私の5年前のこの記事、イマイチだと思った
俳句は詠み手と読み手のコラボレーションなのに読みが甘い
今日は丁度、ジョニーに触れたところだったから付足します。
(なお、aruqは以前に使用した私の別ハン)
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aruq 2009年11月15日(日) 22:56:51
紅い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
これは河東碧梧桐の代表作とされている俳句のようです。
それにしても、このフレーズをあなたは理解できますか?
そのまま読めば、紅い椿の花と白い椿の花が咲いている。
それで、赤い椿の花がポトリと落ちたということらしい。
それに続いて、白い椿の花がポトリと落ちたのでしょう。
さて、事情を知らない読み手には何のことやら分らない。
真面目な読み手は真剣に「椿」って何だろうって考える。
ともかく、取っ掛りはいっぱい有るけど確信が持てない。
紅い?白い?落ちるって?これは判じ文じゃないのか…。
否々、判じ文にも成っていない文字の羅列でしかない…。
そう考えたとき、こんなフレーズを詩と言えるだろうか。
これを詩というならば、詩の定義を先に述べるべきです。
これを俳句というならば、俳句の定義を述べるべきです。
定義を述べられず「俳句」というなら恥知らずな輩かな。
因みに、若き寺田虎彦の目には赤白の激しい炎に見えた。
赤白の炎に見えたのは好いが、その説に説得力はあるか。
革命の炎が打ち上がり、赤い炎が落ち、白い炎が落ちた。
赤と白の差は何か。碧梧桐に関するモノか、違うモノか。
フレーズを見た視聴者にTVスイッチを入れさせる為の、
この番組は面白そうだなと思わせるだけが目的のコピー。
このフレーズがテレビ番組の集客用のコピー文なら好い。
中身のない番組にコピー文で視聴率をあげる魂胆も許す。
だがそれが俳句だというなら、なんと下らないのだろう。
俳人・詩人は、言葉の力を利用する者か、悪用する者か?
文壇が、反動思想の巣窟と目される根拠は何でしょうか?
この句「紅い椿」が平和を目指さなければ混乱を招こう。
この句に男性は「戦争」更に「戦勝」を想像し勝ちです。
戦場に咲く一輪の花のイメージはドラマチックでしょう。
戦場に咲いた花であっても「紅い椿」には何の罪もない。
その「紅い椿」を好きな人は多いし、それは理解できる。
だけどもう一歩深く踏み込んで考えてみたいと思います。
戦場に椿を植えたり・兵隊を送り込んだのは誰でしょう。
もちろん、それが誰であれ・椿や兵隊に罪はありません。
戦場に咲く花・戦場に散る兵隊…人間って哀しい生き物。
人も花も戦争に関わりなく生きられたら好いのでしょう。
戦争は人間を分類する…否、憎しみは人間を分類します。
人間を分類する方法は結局、つぎのどちら寄りが良いか。
■人間を「味方・傍観者・敵」に分類していく思想。
未来を見ず・人間を敵にして・家族をないがしろにする。
■人間を「同志・傍観者・敵」に分類させない思想。
今日を辛抱し・未来を見て・人間の味方になろうとする。
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赤い椿と白い椿は時間差はあっても両者ともに落ちた
両者ともに‥これを見落としては反戦思想にならない
いやいや、まだまだな私だと反省しきり。
戦場へ送られる兵隊は赤も白も悲惨な目に遭う人たち
戦争責任者は敵だというがそうじゃない‥同じ人間だ
同じ人間を殺しに行けという政府があるなら‥邪悪だ
総理大臣がなぜ日本にいるのだ。絶対オカシイだろう?
戦争になるかも知れなければ世界行脚に行くべきだろ?
戦争をしないためにニコニコ外交で年中行くべきだろ?
訪問先の国で暗殺される外交を総理大臣はしないだろ?
平和外交がイヤな総理大臣は軍備増強を考えるのだろ?
日本はジョニーを生まない政治が好いのじゃないかな。
直前の私の記事ジョニー、
ジョニー繋がりでチト激しい文章になったかな(^◇^)
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