出演:松本幸四郎・武田真治・内山理名 他
作:ピーター・シェファー
演出:松本幸四郎
【概要】
1823年晩秋のウィーン。街中でとある噂が流れていた。「32年前に死んだモーツァルトはサリエーリがしくんだ暗殺だった」。しかもその噂を流しているのは、サリエーリ本人だという。老残の身であるサリエーリは自分の最期を予期し、衝撃の告白を始める。
1781年。サリエーリは宮廷作曲家として名声を誇っていた。音楽家としての成功を夢見ていたサリエーリは神に誓いを立て、人生をかけて清貧を保ち、身を律し、音楽のために生きていた。そんなサリエーリの前に現れたのがモーツァルト。天才、神童とうたわれているモーツァルトは驚くほどの軽薄で下品で女たらしでだらしない青年だったが、その作る曲を聴いたサリエーリは衝撃を受け、そして絶望する。神に一生を捧げてきたサリエーリではなく、こんなアホなモーツァルトに、何故神はその御声を聴かせるのか。何故神は御声を響かせる才能と私ではなく、モーツァルトに与えたのか……。
神に絶望したサリエーリはモーツァルトを貶めるべく、神への背徳を決意する……。
まずは一言。素晴らしい……。久しぶりに批評する気も持てないくらいに、素晴らしい芝居でした。感動しましたね。その感動も、心が震えて滂沱する……という類のモノではなく、自分自身の心の奥底の、普段は眠っている(もしくはその存在を自身で否定しようとしている)業をじりじりと引きずり出し、それをまざまざと眺めて、その姿の凄まじさと醜さに感心するというか……。ここまであさましいと、むしろ潔さすら感じさせられるというか。要するに、人間の本質、業を見事に体現されていたという事です。
松本幸四郎の生舞台は初めて観ました。なんとスゴイ俳優でしょうか。その存在感の大きさは、申し訳ないですが武田真治ごとき若い役者など足元にも及びません(いや、彼はこれからですからね。今からあんな存在感があったらえらい事かもしれませんが)。マント一枚かぶれば死期を間近に控えた老醜のサリエーリ、マントを脱げば一瞬で輝かしい時代を生きるサリエーリ。その変わりっぷりは、一種歌舞伎の早変わりに近いものがありました。そして、何よりも、間! 間ですよ! 超長~~~~~~いセリフ、というよりはサリエーリはほとんど幕の向こうに消えることはありません。ずっとしゃべってます。サリエーリの回想という形の芝居なので、ほとんど独白で話がすすむんです。その、恐ろしい長台詞を、ちゃんと意味のある言葉として聴かせる事がどれほど難しいか! だってね、小劇団の芝居やシェイクスピアの芝居ではよく早口の長台詞が登場しますが、あれ、聞き取れる人がどれだけいます? シェイクスピアは戯曲を知っているから、なんとなく意味が理解できるけど、あんなもん、全く予備知識がなけりゃどれだけ理解できるかは疑問ですぜ(笑)。
だがしか~し! 松本幸四郎のサリエーリは語るのです。時には熱く、時には訥々と、時にはたぎり、時にはむせび泣き……。そして観客に切々とその心情が伝わってくる。何故? 間ですね、きっと。再演400回というのは伊達ではありません。練りに練られ、計算しつくしされた、絶妙の間。台詞の間、動きの間。どこをどうとってもピッタリはまる。寸分の隙もなし。……きっとこの芝居はアドリブは皆無でしょうな。
そしてその演技職人・松本幸四郎が演じるサリエーリの業の凄まじさには快感すら覚えるのです。
ちょっとネタバレですので、読みたくない人はすっ飛ばしてくだされ。
結局、モーツァルトの才能に感服し、ねじ伏せられ、自分の無能さとモーツァルトの才能を見分ける能力を与えられた事に絶望と怒りを覚えたサリエーリは神への復讐として、モーツァルトを転落させていくように仕向けて行きます。で、最終的にモーツァルトは貧乏のどん底で惨めな最期を遂げ、その亡骸は共同墓地に埋葬されます。サリエールの望んだとおり、モーツァルトの人生は悲惨な結果で終わった訳ですが、彼の作品は子々孫々、未来永劫、人々に愛され、モーツァルトは永遠の名誉を得る事になります。そして老サリエールは一つの手段を選びます。「モーツァルトを殺した人物として歴史に名を残す」。そのために自分がモーツァルトを暗殺したという噂を流し、自ら命を絶とうとします。が、結局死に切れず、巷の人々は口々にこう言う言います。「サリエーリがモーツァルトを殺した? そんなありえない。誰がそんな事を信じるものか」
皮肉だ~! 人生は、とことん皮肉だ~~~~~!
サリエーリの苦悩が、地獄の業火のような嫉妬が、凡庸な才能しか持ち合わせない事への絶望が、ものすごーくわかる!! 彼が自殺を図る時に、「私は凡庸なる者の守護者となる」と叫びながら自分の喉を掻き切ります。どうですよ、この潔いまでの愚者の叫び! 愚者の一員である私としては、このサリエールの言葉がぐりぐりと胸元にねじ込まれるような気分でしたね……。蛇足ではございますが、実際のところ、サリエーリという人はそれほど埋没した存在ではないらしいです。コアなクラシックファンならきっとご存知でしょう。……私は知りませんでしたが(笑)。
ふと、旧約聖書に出てくるヨブ記を思い出しました。ヨブは神を心から信じ、清く正しく生活し、神の恵みを受けて豊かな生活をしています。ある日、サタンが神様に言います。
「あのヨブっちゅうじいさんは、えらい熱心に神様を拝んではりまっけどな、あいつの心がホンマモンかどうか、試してみてもよろしいか」
神様は、
「どうぞ。やってみはったらよろしいがな」
と、答えるのです。
その後、ヨブは踏んだり蹴ったりのえげつない目に次々と遭います。息子達は死ぬは、財産は失うは、自分は病気にかかるは、もう、ぼろぼろ。最初のうちは頑張って耐えていたヨブじいさんですが、だんだん心が揺らいでいきます。そして最後は、
「今までわしゃ、神様のために一生懸命生きてきました。その見返りがこの仕打ちですか~? 神様はわしの祈りなんか聞いてくれはれへんのや~。なんでこんな目にばっかり遭わされるんじゃあああ」
と、絶望し、神様から離れるのです。
ね? サリエーリみたいでしょ?
でも、最後は大きく違います。神様はヨブの前に現れて、自分がどれだけ超越した存在であるかをこれでもかこれでもかと説教します。ヨブはひたすら平身低頭して神様のお叱りを受けて、最終的には信仰を取り戻します。
「いやはや、わしが間違っておりました。神様は超越した存在で、人間ごときのレベルで物事を考えるようなお方ではないっちゅう事がようわかりました。わしらはひたすら、ただひたすら、神様の威光の前にひれ伏して、謙虚に、生かされている存在ちゅうことがようわかりました。えらい災難が起きたからってそれを神様に文句言えるような、そんなレベルやおまへんちゅうことが、ようわかりました」
すると神様は、「よしよし、わかっとったらエエんや」とばかりに、ヨブが失った全ての物を取り戻し、今まで以上の繁栄を与えるのです。
サリエーリも神様を呪わずに、ひたすらモーツァルトの才能を讃え、神様を信じたまま、自分に与えられた事をしていれば……。きっと、こんな面白い芝居にはならなかったでしょうな(爆)。
人間って莫迦ね~~~。でも、そんなところが好き♪ ありがとう、サリエーリ。
作:ピーター・シェファー
演出:松本幸四郎
【概要】
1823年晩秋のウィーン。街中でとある噂が流れていた。「32年前に死んだモーツァルトはサリエーリがしくんだ暗殺だった」。しかもその噂を流しているのは、サリエーリ本人だという。老残の身であるサリエーリは自分の最期を予期し、衝撃の告白を始める。
1781年。サリエーリは宮廷作曲家として名声を誇っていた。音楽家としての成功を夢見ていたサリエーリは神に誓いを立て、人生をかけて清貧を保ち、身を律し、音楽のために生きていた。そんなサリエーリの前に現れたのがモーツァルト。天才、神童とうたわれているモーツァルトは驚くほどの軽薄で下品で女たらしでだらしない青年だったが、その作る曲を聴いたサリエーリは衝撃を受け、そして絶望する。神に一生を捧げてきたサリエーリではなく、こんなアホなモーツァルトに、何故神はその御声を聴かせるのか。何故神は御声を響かせる才能と私ではなく、モーツァルトに与えたのか……。
神に絶望したサリエーリはモーツァルトを貶めるべく、神への背徳を決意する……。
まずは一言。素晴らしい……。久しぶりに批評する気も持てないくらいに、素晴らしい芝居でした。感動しましたね。その感動も、心が震えて滂沱する……という類のモノではなく、自分自身の心の奥底の、普段は眠っている(もしくはその存在を自身で否定しようとしている)業をじりじりと引きずり出し、それをまざまざと眺めて、その姿の凄まじさと醜さに感心するというか……。ここまであさましいと、むしろ潔さすら感じさせられるというか。要するに、人間の本質、業を見事に体現されていたという事です。
松本幸四郎の生舞台は初めて観ました。なんとスゴイ俳優でしょうか。その存在感の大きさは、申し訳ないですが武田真治ごとき若い役者など足元にも及びません(いや、彼はこれからですからね。今からあんな存在感があったらえらい事かもしれませんが)。マント一枚かぶれば死期を間近に控えた老醜のサリエーリ、マントを脱げば一瞬で輝かしい時代を生きるサリエーリ。その変わりっぷりは、一種歌舞伎の早変わりに近いものがありました。そして、何よりも、間! 間ですよ! 超長~~~~~~いセリフ、というよりはサリエーリはほとんど幕の向こうに消えることはありません。ずっとしゃべってます。サリエーリの回想という形の芝居なので、ほとんど独白で話がすすむんです。その、恐ろしい長台詞を、ちゃんと意味のある言葉として聴かせる事がどれほど難しいか! だってね、小劇団の芝居やシェイクスピアの芝居ではよく早口の長台詞が登場しますが、あれ、聞き取れる人がどれだけいます? シェイクスピアは戯曲を知っているから、なんとなく意味が理解できるけど、あんなもん、全く予備知識がなけりゃどれだけ理解できるかは疑問ですぜ(笑)。
だがしか~し! 松本幸四郎のサリエーリは語るのです。時には熱く、時には訥々と、時にはたぎり、時にはむせび泣き……。そして観客に切々とその心情が伝わってくる。何故? 間ですね、きっと。再演400回というのは伊達ではありません。練りに練られ、計算しつくしされた、絶妙の間。台詞の間、動きの間。どこをどうとってもピッタリはまる。寸分の隙もなし。……きっとこの芝居はアドリブは皆無でしょうな。
そしてその演技職人・松本幸四郎が演じるサリエーリの業の凄まじさには快感すら覚えるのです。
ちょっとネタバレですので、読みたくない人はすっ飛ばしてくだされ。
結局、モーツァルトの才能に感服し、ねじ伏せられ、自分の無能さとモーツァルトの才能を見分ける能力を与えられた事に絶望と怒りを覚えたサリエーリは神への復讐として、モーツァルトを転落させていくように仕向けて行きます。で、最終的にモーツァルトは貧乏のどん底で惨めな最期を遂げ、その亡骸は共同墓地に埋葬されます。サリエールの望んだとおり、モーツァルトの人生は悲惨な結果で終わった訳ですが、彼の作品は子々孫々、未来永劫、人々に愛され、モーツァルトは永遠の名誉を得る事になります。そして老サリエールは一つの手段を選びます。「モーツァルトを殺した人物として歴史に名を残す」。そのために自分がモーツァルトを暗殺したという噂を流し、自ら命を絶とうとします。が、結局死に切れず、巷の人々は口々にこう言う言います。「サリエーリがモーツァルトを殺した? そんなありえない。誰がそんな事を信じるものか」
皮肉だ~! 人生は、とことん皮肉だ~~~~~!
サリエーリの苦悩が、地獄の業火のような嫉妬が、凡庸な才能しか持ち合わせない事への絶望が、ものすごーくわかる!! 彼が自殺を図る時に、「私は凡庸なる者の守護者となる」と叫びながら自分の喉を掻き切ります。どうですよ、この潔いまでの愚者の叫び! 愚者の一員である私としては、このサリエールの言葉がぐりぐりと胸元にねじ込まれるような気分でしたね……。蛇足ではございますが、実際のところ、サリエーリという人はそれほど埋没した存在ではないらしいです。コアなクラシックファンならきっとご存知でしょう。……私は知りませんでしたが(笑)。
ふと、旧約聖書に出てくるヨブ記を思い出しました。ヨブは神を心から信じ、清く正しく生活し、神の恵みを受けて豊かな生活をしています。ある日、サタンが神様に言います。
「あのヨブっちゅうじいさんは、えらい熱心に神様を拝んではりまっけどな、あいつの心がホンマモンかどうか、試してみてもよろしいか」
神様は、
「どうぞ。やってみはったらよろしいがな」
と、答えるのです。
その後、ヨブは踏んだり蹴ったりのえげつない目に次々と遭います。息子達は死ぬは、財産は失うは、自分は病気にかかるは、もう、ぼろぼろ。最初のうちは頑張って耐えていたヨブじいさんですが、だんだん心が揺らいでいきます。そして最後は、
「今までわしゃ、神様のために一生懸命生きてきました。その見返りがこの仕打ちですか~? 神様はわしの祈りなんか聞いてくれはれへんのや~。なんでこんな目にばっかり遭わされるんじゃあああ」
と、絶望し、神様から離れるのです。
ね? サリエーリみたいでしょ?
でも、最後は大きく違います。神様はヨブの前に現れて、自分がどれだけ超越した存在であるかをこれでもかこれでもかと説教します。ヨブはひたすら平身低頭して神様のお叱りを受けて、最終的には信仰を取り戻します。
「いやはや、わしが間違っておりました。神様は超越した存在で、人間ごときのレベルで物事を考えるようなお方ではないっちゅう事がようわかりました。わしらはひたすら、ただひたすら、神様の威光の前にひれ伏して、謙虚に、生かされている存在ちゅうことがようわかりました。えらい災難が起きたからってそれを神様に文句言えるような、そんなレベルやおまへんちゅうことが、ようわかりました」
すると神様は、「よしよし、わかっとったらエエんや」とばかりに、ヨブが失った全ての物を取り戻し、今まで以上の繁栄を与えるのです。
サリエーリも神様を呪わずに、ひたすらモーツァルトの才能を讃え、神様を信じたまま、自分に与えられた事をしていれば……。きっと、こんな面白い芝居にはならなかったでしょうな(爆)。
人間って莫迦ね~~~。でも、そんなところが好き♪ ありがとう、サリエーリ。
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