daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

名句か否か?

2014年10月13日 | 俳人 - 鑑賞
             

句界の未来を案じて持論を述べるのは一向に構わないと思う。
実際、俳論を述べた文は多いが、俳句を鑑賞する文は少ない
私がこんなふうに想ってしまうのはどうしてだろうか‥?
以下、茶色文字は以前にモノした私の「俳句鑑賞」の文です。

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                 aruq 2009年11月10日(火) 23:16:48


☆ いくたびも雪の深さを尋ねけり   正岡子規

◎私は、この句に大きな疑問が感じられてならない。

1) いくたびも雪の深さを尋ねた人物は、誰でしょうか?
2) 深さを尋ねた雪は、果たして何処の雪でしょうか?
3) 深さを尋ねた雪は、いつごろ降った雪でしょうか?

正岡子規の高弟たちはこの点をどのように説明しているのでしょうか?
高浜虚子・河東碧梧桐ほかの多くの弟子たちはどう解釈したのか?
東大の教授でもある弟子・夏目漱石や寺田寅彦はどう述べたのか?

詠んだのは明治29年暮れごろではないかと考えられているようです。
正岡子規は病の床で・窓の外に降る雪を見ながら詠んだのでしょう。
病床で詠んだことを証明する資料に「病中雪(三句)」とあるようです。
・いくたびも雪の深さを尋ねけり     子規
・雪の家に寐て居ると思ふ許りにて   子規
・障子明けよ上野の雪を一目見ん    子規

それでも、この句に詠み込まれた雪が病床で見た雪とは言えない。
私には「子規が昔を思い出して詠んだ」かも知れないと考えられる。

子供のころですけど、大雪が降って大騒ぎしたことがあります。
どのぐらい降った?沢山積もった?滑れる?…しつこく尋ねました。
朝になったら早速、雪を集めて山を作りました。もちろん、滑るため 。
私たちは板をソリ代りにしたり、スキー板代りにして滑って遊びました。

降る雪を見て、子規はそんな昔を思い出して重ねていたのでしょうか。
それなら、子規の子供の頃、故郷に降った雪を詠ったのかも知れない。

もう一つ、私が疑問に思うのは「雪の深さ」です。
「雪に深さ」があるとするなら、その雪でスキーを滑るのも可能になる。
「雪に深さ」がなければ「雪の厚み」とでも表現するのではないだろうか?
当時、子規が療養していた室で見た雪は滑れるほど積ったのだろうか?

☆ いくたびも雪の深さを尋ねけり   子規

もしも、この句に詠った雪が病床で見た窓の外の雪だとしたら、
この句は「駄句」以外のナニモノでもないのではないだろうか?
「私は何回も積雪の深さを尋ねました」では、なんとも詰らない。

そんな駄句は子規の日記に残しておく程度の意味・価値しかない。
報告俳句は個人の日記に記録として残すのは構わないでしょう。
だが、駄句を子規の代表作の一つとして俳句史に遺して好いだろうか?
子規の句を高弟・東大教授たちが駄句扱いしたと考えて好いだろうか?

★駄句に見える子規の句だが、実は駄句ではないのではないか?


☆ いくたびも雪の深さを尋ねけり   子規

即ち、この句の正しい読み方は別にあるのではないだろうか。

◆昔、(私は)何回も雪の積もり具合を尋ねたっけなあ…。
◆昔、(兄さんたちと)雪の積もり具合を尋ねたもんだなぁ…。
◆思えば、(子供たちは)雪の積るのを何回も尋ねてたことだなあ…。

このように読んだとき、私たちは病床の子規の束縛から解放される。
この句を子規に則して読むのでなく、私たちの自由に読めるのです。
俳句は自由に読んで構わない、いや、自由に読まなければならない。
読み手の立場での自由な解釈がなされるのでなければ、詩ではない。

降る雪を見ながら、かつての出来ごとに思いを馳せた子規なのです。
私たち各自の「降る雪への想い・記憶」を引き出して味わって良い。

即ち、
雪がどのくらい積ったかと気になり、何遍も尋ねたことがあったなあ!

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「これは名句だ」とか「巧く出来ている」とか、評論・俳文もいいが、
その評論で俳句作りを始めた初心者・新人さんに何を伝えるお積りか?
色々とお忙しいのは分かるが、ドヤ顔で評論して済ませてはいないか?
他人の句に一時間も掛ける暇はないなら、暇つぶしに読んでいるんだ。
そりゃあ、もっともらしい文章を書いて突っ込まれたくはないだろう。

それにしても自分の俳句鑑賞文を批判されないための警戒心は必要か?
ドラマも小説も絵画もシビアに評論され・評論に耐えるのではないか?
俳句界だけがどうして時代遅れなんだ‥疑問に想ったことはないのか?
いやいや、私は俳人がどうのと言っているのではありません。
出版関係が身内で固めて安泰を図っているのではないか‥と言いたい。

俳句関係の出版業界よ、だれにゴマを擦っているのですか?
無名の私でさえも鑑賞文を書いて発表している‥況してやあなた方は?
句界の近代化は有季・無季とか自由律・定型とかで図れる物ではない。
それなのに近代化を語るとき鑑賞文の一つも載せられない実状・事情、
鑑賞文こそガンガン突っ込まれて好いじゃないか…と私は思うのだが。


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