阪神淡路大震災から二十年が経った。もう二十年も経つというのに、思い出そうとすると昨日の事のような鮮明さであの日のあの瞬間が蘇る。多分、あの瞬間を経験した人は皆そうだろう。あの日の記憶は二十年も経つと言うのに生々しい感触と湿り気を帯びていて、過去と言う扉を押しあけて自分から這い出てくる。
大阪の果てに住んでいる身としては、直接的な被害はほとんどなかった。それでも、あの朝の揺れは今のところの人生の中で最も大きい揺れだったし、食器棚が倒れそうになるのを母と二人で必死で押さえていた時の恐怖と不安に満ちた心持はいまだあの時以外にはまだ感じたことがない。
揺れが治まってから慌ててつけたテレビはブラックアウトしていたが、パニックになっているスタジオの音声だけが流れていた。
ラジオに切り変えたらのんびりと東京の放送が流れていた。六時になってようやく地元放送局の番組に切り替わり、朝のパーソナリティーが阪神高速崩落の一報を車載の電話で報告していた。
慌てて神戸の友達に電話をしたら、そいつはやたらのんびりしていて、「やぁ~、よう揺れたなぁ……」とのんきな感想を述べていたが、実は停電で家の中がどうなっているかその時点では全く分からなかったらしい。その後神戸方面とは全く電話がつながらなかったので、明るくなってからどれほどびっくりしたかなどという話を聞いたのは十日以上あとの事。
都市機能が死に、人の流れも物の流れも途絶え、電話すらままならない。
二日経ち、一週間経ち、十日経ち、一カ月が経ち、それでも生活の中に震災は続いていた。
夏の初めに東京の知人と会った。彼が言った言葉が衝撃だった。
「こっちはまだ震災が続いているんだね。東京は悪いけど、あの後サリン事件があったりしただろ? すっかり震災の事は忘れてたよ」
……それが現実なんだと思った瞬間でもあった。
二十年、色んな災害が起こった。東日本大震災、台風被害、広島の土砂崩れ、御嶽山噴火、記憶に新しいところだけどもこんなにある。そしてまだまだきっと色々な災害が起こる。
チビ共は震災を知らない。今のところ大きな災害を直接経験してはいない。それは本当にありがたいことだ。しかし、きっと彼女達が生きている間にはまた大きな地震に遭遇してしまうようなこともあるのだろう。彼女たちの命を、体を、生活を、どうやって守ってやったらいいだろう。彼女達のために過去の災害の経験を、自分の記憶をどう使ったらいいのだろう。
そんな事を考える二十年目の一月十七日。
大阪の果てに住んでいる身としては、直接的な被害はほとんどなかった。それでも、あの朝の揺れは今のところの人生の中で最も大きい揺れだったし、食器棚が倒れそうになるのを母と二人で必死で押さえていた時の恐怖と不安に満ちた心持はいまだあの時以外にはまだ感じたことがない。
揺れが治まってから慌ててつけたテレビはブラックアウトしていたが、パニックになっているスタジオの音声だけが流れていた。
ラジオに切り変えたらのんびりと東京の放送が流れていた。六時になってようやく地元放送局の番組に切り替わり、朝のパーソナリティーが阪神高速崩落の一報を車載の電話で報告していた。
慌てて神戸の友達に電話をしたら、そいつはやたらのんびりしていて、「やぁ~、よう揺れたなぁ……」とのんきな感想を述べていたが、実は停電で家の中がどうなっているかその時点では全く分からなかったらしい。その後神戸方面とは全く電話がつながらなかったので、明るくなってからどれほどびっくりしたかなどという話を聞いたのは十日以上あとの事。
都市機能が死に、人の流れも物の流れも途絶え、電話すらままならない。
二日経ち、一週間経ち、十日経ち、一カ月が経ち、それでも生活の中に震災は続いていた。
夏の初めに東京の知人と会った。彼が言った言葉が衝撃だった。
「こっちはまだ震災が続いているんだね。東京は悪いけど、あの後サリン事件があったりしただろ? すっかり震災の事は忘れてたよ」
……それが現実なんだと思った瞬間でもあった。
二十年、色んな災害が起こった。東日本大震災、台風被害、広島の土砂崩れ、御嶽山噴火、記憶に新しいところだけどもこんなにある。そしてまだまだきっと色々な災害が起こる。
チビ共は震災を知らない。今のところ大きな災害を直接経験してはいない。それは本当にありがたいことだ。しかし、きっと彼女達が生きている間にはまた大きな地震に遭遇してしまうようなこともあるのだろう。彼女たちの命を、体を、生活を、どうやって守ってやったらいいだろう。彼女達のために過去の災害の経験を、自分の記憶をどう使ったらいいのだろう。
そんな事を考える二十年目の一月十七日。
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