、ご家族とか施設は大変ですよね。
夜勤のヘルパーさん達のグチもよく耳にします。夜勤の人数って、思いのほか少ないから、ホンマ、大変そうで・・・。夜勤知らずのOTですみません(汗)。なんか申し訳ないわぁ・・・。昼間の仕事っていわば「美味しいトコ取り」ですものねぇ。
>「頑張ったね,お疲れやったね」
優しい言葉だなぁ・・。
認知症の患者様,毎日コロコロと状況が変化して次のパターンが読めないっていう怖さがあります。自分の声が「認知」出来なくなった方の声を聞き取るのは本当に困難な事でこちらが良いと思ってやってみてもうまくいかなかったり。経験だけでは語れない。こちらの器の大きさを毎日試されている様な気がします。しかし,真夜中のパーティはやめて欲しいですわ。夜は寝てくださいと切実に願ってみたりして(爆)
今日からはもっと利用者さんに対してやさしくなろうと思います。