丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

言葉

2009年07月12日 | 四方山話
 言葉は時として嘘つきだ。物を書く事を習慣にしている私が言うのもなんだが、言葉とは時としてとんでもない罪を犯す。
 特に口から出る言葉は自分の意図とは違うように取られて、大きな誤解を招く事がある。そしてまた口から出た途端に音となって、空気に紛れて消えてしまい、検証のしようもなければ、修正もきかない。まったく厄介なものだ。
 では、書き言葉は正直かというと、実はそうでもない。書かれている行間から滲み出るような書き手の心のうちが読める。思いやりであったり、策謀であったり、嫌味であったり。
 言葉というのは不思議なものだ。たかだか記号の羅列ではないか。音を表記する音符のようなものだ。なのにその配列次第で読み手を喜ばせもするし、怒らせもする。

 時々遊びに行くサイトでとある書き込みを見た。私の書き込みのすぐ上に書かれたその書き込みは、私に対するあてつけとも嫌味とも取れる内容がたっぷりと書かれてあった。その書き込みが私に対する物であるというのがわかるのは、私とその書き手だけだ。それもわかった上での作為的な書き込み。
 いかに書き手が友人に傷つけられたか。でもその罪を許し、その友人の幸せを祈るという。表面的にはなんとも清清しく美しい言葉の羅列。それを読んでいる人はその書き手にひどく同情し、そして共感するだろう。そしてそこに書かれている書き手の友人とやらに憤慨するかもしれない。
 しかし、そこに書かれてある事は膨大な情報量の中の、極めて小さな部分の、それも曲解され歪曲された事柄である。そしてそれを知っているのは私だけ。私は見知らぬ不特定多数の人々から、「人」として扱われるわけだ。
 なんと不条理な事か……。

 まあ、いい。相当気分は悪いが、あえて何もするまい。したところで意味がない事は私が一番良く知っている。言われっぱなしというのは全く面白くないが、反論やら抗議をしたところで、事態はややこしくなるばかりだ。今まで自分の中に積み重ねてきたものが意味のない物になってしまうのは本意ではない。
 人を呪う事は、自分を呪う事。そんな莫迦莫迦しいことで自身を貶めるほど、私は莫迦ではないと自分に言い聞かせておこう。









 でも、やっぱりムカつくかな、ちょっと(笑)。

 


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