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丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

伝えるべきこと

2007年08月04日 | 四方山話
 暑い夏がやってきた。そしてまた、広島・長崎・終戦記念日がやってくる。
 あの時代を生き延びてきた人々の高齢化は着実に進み、戦争の記憶を持った世代が一人、また一人減っていく。
 あの愚かで恐ろしい戦争の記憶は「戦後レジュームからの脱却」などと、訳のわからない言葉によって、終ってしまった事、忘れてもよい物として、過去へ葬られようとしている。そうして、戦争本来の恐ろしい実体も、生身の痛みを伴わないテレビゲームかRPGのようなものへと摺り返られてしまう。
 仕事を通して多くの高齢者と関わってきた。あえて、戦争の話を口にする機会は少ないが、それでもこの時期になるとぽつりぽつりと重い口を開いてくれる。それぞれが胸の中に重い荷物として、深い傷として、未だに抱え込んでいる。
 本来ならば、彼らが体験した事は彼らの手で残されるべきだと思う。次世代に大切な事を伝える、最良の方法だと思う。そしてそれは、あの戦争に関わった世代の責任であり義務であるとも思う。
 しかし、現実として認知症を患っていたり、そうでなくても遠い昔の話であるため、断片的で、詳細はあやふやになりつつある。そしてそれを書き残すという意欲や力も残っていない人がほとんどだ。
 私が聴いた幾つかの話を、ここに書き残しておこうと思う。私は勿論、戦争を知らない世代だが、その生の声を聞いた者として、語り部として、彼らが経験した、あの時代の記憶の断片を文字に残そうと思う。それらが風化して、無くなってしまう前に……。


「中国人とは仲良くしていた。『日本の兵隊さん、好きよ。』とおばちゃん達が言ってくれた。優しくしてくれた。
 たくさんの中国人を殺した。『よう切らんのだったら、お前を切る』と上官に言われた。塹壕の前に中国人を並べて、『南無阿弥陀仏』と思いながら、後ろから首を切った。首がポロリ、身体は塹壕の中に蹴落とした。」
(男性・南京方面に出征)

「夜中に別の部隊の入っていた塹壕の天井が落ちた。夜中だったが慌てて救出に行った。真っ暗の中、手探りで埋まっている兵隊を助け出した。
 ぐったりしている兵隊の胸を押して、心臓マッサージをした。押すたびにピュー、ピューと言う音がしていたから、生きていると思って、必死で胸を押し続けた。朝になって明るくなってから見たら、もう既に亡くなっていて紫色になっていた。ピューピュー言ってたのは、口や鼻から血が噴出す音だった。」
(男性・部隊が九州方面で待機中の話)

「満州は寒かった。風呂に入って濡れたタオルを振り回していたら、すぐに凍って棒みたいになった。
 寒さに強い兵隊を選ぶ試験(?)。水につけて濡れた手を顔の横に上げて放置する。めちゃくちゃ寒いから、すぐに手が凍ってくる。ガマンの限界になったら、『凍結!』と言って慌てて手を温めに走った。」
(男性・満州経験者)

「心斎橋にいる時に、空襲にあった。あわててそごうと大丸の近くにあった防空壕に入ろうとしたが、一杯で入れなかった。仕方なかったので、地下鉄に入って歩いて阿倍野の方面に向かって逃げた。
 歩いてなんとか家に帰ったら、家族は私が生きていた事にびっくりしていた。心斎橋は丸焼けになっていた。結局地下鉄に入った事で命拾いした。」
(女性・太子町)

「空襲にあって、必死で逃げた。橋の下にもぐりこんだら、死体が山のようになっていた。」
(女性・堺市)

「村に兵隊さんが大勢駐留していたので、民家が兵隊さんのために家を提供していた。私のうちは医務室になっていた。兵隊さんは優しくて、ご飯を作って食べさせてくれたりした。」
(女性・太子町)

「女学校では勉強なんかする時間がなかった。皆でトラックに乗って、森之宮の軍需工場へ勤労奉仕に出かけた。たまたま調子が悪くて休んだ日、空襲にあった。あやうく命拾いをした。行っていたら、巻き込まれて死んでいたかもしれない。」
(女性・太子町)

「ニューギニアの現地の人との交流もあった。生まれたばかりの赤ん坊を見せてくれたりした。生まれたての赤ちゃんは日本の子供とよく似ていた。
 機銃掃射を受けて、外の手洗いに逃げ込んだ。自分は助かったが、隣の手洗いに逃げた奴は死んだ。」
(男性・ニューギニアへ出征)



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