細見綾子氏の俳句は好きだし真似られるものなら真似たい。
ところがそうはいかないのだが、悔しくもない‥な~でか?
ピカソの絵は‥児戯に見えて、だけど真似られないでしょ?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
aruq 2009年11月15日(日) 11:03:16
そら豆はまことに青き味したり 細見綾子氏
えんどう豆も枝豆も青くさいけど、そら豆はもっと青くさい。
分厚い甘皮は小父さんの顔のようで、可愛くないイメージ。
私はそんなそら豆の青い味がとっても苦手な子供だった。
それに私は、そら豆の甘納豆にまだ出合ったことがない。
そんなそら豆を嬉しそうに炊く母が恨めしく・不思議だった。
大人になったら意識しなくなる青さに気づくのは子供の時。
作者がそら豆を好きか苦手か、この句からは分からない。
但し、そら豆をつよく意識したらしいことは確かなようです。
この句、そら豆を一句一章仕立てで・只ただ写生している。
それだけの句ですけど、そら豆の強烈な印象を思い出す。
どこがどう好いのか、説明のしようがない細見綾子・俳句。
目撃した事実「そのまま」を淡々と詠っている細見綾子氏。
彼女の優れた点はきっと・驚きを発見する眼なのでしょう。
誰でも知っているけど忘れていた記憶を呼び覚ます俳句。
そうなんだ・そうだった・確かにそう、みんなが共感する句。
豆に好き嫌いはあっても、だけど共感する場ができている。
この細見氏に傾倒しているのが甘納豆の坪内念典氏です。
哲学も論理も感じられない俳句作りの両者の共通点は何?
共感する場の提供が、両者の喜びだと言えないでしょうか。
そしてその喜びの根源に両者の哲学・思想が見えそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
普通「それがどうしたの?」となる所だが、そうならない、
この句は説明してるだけでしょう‥だけど何か違うでしょ、
感性の違いを見せつけられては見惚れるしかないでしょう。
___